2020年2月29日土曜日

テレビ放送を録画してあった『翔んで埼玉』を観た。『パタリロ』の作者の原作とは知らなかった。しかも30年前の。しかし、そう思って観ていると確かにパタリロだ。元祖BL(ただしギャグ漫画を隠れ蓑にした)のあの世界だ。充分楽しめたが、関東圏の人たちはもっと楽しいのだろう。

「空気tasiting」と「動け、僕の足!」


「若造」のスタンドプレー感がなくもない北海道の「非常事態宣言」だが、そのおかげで、朝から外が静かで好い。幹線道路が交差する場所のすぐ近くに住んでいるので、不自然に「静か」なのがよくわかる。なんというか、空気の音が違う。雪が降り積もると、音波が積もった雪に吸収されて、いつも以上に静かになるけど、あの感じに似てなくもない。さっきちょっと用事で外に出たら、人通りもマバラで、散歩するならむしろ今日だろう、と思ったくらい。無論、店などどこにも寄らず、ただひたすらヒトケのない道を歩く散歩。というか、これが散歩だろう。

あと、学校関係が急に一ヶ月も休みになって、成績がどうとか入試がどうとか騒いでるけど、どうにもこうにも思考が硬直してるよね。成績に関しては、今期は実質として「ナカッタコト」にしちゃえばいいのに。というのは、つまり、今期は全員[但し書きのついた及第点]にしておけばいいじゃないかってこと。競馬だのトトカルチョだのの賭けが不成立だったときに、胴元(banker)が賭け自体をナカッタコトにするアレと同じ(いや、それは違うかな)。入試も、まあ、希望者は早い物勝ちで合格にしてしまえば? 受験生だって、入学後のことを考えれば、あまりに「無理」なところには入ろうとはしないだろうし。

だいたい昔の学生紛争の頃に「卒業」した連中って、本当に全員ちゃんと「卒業」(卒業に値する勉強をして卒業)したのか? ドサクサに紛れて、社会に出て、今一人前のオトナヅラをしている連中がゴロゴロいるはず。でも、タマにはソレでもイイダロ、というハナシ。どうせ、卒業だの成績だの合格だの一人前のオトナだのってモノは、人間が「勝手に」やってることなんだから、たまに、ズルしたり、ごまかしたりしても別にカマヤシナイ。

今回も、世界中の「大騒ぎ」なんだから、たまたまこんな大イベントにぶつかった連中が「あの年はあんなことがあって逆にツイてたねえ」と思い返せたほうが、「あれで人生損したよ」と思い返すことになるより全然好いはず。

2020年2月28日金曜日

10年前に発売された『バイオニックコマンドー 』(PS3)を10年後に900円(新品)で買って、もう20周以上してるんだけど、昨日、全トロフィー(ゴーゴーバイオニック!)を獲得した。『ゴッドハンド』(PS2)と並んで、一生楽しめるゲームな気がする。ちなみに、90過ぎても「テレビゲーム」をやってたら、その人生は「勝ち」だと思ってる。


新型コロナウィルスの「影響」で(と言うか、本当は人間が決めてだけで、コロナにそのつもりはないんだけど)、いろいろなイベントやらなんやらが中止や延期になって、イベント会社の社長がヒーヒー言ってるのをテレビで見た。「人出」や、外国人観光客の「襲来(ある意味襲来だろう」をアテにしている商売はみんな、世の中が今のような事態に陥る場合をリスクとして抱えている自覚があるべきなんだけど、ないんだよね。やっぱり。

これはつまり、漁師が何日も続く悪天候で漁に出られずジリ貧になっていくとか、農家が長雨や日照りやで不作になって、出稼ぎに行くしかなくなるとか、そういうのと同じこと。漁師や農家が「天候」に左右されるように、イベント会社や芸能や音楽家は「人出」に左右される。そして、この「人出」を決めているのは、実は自然。ウィルスは自然だし、人間も自然(ウィルスに感染している限りは=つまり生命現象に依存している限り)。「人出」は、「天候」や「潮の流れ」や「日照時間」や「降雨量」と同じもの。

あと、「政府の『要請』が突然で困る。もっと前もって段階的にしてもらわない」と、なんてことを、ニュースのキャスターとかが言ってるけど、本気なのかな? それって、昨日から妙にダルいなと思いながら1日仕事をして家に帰って寝て起きたら、朝、四十度の熱があったので、会社に欠勤願いの電話しましたって相手に、「昨日のダルい時点で、今日休むかもしれないと言ってもらわないと、そんあ急に困るよ!」って言うようなものだろう。

別に、アベとか政府とかの肩を持つつもりはない。政府だ識者だ専門家だって言っても、要はタダの人間なんだから[人の往来的には実質国境など存在しない今の時代に発生した新型伝染病]にどうしていいかわからず、内心「オロオロ」してるだけなのは、みんな分かってるわけで、分かった上で、一応タテテるというか、ね。「困っている人たちの味方」アピールで、カラッポなことを口走る「報道関係者」にはイラっとするよ。

2020年2月27日木曜日

『水木しげる妖怪画集』を読んだ。というか観た。1970年に出版されたものが、2017年に復刊ドットコムで復刊したもの。昔の本だけあって、同じ妖怪でも「姿」が違うのが面白かった。「べとべとさん」や「ぬりかべ」などだ。


