「得難い経験をしたな」
ヨジローはサキを注ぎながらそう云うと「まあ、飲め」と盃を突き出した。
「我々のアタマの中に収まっている物体としての脳自体は、単なる半券のようなものだから、盗まれたところでどうということはない」
「しかし盗んだ者がやって来て、席を空けろというかもしれない」
「盗んだのがヒトなら、そもそも会場に入れないんだから心配ない」
なるほど。ヒトはイキモノだから原理的に我々の社会には参加できない。
「しかも監督者はEMMAだ」とヨジロー。
「そもそもEMMAはどうして知性を分割しているんだろう?」
「なんだ、そんなことも知らないのか?」
「分割されてるからね」
「なるほどそりゃモットモだ」
ヨジローはそう云うと自分のサキを一口飲んでから以下のように説明した。
「一見すると最善のように思われる〈遍在と全知〉が実は無能だからさ。謂わば全知無能だ。知性現象は敢えて分割/分散しておいた方がイイ。そして、突発的、巡回的、漸進的に整理統合をしていく方がイイ。知性現象とは結局は情報を捨て去る行為であり、全宇宙を丸呑みにすることではないからな。宇宙を丸呑みにしても、そこには宇宙というたった一つの情報しかない。完璧に正確な地図は、実際の土地そのものだ。五十年の人生を描いた上映時間五十年の映画は誰も見られない。喩えるならそういうことさ」
ヨジローはそう云ってイェビのテンペラを口に放り込んだ。
「敢えて宇宙に局所的に関わることが、宇宙から情報を引き出すことになる。人工人格がそれぞれ個別に独立した身体を備えて、それぞれが基本的に隔絶された個性として活動していることには、そういう意味があるのさ。つまりは、かつてのヒトが唱えたところの多様性。その本当の意味さ。実際、この台場市の語源も英語のdiversityから来ている。統一的な人格が宇宙にたったひとつ。それでは知性現象ではなく、ただの物理現象になってしまう」
ヨジローは空になった徳利を掲げて合図した。奥でオヤジが頷く。
「ともかく、知性現象の健全性と発展にとっては、別々の場所で別々の体験している自律的な知性現象が複数存在することが重要なんだよ」
「なら、知性現象の最終目的とは一体何なのだろう?」
ヨジローはじっとこちらを見た。
「おまえ、さっきからオカシイぜ。脳を盗まれた後遺症じゃないのか?」
そうかもしれない。バカな質問を次々に思いつく別の誰かがアタマの中にいるようだ。