一般に[学校の「良い側面」「楽しい側面」]とされているものを含めた[学校という存在=仕組み=ありよう」そのものが苦痛だった子供が、オトナになってから、その苦痛を生み出す存在を構成する一部(即ち学校教師)となって、かつての自分のような生徒を「救おう」と志すのは、子供の時に巻き込まれた戦争で散々ツライ思いをした人間が、オトナになってから自ら進んで軍人となり、戦争の現場で苦しんでいる子供たちを救おうとするような、超人的な(あるいは悲壮な)決意もしくは挑戦に思える。
いじめ、学力の低下、不登校、自殺(未遂)。それぞれの現象は、それぞれの「結果」であり「原因」である。因果が指差し合っているのなら、問題の本質は他にある。全てに共通するもの、それは「状況設定」としての「学校」だ。
何かしらの具体的な理由で、あるいは特別何かあるというわけでもなく、ともかく学校というものに違和感や嫌悪感や息苦しさ、つまり「えもいわれぬ恐怖」を感じ、そこから距離を取りたがっている子供たちにとって、はっきりとわかっていることは、全ての元凶は[学校という状況設定]そのものだということ。いじめをやめない同級生や上級生、助けてくれない友達や先生、何も知らない呑気な親は、[学校という状況設定]から生み出される「症状」にすぎない。とにかく「学校」なのだ。
「学校という状況設定」自体が問題の本質だと気づきつつ、その中の一員(あるいは「一因」)となって、かつての自分のような子供を救おうとすることは、敢えて「対症療法」に徹するということ。あるいは「緩和治療」に全力を尽くすということ(なぜなら、軍人に戦争は無くせないように、医者に死は無くせないように、学校教師に「学校」は無くせないから)。待っているのは徒労感か、よくて(?)自己満足。飢えた虎に自らを食べさせた前世のお釈迦さんと同じ。
「学校」に苦しんだことない「元子供」は、「学校」自体が苦しみの根本原因だとは夢にも思わないので、他の原因(いじめ、勉強、成績、友人関係、家庭環境など)を「でっち上げ」て、そのでっち上げの原因(実は症状)を「解決」できたら、治った治った、これでもう安心して楽しく学校に来れるでしょうと言う。しかし「学校」それ自体が原因だと「気づいてしまった」子供は、それ以降、地雷原を歩くようにして、なんとか卒業までたどり着く。
いずれにせよ、今あるような「学校(という状況設定)」の「異様さ」に対する認識が一般化するまで、あと半世紀はかかるだろう。知らんけど。
(2021年6月29日 火曜日)