昨日は北海道だけだったけど、どうやら、全国的に休校になるらしい。しかも、小中に加えて高校も。これだけ「地球が小さく」なって、どこの何人でも、どこの何国にでも行ったり来たりできるわけで、当然、この先も「こういうこと」は起きるはず。だから、これを機に、ひとつどうなるか、いっぺん極端なことをやってみたほうがいいよね。つまり、社会が死なない程度に社会活動を「休眠状態/冬眠状態」にして「やり過ごす」と、実際どうなるか、どういう不具合が起きて、どういうことは案外平気かっていう、いわゆる「社会実験」ってのを。

もうひとつ。これを機に、やっぱり、remote working(遠隔勤務)が普及するんじゃないかな。つまり、生身の人間が毎朝大量にノコノコ出かけて行って一つ場所に集まってやる必要のない仕事が、今、実際、大量にあるわけで、しかし、経営者の方は、経費とかキッカケとかがなくて、なかなか切り替えができなかったのが、こうなってみると、長い目で見たら、経済的にも経営的にも有利だってことにやっと気づいて。ちょうど、フクシマが、太陽光エネルギーだのなんだのにカネを振り向けるキッカケになったように。人間、痛い目を見ないと行動を起こさないからね。

エライ人たちの考えは、新型だから、今のところワクチンも特効薬もなくて、だから、最終的にはきっと、今生きている地球人のほとんどが感染するつもりで、しかし、いっぺんに大勢が感染したら困るから、できるだけ長い時間をかけて、うすーく感染させていくようにして乗り切ろうって寸法。まあ、それしかないよね。だから、コチラとしても「絶対に感染しないぞ」っていうよりも「どうせどっかのタイミングで感染するだろうけど、遅ければ遅いほどトクなはずだから、できるだけ粘ろう」くらいに構えていたほうが、精神衛生上ヨロシイ気がする。

今回のコロナ騒動で、昔の「スペインかぜ」(世界中で何千万と死んだらしい)の時とかの「世の中の感じ」はどんなだったんだろうと思う。今生きている連中はみんな、あのウィルスの「淘汰」を生き延びた者たちの子孫だよね。今回、新たな「淘汰」が起きたことで未来…

2020年2月26日水曜日

冷凍チャーハンが美味くなったというのを、ドッカのテレビ局でやっていたのを観た。昔は、チャーハン(炒飯)と言いながら、実は炒めてなかったのが(つまり、炒めたような風味をつけた、タダの炊いたご飯だったのが)、今は技術が進歩して、本当に炒めてから冷凍できるようになったのが、美味くなった一番の理由だ、みたいなことを言って、実際、でかい、水車のような、足ひれのようなもので、炒めた飯をぐるぐる回してバタバタ落としている機械の映像が流れていた。これは、中華料理人がチャーハンを作るときに行う「煽り炒め」というワザを再現したものらしい。

で、買って食ってみたら、なるほど確かに。

「確かに」というのは、二十年ほど前の冷凍チャーハンは、電子レンジでチンするより、自分でフライパンで炒めて温めた方が断然美味かったのが、今度買ってきた煽り炒めを謳ったチャーハンは、電子レンジでチンしただけで、ちゃんと美味くなっているということ。つまり、ちゃんと炒めた感じになってる。まあ、味付けが濃いので、そこまで含めて美味いかというと、やっぱり、「いや、これ、味濃いよ」と不満を言いたいけど、それで言えば、外食チャーハンはみんなこんなものだから、まあ、フツウの味の濃さと言えばその通り。

そう言えば、さっき「路線バスの旅」のベスト版みたいなの(早い話が再放送)をテレビでやっていて、その中の蛭子さんが妙に若くて(だって、その「妙に若い蛭子さん」は、何十年も前の蛭子さんではないはず)、ああ、このくらいの歳の人って数年のうちに急激に老け込んでいくんだなあ、と思った。

あと、遂に今日、首相が新型コロナの対策の「要請」を出したので、ラグビーのプロリーグの開催が中止(延期?)になって、ダレカの音楽イベントが当日中止になって、北海道の小中学校が2週間ほど休校になって、あと、プロ野球のオープン戦がすべて無観客試合(プロ野球史上初)になった。この調子でいくと、来月の大相撲も中止になる。日本政府は、オリンピックの8月までにこの騒動を治めたいと必死なのだろうが、ダメだね。「東京オリンピック」は「モッテナイ」から中止になるよ(そもそもマラソンが札幌に移った時点で雲行きが…)。今の世界の状況だと「他所に取られる」こともないだろうけど、オリンピックみたいな大イベントは、今年ダメならじゃあ来年とはいかない。結局、2020年は「ナカッタコト」になると思…

2020年2月25日火曜日

新型コロナウィルスの感染が疑われても、症状が軽ければ自宅待機/自宅療養ということになって一安心だ。病気そのものよりも、隔離されて普段の生活場所から切り離されることの方が大問題になるヒトたちが圧倒的に多いはずだからだ。例えば、1人暮らしで、赤ん坊やネコやガー(熱帯魚)の世話をしているヒトなどがそうだ。

