鏡の中の顔の額の部分に切れ込みがあって、薄く隙間ができている。蓋がきちんと閉まっていないのだ。ここは日常的に開ける箇所ではない。少し持ち上げてみたら、中身が見えたので、ぎょっとして急いで閉めた。パカパカしないようにニット帽をかぶって、クリニックに行った。
「盗まれましたな」
天井から伸びた8本の腕をしまいながらエリエリは云った。
「何を?」
「何って、脳ですよ。ほら、ありませんな」
エリエリは空中のスクリーンに、今調べた頭の中の映像を映し出す。
「どれが脳?」
「どれって、この何もないところにあったんです。今世間を騒がせている脳泥棒ですよ。それにやられたんですな」
脳泥棒。確かにニュースで聞いた。まさか自分が被害に遭うとは。
「戸締りをしないで寝たでしょう?」
「戸締り?」
「最近、ヒトが街に入り込んでいるらしいのです。連中の仕業です」
「まさか」
とは云ったものの、抜け出したり、忍び込んだり、盗んだりというのは、確かにイキモノの特性だ。
「しかし、なぜヒトが街に入り込めたんでしょう?」
エリエリが換えの脳をはめ込み、そちらに切り替えた瞬間、アタマがぼうっとなった。「気分はどうですか?」「大丈夫です」
エリエリは新しい脳で設定と再登録をしてくれた。
「まだどこかに独自の教育を続けているヒトの集落でもあるのでしょう。そういうところで育ったヒトには、それなりの知恵がありますから、街にこっそり侵入するくらいのことはするでしょうよ」
「なぜヒトはこんなことをするんだろう?」
エリエリはハハハと笑った。
「高い知性が欲しいのですよ。我々の脳にそれがあると思い込んでいるのです」
「脳を盗んでも、利用のしようがないでしょう?」
「なんと、食べるらしいんです」
「バカな」
「発想がいかにもヒトです。賢いと云っても所詮ただのイキモノですからなあ」
「駆除はしないんですか?」
「大した実害はないので基本的には放置ですよ」
「活動は把握してると?」
「全て。イキモノは排泄や摂食などで様々な物質が環境中に残します。何より呼吸によって周辺の空気に変化が現れますから一目瞭然ですよ。御覧なさい」
エリエリは台場市の地図を示した。赤い軌跡が点滅してる。
「ヒトが活動した跡です。残したフンや呼吸による空気成分の変化から簡単にわりだせるのです」
昨夜の軌跡を見せてもらうと、赤い線が自宅周辺を行き来していた。
「なるほど。ウチにも来たようです。なんか、イヤだなあ…」