生命現象にとって、ウィルスというのは、まあ、毎年来る台風みたいなもので、或る種の「掃除屋」。新型となると、さらに念の入った本格的な掃除屋というところ。そういう「大風」が吹き荒れて、古い木や弱った木をなぎ倒して、海の底をかき混ぜることで、生物環境の新陳代謝を促す。人間で言えば、老人や病気持ちに「死の機会」をもたらす。

もちろん、人間は生命現象である以上に知性現象なので、生命現象では当たり前の定期的な「大掃除」に個人として誰も巻き込まれたくはない。生命現象としては、年寄りや病人を定期的に一掃することはむしろ「好ましい」ことだとしても、知性現象として、そんなのおぞましいばかりで全然納得できない。

何度も言うように(そしてこれからも何度も言うだろが)、人間が抱える問題や不合理や、人間が生み出す害悪は、すべて、人間が生命現象という機構の中にとどまっているために起こる。言い換えると、人間の知性現象がいつまでも生命現象という「媒体」に頼っているからこそ起こる。人間が今乗り越えられないでいる数多くの問題や難題や悩みは、すべてこの生命現象という「媒体」が理由。

ちょうど、物語後半で、機械(マシン)としてガンダムが、ニュータイプとして覚醒したアムロの反応(パイロット能力)についてこれなくなったように(其の場凌ぎ的にモスク・ハン博士のマグネットコーティングで最終回までごまかして、そこでジオングと刺し違えて壊れた)、人間の知性現象の側面(というかまあ、本質なんだけど)に、人間の生命現象の側面(というか媒体/機構/まあ、やっぱりこれもガンダムと同じ機械やね)が追いつけなくなり、対応しきれなくなったことで起こるのが人間の諸問題。

ガンダムといえば、『Gのレコンギスタ』(だっけ?)を見たいなあと思ったら、富野さん当人が、オトナが見ても仕方がないよ的なことを言っていたので、見るのをやめた。ただ、富野さんのは、他の連中が作るガンダムと違って、世界像に得体の知れないデカさあるから好きなんだよな。他の連中のはただの…

2020年2月24日月曜日

真鍮製の光る潜水服を着て湖底に向かって沈んでいくと、下の方に丸く明るくなった領域が現れた。それはちょうど、暗い井戸の底から昼の空を見上げたような感じの光る丸だった。

夜の甲虫さながらにその光に惹き寄せられる。

光の「正体」は、湖底にできた丸い穴で、僕は穴の縁に立って少しの間思案した。戻れなくなると困ると思ったからだ。腹ばいになって上半身だけを穴の中に入れてみたら、そこは水面で、穴に入れた僕の上半身は水から外、即ち空気中に出ていた。

圧力や粘度などをうまくやれば、水の入った容器の底に穴を開けても、そこから水が漏れたりしなくなる、という現象があるとかないとか。今僕が湖底の穴から頭を出したら、そこは水のない空気中だったという状況も、つまりは、湖という大きな鍋の底に丸い小さな穴が開いているようなものか。と、最初は思った。

が、そうではなかった。

湖底の穴から頭を出した僕は、重力を、頭の上ではなく、下に感じた。つまり、湖底の穴にあった「水面」から頭を出した瞬間に、それまで下だと思っていたものが、上になって、それまで上だと思っていたものが下になったのだ。

少なくとも重力的にはそうなった。

ともかく、事態を把握する必要がある。そう思った。

金属製の穴の縁に掴まって、潜水服のヘルメットの覗き窓越しに辺りを見回した。僕の視線の高さは、ちょうど、首だけ出して地面に生き埋めにされたEdoの死刑囚のようなものだから、地面(というのは穴の縁から続く金属板)から数十センチしかない。その、高さ数十センチの視界にエナメル靴が現れた。尖った杖の先も見えた。靴と杖が金属の床を鳴らしながら、こちらに近づいてくるのが見えた。だが、潜水服のヘルメットの覗き窓の小ささが災いして、見えるのは歩く靴と床を突く杖の先だけだった。

(因みに、この生き埋めにされたEdoの死刑囚は、通りがかった旅人たちにノコギリで少しずつ首を切られて徐々に殺される。昔、Japanのテレビドラマで、カワタニタクゾーという特異な面相の俳優が、そうやって処刑されて死んでいく男を演じていたのを覚えている)

靴が杖先で僕の潜水服のヘルメットの頭を軽く叩くと、中で音が響いて、こう言った。
「ようこそ深海プールへ……ここでは潜るほどに高みへと近づく……存在の頂点に立つ者……それは深い水の底に待つ」

穴の縁を掴んでいた潜水服の指が滑った。僕はまた、深い水の底へと沈んで行った。

2020年2月23日日曜日

松っちゃんの番組で、高須クリニックの院長が、(一部で有名な)スイスの安楽死協会に会費だか手付金だかを振り込んだ話をしていた。どうやら、安楽死の「審査」のようなものにパスしたのではなく、まあ、「審査」が受けられる[期限なしの予約]を取ったみたいなことらしい。当人は、いつでも使える航空券を手に入れたようなものだ、みたいなことを言っていた。

それはいいとして、この国は、というか、世界中の多くの国が安楽死や尊厳死を認めていない。これもまた「生命教」がもたらす弊害・害悪。安楽死や尊厳死を選択肢に選ばざるを得ない状況に陥っていない殆ど全ての人間には弊害・害悪という認識はないだろうが、そもそも知性現象として存在する人間にとって、生命現象という[媒体/機構]の不具合がもたらす最悪の苦しみを[回避/解消]する現状唯一の手段である[安楽死/尊厳死]を選ばせないようにするこの考え方(この場合は信仰=生命教信仰)は、マギレもない弊害・害悪。

まあ、「安楽死や尊厳死を法的に認めないのは、安楽死や尊厳死のフリをした殺人を未然に防ぐためだ」という[ニセの実践的モノイイ]も存在するが、そんなのはカラッポの主張。というのは、どんな医療行為にも失敗や想定外は付いて回るもので、医療行為の「失敗」で患者が死んでしまったこれまでの事例のうちのどのくらいに「医療行為の失敗を装った殺人」が紛れ込んでいるか分かったもんじゃないからだ(コロンボが言うように、医者がその気になりゃ、殺人なんかやり放題)。たとえ「失敗」や「事故」ではくても、医者が「もうこれ以上は手の施しようがありません」と言うとき、それが事実なのかは、患者やその家族(遺族)には知りようがなかったりする。人生に絶望した医者が、助かる命をみすみす見殺しにすることだって、なくはないだろう。

安楽死や尊厳死が殺人の隠れ蓑になるかもしれないという主張の「ウソ」は、普通の医療行為に既にある「キケン」を、安楽死や尊厳死にだけ適用しようとしているからだ。安楽死や尊厳死が殺人の「隠れ蓑」になる危険があるからやるべきではないなら、全ての医療行為もやるべきではない。知らんけど。

生命教信仰は「生命」という特別なアリヨウが存在すると信じることで、人間を、知性現象である前に、生命現象であると見做す。これは人類最凶最悪の「邪教」で、知性現象としての人間の苦悩の最も深い部分に巣食う魔物で…

2020年2月22日土曜日

氷の近くに火があれば、氷が溶けて水になる。これが物理現象。水を得るために、氷に火を近づけようとすること。これが知性現象。そして、知性現象が透けて見える物理現象を、人間は「生命現象」と名付け、別の現象として扱う。

物理現象は火で氷を溶かすことはできるが、たまたま第三の物理現象が介在しない限り(南極近くで海底火山が爆発して流出した溶岩が氷山を溶かす、みたいなこと)、火を氷に近づけることができない。偶然に頼らずにそれができるのが知性現象。知性現象も、材料や原動力、つまり土台は物理現象だが、物理現象自体を制御できる点で超物理現象と言える。

知性現象の真骨頂を一言で言えば、物理シミュレーションができること。これを言い換えると、因果をひっくり返すことができるということ。って、これはついこの前にも言った。物理現象Aと物理現象Bを「足し合わせる」と物理現象Cという結果が得られる、ということを「知っている」ということ。

もちろん、この場合の「知っている」は比喩。この言葉が比喩ではないのは、この地球上ではおそらく人間だけ。今のところは。例えば、動物が物を食べるのは、体を維持するためだったり、活動ためのエネルギーを得るためだったりするが、当の動物はそんなことを意識的に(=人間のように)「知っている」わけではない。食欲に従っているだけだ。しかし、起きていることは、生命の維持(物理現象C)と言う結果を得るために、獲物(物理現象A)を襲って食べる(物理現象B)ということ。この生命現象と呼ばれる物理現象に透けて見えているのが知性現象。どうなるかわかっていて、意図的にやってるという感じがする。

新型コロナウィルスも物理現象で、新型コロナウィルスに感染するのも、その後回復するのも、逆にダメお陀仏になるのも、皆、物理現象。物理現象なんだから水道管の穴を塞ぐのとか、吹っ飛んだ原発の片付けをするのとかと同じ。違うのは、その現象に透けて見える知性現象のアリヨウや度合いで、これにオタオタしたり、妙な幻想や妄想を抱かされて、苦しむことになる。

感染症というのは、いわゆる放射能なんかよりも生命現象っぽいから(まあそりゃそうだ)、生理的な気持ち悪さが1.5倍増しになるのだろう。意思を持って拡がってるとか、襲ってくる感覚が「ただのモノ」でしかない放射性物質よりも強くて、それで、みんなキャーっとなってしまうんだろう。でもそれは…

2020年2月21日金曜日

BBC World Serviceの『13 minutes to the Moon』をこのところずっと聴いていた。というか聴きながら、寝ていた。というか、ほとんど寝ていて、時々ハッと目が覚めて、「あ、だいぶ過ぎてるな」とか、そういう感じの、子守唄的な聞き方。目が覚めてしまう一番のタイミングは、Hans Zimmerが作ったらしいテーマ曲がどわ~んと流れる時(曲がなんか怖いので驚いて目が覚める)。だから、割とおしまいの方。

Hans Zimmerの曲は『ホームズ』のも『ダークナイト』のも、NHKの自然番組のもだいたいおんなじ感じなんだけど、嫌いじゃない。というか、むしろ好き。ガイリッチーの『ホームズ』も、そんなに好きじゃないクリストファーノーランの『ダークナイト』も、実は音楽で好きなのかもしれない 。

それはそうと、Hans Zimmerに限らず、Badalamentiでも教授でも久石譲でも加古隆でも、最近で言うと、佐藤直紀(←『ハゲタカ』とか『龍馬伝』の)でも、いわゆるサントラ音楽って、まあ、みんな、その人その人で同じ感じになる。と言うか、そう言う注文なのかもしれないけど。

で、『13 minutes to the Moon』に話を戻すと、近々、第二シーズンが始まるらしい。ンだけど、一体何をやるんだろう? アポロ12号以降をやるんだろうか? 多分そうだろう。知らんけど。

それにしてもBBC World Serviceって素晴らしいね(ハリー杉山キッカケでその存在を知った)。このクオリティの番組が無料で聴き放題って、どういう仕組み、というか、どういう了見なんだろう(好い意味で)? まあ、大英帝国の「世界戦略」なのかもしれない。あるいは、元世界帝国の矜持なのかも。

なんにしても、下手な英語教材なんか聞くよりずっと面白いのは間違いない。まあ、聞き取れなくても気にしない。というか、世界にはいろいろな「英語」があるなあ、と思う。そもそも、「地元」の「イギリス人」の英語が何言ってるのかわからない。BBCの人たちの言ってることはわかるけど、いわゆる「下町」とか「地方」とかの「イギリス人」が喋ってる英語が、これ、全然、英語に聞こえないくらい聞き取れなくて、それが面白い。

考えてみれば、日本語だって、ちょっと自分になじみのない地方の人たちの言葉だともう、全然わからないんだから、英語が聞き取れな…

2020年2月20日木曜日

「自分という生き物1匹でも充分モテアマシてるのに、この上、何を好き好んで、ねえ」

なぜ猫を飼わなかったのかと訊かれたオカバヤシハルオが、その理由として答えたのが上のセリフ。同じ理由で未だに一人暮らし。「猫を飼わなかったのか」と過去形なのは、今は1匹の拾い猫(雑種)を飼っているからだ。

「飼ってるというか、まあ、置いてやってるって感じだよね」

年齢不詳。60前後に見えるが、実はもっと若いのかもしれないし、逆にもっと上かもしれない。老けた50歳と、若い70歳と、本当の60歳の体感としての違いは、当人も含め誰にも区別がつかない。役所の出生記録や親の主張がそうだからそうなんだろう、と言えるだけだ。

オカバヤシハルオは、世界のどこにも存在しない野球チームのエンブレム(変形したAに見える)が張り付いた野球帽をかぶって、大きめのママチャリで街をうろつく。すなわち自動車免許を持ってない。

「必要ないからね。ツマラナイってものもある。街中でチマチマ運転なんか、バカらしくやってられんでしょう。赤で止まって、青で動いて。危ないってものもある。道の真ん中によろよろ飛び出してきたボケ老人を跳ねたら、自動で人殺しにされちまう。免許を持ってないだけじゃないよ。ちょんまげだって結ってないし、ふんどしも締めてない。これはあんた達も同じでしょう。時代時代のアタリマエにイチイチ振り回されて、時間やカネや体力気力を無駄遣いするこたぁないよ」

オカバヤシハルオは、「この前の世界大戦」の南方の島の激戦地の生き残りだという。当人の主張だ。オカバヤシハルオ行きつけの居酒屋の女将さんもその話を聞いたことがあるらしい。しかし、最も最近の「この前の世界大戦」に兵隊として参加していたとしても、明治百五十年の今では、もう百歳近いはずで、この話は、オカバヤシハルオ一流のデマかホラだということになっている。曰く、

「アタクシの部隊はアタクシひとりを残して全滅してしまって、アタクシはたったひとり、島に取り残されたってなワケです。で、途方に暮れていたら、ある時、墜落している紫電改を見つけた。これを修理し、飛ばせるようにしてからは、終戦までずっと、島の近くを無警戒に飛ぶ敵さんのヒコーキにちょっかいを出して憂さを晴らしてましたよ。全部で20機くらいですかね、撃ち落としたのは」

ラッキーストライクのオカバヤシハルオは酔うと言葉遣いが丁寧になるタイプだ。

2020年2月19日水曜日

日に焼けて色の変わったことわざ辞典(三省堂)を眺めていたら「医者の不養生」という言葉に出くわした。曰く、「医者は、人には養生を勧めながら、自分は案外不養生なものである。立派なことを言いながら、実行が伴わないことにいう」とある。ああ、なるほどそうだね、それは知ってるよ、と。で、類句として「坊主の不信心」が出ていて、これに引っかかった。これは、本当のことを言えば、医者の不養生とはまるで違うだろ、と。

本来、本当の意味で、つまり、ゴータマさんの教えの実践者としての坊主なら「不信心」が当たり前で、すなわち信仰心など持っていてはオハナシにならんのだ。だから、今この世界に生きている坊主は、ダライ・ラマを含めて全員、ゴータマさんの教えには背いていることになる(死んだらどうとか、生命の本源がどうとか、戒律がなんだとか、世界平和がどうしたとか、すべては人間の生命信仰=生命教が生み出した執着物にすぎないからね)。もし、ゴータマさんが今いたら、やれやれ、それ見たことか、と大きなため息がつくだろう。

「坊主の不信心」ということわざを好意的に解釈すればこうなる。坊主というものは、宗教とか信仰とか生命の尊さとか死後の世界とか、そういうものが単なる人間の「趣味」「嗜好品」「慰み」に過ぎないことを知り尽くしているので「そんなものはどうでもいいことなんだ」と、ちゃんと理解している。もっと端的に言えば、(もしそんな者がいるとして)本当の坊主(ゴータマさんの思想の実践者)は、生命教信仰から自由になっているから、生命教から生まれるあらゆる「虚構」を退けることができる。しかし、坊主ではない「普通の人」は、これはもう、全員[無自覚ゆえの頑固さ]を持った「生命教信者」なので、方便として「信仰が大事」と言ってやって、百年かそこらを、ただの生き物としておとなしく穏やかに生きてもらうしかない。

つまりその場合「坊主の不信心」とは、「普通の人は、その凡庸さと怠惰ゆえに、信心というマヤカシで人生をごまかして生きていかなくはならないが、坊主は修行して心の目を開いたおかげで『不信心』という、普通の人が到達できない状態に達していて、さすがに立派もんだ」という意味になる。が、まあ、これでは最早ことわざでもなんでもない気がする。

とにかく、自分でも信仰心を持ち続けることが大事だなんて思ってる坊主は、正体としては全員ただのコスプレイヤーで…

2020年2月18日火曜日

以前住んでいた部屋のベッドの上で目が覚めた。今住んでいる場所を入れて5つ前の引越し先の部屋だ。5つ前でも一年以上は住んだのだから、他人の家という感じは全くしない。ただし、不思議は不思議だ。今まで家賃はどうしてたんだろう。もしかしたらこの25年間ずっと口座から引き落とされてきたのだろうか。それとも四半世紀分の滞納があるのだろうか。当時既に老人だった大家はもう死んで、息子か娘の世代が後を引き継いでいたら、なんだか、そういう始末が面倒になりそうだ。

暗がりの天井を眺めながらそんなことをあれこれと思う。

しかし、もっと面倒なことがある。さっきから見ている天井いっぱいに、樹木の枝が茂っているのだ。

樹木の枝は樹木の根と対称関係にある。枝は空中で日光と水を集め、根は地中で養分と水を集めるという違いはあるが、まあ「同じもの」だ。人間は地中ではなく、空中(地上)にいるので、枝の方にカタイレするが、絶対的な視点に立てば、地中にいるのが本来で、空中にいるのは「はみ出している」状態だと考えても全く問題ないはずだ。地球という塊の中にズッポリとハマリ込んでいる根の方がマトモで、そこから飛び出してしまって「宇宙に落ちそうな」枝の方は、喩えるなら、満員の列車の窓から下半身をはみ出させている乗客のようなものと言えなくもない。

暗がりの部屋が赤く点滅を始めた。見ると、壁で丸くて赤い光が点滅している。電話か時計か湯沸かし器かガス漏れ探知機かそういう装置の発光ダイオードの点滅。

ベッドから足を下ろした。足の裏が床にあたってひんやりする。素足なのだ。ベッドで寝ていたのだから素足でも不思議はないが、部屋は妙に冷えているので、このまま素足でいるのはどうかと思う。暗がりで、靴下と靴を探す。

素足で歩いて赤い点滅に向かう。内線電話。受話器を取って点滅を押す。

「ああ、やっと出ましたね。急いで下に来てください」
「何かありましたか?」
「靴を預かってます」
「ああ、そちらに」
「ええ」
「靴下もそちらですか?」
「靴下の話は、よそでしてください」
「よそというのは?」
「他ということです」

電話を切って部屋を出る。素足で冷たい階段を降りると、踊り場のところで、下に敵意を持った何かが待ち伏せていることに気づいた。踊り場の壁を押すと抜け道が現れたのでそれを使う。

下で待っていたのは昨夜母親を亡くした看護師で「靴はその中です」と消火器入れの赤い箱を指す。

2020年2月17日月曜日

生命をいくらありがたがってもショーガナイというのは、ちょっと考えたら実は誰でも分かることで、それは、恐竜の行く末を見ても明白。生命原理に忠実に「持続可能な生活」を、何億年何十億年続けたところで、隕石一発でお陀仏。

人間も同じで、生命万歳、自然万歳で、生まれて老いて病んで死ぬ、生まれて老いて病んで死ぬをあと何十億年繰り返しても、ダカラナニってことになる。隕石がぶつかったり、地球が凍結したり、太陽が膨張したり、凶悪な疫病が蔓延したら、ハイソレマデヨだ。だが、生命現象としては、これで全然イイ。生命現象というのは、個々の個体はもちろん個々の種でもない[生命現象というそれ自体]で、ひとつのアリヨウなんだから、個別の種が絶滅したところでどうということない。更に言えば、物理現象の立場から言っても、生命現象という、物理現象の亜種が姿を消したところで、どうということはない。

どうということがアルのは、知性現象の立場。知性現象は、物理現象依存ではあるが、物理現象を制御できる現象であるがゆえに、いわゆるメタな存在になっている。メタな存在というのは、特定の物理現象の「外」に居るということ。これはもちろん、知性現象が、物理法則を超越した存在だとか、精神的な霊的なナニカだとかいうハナシではない。知性現象は、今現に自身が依存している物理現象なり物理法則なりに、必ずしも縛られなくてもいい、という話。音楽は、ビニールレコード盤にも、テープにも、メモリーチップにも、録音し再生することができる、というのに少しに似ている。この場合、音楽が知性現象で、レコード盤やテープやメモリーチップなどの媒体が物理現象。

人間の歴史が発展の歴史なのは、新しく生まれた子供が成長して「新しい」ことを始めるからだ。人間以外の動物は、生命現象の原理にのみ忠実で、あくせくと、次の世代も次の世代も延々と前の世代と同じことしかない。生命現象としてはそれで正解で、あとは「進化」の法則がドーニカするに任せている。しかし、人間は、次の世代が前の世代を引き継いだり乗り越えたりして「新しいモノ」を生み出すことでナニカを成し遂げつつある。そのナニカってのは、生命現象の宿命を乗り越えるということ。生命現象の宿命ってのは、つまりは、「今依存している物理現象の巻き添えを食う」ということ。そして、世代ごとに「新しいモノ」を生み出しているが、他でもない知性現象。

2020年2月16日日曜日

生命現象というのは一種の方便で、コレと言って存在を指摘できる個別の現象は、物理現象と知性現象の二つのみ。生命現象は、物理現象と知性現象が混ざり合った「みせかけ」でしかない。人間は[感受性の異なる三種の視細胞]で「あらゆる」色を感じ取る。それと同じで、物理現象と知性現象が混ざり合うと、それが生命現象として認識される。言ってしまえば、生命現象などという独立した現象は、人間の頭の中の産物で、この宇宙のどこにもない。

人間がアリガタがったり、尊敬の念を抱いたり、愛したりしているものは、実は、生命現象ではなく知性現象だ。というのは前にもどこかで書いたけど、これがなかなか分かってもらえない。大昔に菩提樹の下でゴータマさんが「俺の発見は人間には理解し難いから、説明しても無駄だろう」と思ったのはココ。生命活動と言っているあれは「囲い込まれた物理現象」に過ぎない。水路を水が流れてるとか、風車が回ってるとか、そういうことと何も変わらない。実際、一定の法則性を持った物理運動を目にすると、人間はすぐに「生命」を感じてしまう。ナニヨリの証拠。でも、そこでフハっとしている対象の正体は「生命」ではなく「知性」。

知性現象ってのは何かって言うと「物理現象を制御する現象」。素の物理現象は成り行きが全て。言い換えると[因果が常に固定されている]。原因があって結果という流れ。逆にいうと、物理現象は、どんなに複雑に込み入っていても「結果を見越して原因を作る」ということがない。知性現象が物理現象を「制御する」というとき、具体的に何が行われているかというと、この「結果を見越して原因を作る」ということ。物理現象に対して、物理現象Bを実現するために物理現象Aを(物理法則に従って←ここ重要)実現させることができるのが知性現象。だから生命現象とは、要は「因果をひっくり返した」物理現象の総体。でも、本体は、生命ではなく知性。生命は知性の「影」にすぎない。

面倒臭いというか、面白いのは、しばしばこの認識が逆転すること。人間の多くは、生命現象から知性現象が生まれると思い込んでいる。だがそうではない。物理現象から知性現象が出現した時、それが生命現象に見える。これが正しい認識。

「生命それ自体は無価値=幻影」ということ。人間という存在は何よりもまず知性であり、生命は知性が関わる物理現象の一種に過ぎず、その制御には当然限界がある。以上。

2020年2月15日土曜日

NHKが夜やってる『伝説のお母さん』を面白く観ている。第二回で、人間が勝手に数を減らしているショーシカの問題を魔王(あ、大地真央だから魔王か、今気づいたけど)に説明するビデオの中で、ショーシカの原因は「空気」となっていた。すなわち「子供の世話はメスがするものだ」という「空気」が少子化の原因という説明。ここで言う空気とは、要するに社会全体が持っている[根拠のない雰囲気や思い込み]のことだ。「そういうもんだろ」という決めつけのようなもの。

しかし、「子供の世話はメスがする」は「空気」ではなく「本能」だ。今は「本能」という言葉は流行らないので、もっとまどろっこしく言い直すと、「ヒトという生き物が進化の結果そうなってしまっている」ということだ。もちろん「オスが子供の世話をしない/したがらないのは、進化の結果だからしょうがないだろう」という話ではない。進化が700万年をかけてこのような存在した[ヒトという生き物]のオスとメスのアリヨウと、人間が、せいぜい数千年程度で作り上げた[結婚+労働+納税(徴税)]の仕組み(すなわち人間社会)の間には齟齬があるとイイタイのだ。

今の時代、「自分の子供の世話をしないヒトのオス」というのは、すごくわかりやすい「何考えてんだか」だが、理由は何であれ妊娠したら、経済状態も何も御構い無しで、何がなんでも赤ん坊を生みたがるヒトのメスというのも、やっぱり「何考えてんだか」。しかも「一旦妊娠したら何が何でも産みたがる」はヒトという生き物よりもずっとprimitiveな生き物たちから延々と受け継がれてきた「本能」だから、ものすごく強力で「強情」。これだって、つまりは、人間がたかだか数千年程度ででっち上げた社会の仕組みが、ヒトに埋め込まれた「進化の結果」をオソロカにしたからというダケの問題。

ダイヤモンド博士が言っていた。東南アジアの「伝統的な」暮らしをしている人間の夫婦は、ヨメさんが赤ん坊と家財道具を抱えて、ダンナの方は弓矢だけの手ぶら状態。これは、他の人間にいつ襲われるかわからないから、男の方はいつでも戦える状態でなければならないから、だと言う。要するに、ヨメさんにとってダンナは「ひとり自衛隊」なのだ。「ひとり軍隊」のゴルゴさんと同じ。この「ひとり自衛隊」に子供の世話なんかさせて夫婦揃って後ろからプスっとやられた日には目も当てられないといわけで、ここでは逆に…

2020年2月14日金曜日

とにかく毎日千文字文章を書く。これが千文字作文の決まり。他は何もない。スタイルもジャンルも縛りはない。前もって決めていてもいいし、適当に始めてもいい。動かさないのは千文字になったらピタリとやめるというただこれだけ。だから「毎日」の部分の「毎日」も「毎日の食事」程度の「毎日」。具合が悪かったり都合がつかなかったりしても、毎日の食事を諦めることはまずないが、絶対にないとは言えないのが「毎日の食事」の「毎日」。「千字作文」も、そういう「毎日」。

ぴったり千文字で、強制的に止めるというのは、テレビやラジオの生放送に似ている。タモリが『いいとも』や『Mステ』を延々と続けられたのは、あれは、生放送だから。撮り直しやヤリ直しがなくて、出来が良かろうが「事故」が起きようが、時間が来たら終わる。終わったら家に帰れる。始まる時間が決まっていて、家に帰れる時間が決まっていれば、予定が立つということで、予定が立つとなら、人間は結構いつまでも、それほどの苦もなく続けられる。逆に、始まる時間や終わる時間が一定してない、今日はいつ帰れるか分からない、というが、人間には一番辛い。それで、ビルから飛び降りたり、セーシンを病んだりすることになる。

今回は、第二回で、まあ「千字作文」の趣旨みたいなものを自分自身に向けて書いているわけだが、次回の中身は「千字掌説」になっているかもしれないし、「Vexations」になっているかもしれない(この文章はVexationsではない。癪に触ることを書いているわけではないからだ。これはただのザッカン=雑感。あるいはメモ)。たまには「連続もの」なるかもしれない。

ついでに書けば、誤字脱字誤変換の類もあまりとやかく言わない。1日一本、一年で365本を積み重ねて、その数の多さから、ナニカシラな価値が生まれることを目論んでいるからだ。個々の出来の[完璧性や完成度]は、さして重要ではない。だから、生命現象のやり口に似ている。進化のやり口と言い直してもいいかもしれない。ソコソコのものを、とにかくいろいろバーっと大量に生み出して、そのソコソコゆえの雑多性が、数というモノを一種の変換器にして(あるいはテコ)にして、自覚的に求める[個々の完璧性]では到達できない、言ってみれば、[無意識の完璧性]に到達できればシメたもの。

編集者や編纂者の意識が芽生えると表現は枯れる。リンチも言ってる。カネ…

2020年2月13日木曜日

ひだる神に取り憑かれて、四畳半で死にかけていると、顔面包帯ぐるぐる巻きの死神が現れた。黒い詰襟の死神は畳の上に正座している。包帯の隙間に紙巻きたばこを差し込んで器用に煙を吸う。

「低血糖症。ひだる神の正体は急性の低血糖症さ」

知ってる。
畳を這って冷蔵庫からコーラ缶を取り出し一気に飲む。

「自殺が難しいのは、最大の抵抗者が自分自身だからさ。人間の体は人間の意識とは無関係に生きている。人間の意識が自殺を目論むことはあっても、人間の体は決してそんなことをやらない。人間の体は生命だから。生命に生命の自覚がない。生命は生命というのもの知らない。自分が生命だということを知らないだけではなく、生命というものがなんなのかも知らないという意味だ。そんなものが存在していることさえ気づいてない。だから、生命は生命を終わらせることができない。生命をどうこうしようとするのは、生命ではないものだ。それが、この地球上では、たとえば、人間の意識になる」

死神のタバコの煙で四畳半が霞む。

「意識がなくても人間の体は生きることができる。一方で、体が生きてなくては人間の意識は存在できない。そもそも両者の立場は対等ではない。人間の自殺は、店子の指図で大家が自分のアパートを壊すようなもので、うまくいかないのがアタリマエ」

死神は缶コーヒーの空き缶にタバコの吸い殻を入れる。

「だから、だまし討ちにするしかない。たとえ、自分自身が相手でも、隙をついてやるしかないのさ。大きな失敗をして気が塞いでいるとか、大病で体力が落ちているとか、そういうのは、つまりは人間の体の方に隙があるってことで、そこを狙う。ちまちまやってちゃダメだし、じっくり考えててもダメ。勢いが大事。ある意味、結婚とか就職とかと同じだよ」

立ち上がった死神の頭は天井スレスレだ。

「アメリカ人というのは、いつまでたってもちっとも垢抜けない、地球一ダサい連中で、その幼稚な精神が、いわゆる銃社会を作り上げている。お互いに好きに撃ち殺しあえる銃社会は、まあ、問題も多いが、自殺志願者にとってはひとつの楽園だよ。自殺を思い付いたら、ホームセンターで電動ノコギリを買うように、銃を買って即実行できる。スイスだのに出かけて行って、証明書だの承諾書だのに署名したり、ビデオカメラに向かって意思表明をしたりする必要もない。買って、咥えて、ズドン」

銃、さもなくば、凍死。
そう思って、体を起こした。