2020年2月21日金曜日

BBC World Serviceの『13 minutes to the Moon』をこのところずっと聴いていた。というか聴きながら、寝ていた。というか、ほとんど寝ていて、時々ハッと目が覚めて、「あ、だいぶ過ぎてるな」とか、そういう感じの、子守唄的な聞き方。目が覚めてしまう一番のタイミングは、Hans Zimmerが作ったらしいテーマ曲がどわ~んと流れる時(曲がなんか怖いので驚いて目が覚める)。だから、割とおしまいの方。

Hans Zimmerの曲は『ホームズ』のも『ダークナイト』のも、NHKの自然番組のもだいたいおんなじ感じなんだけど、嫌いじゃない。というか、むしろ好き。ガイリッチーの『ホームズ』も、そんなに好きじゃないクリストファーノーランの『ダークナイト』も、実は音楽で好きなのかもしれない 。

それはそうと、Hans Zimmerに限らず、Badalamentiでも教授でも久石譲でも加古隆でも、最近で言うと、佐藤直紀(←『ハゲタカ』とか『龍馬伝』の)でも、いわゆるサントラ音楽って、まあ、みんな、その人その人で同じ感じになる。と言うか、そう言う注文なのかもしれないけど。

で、『13 minutes to the Moon』に話を戻すと、近々、第二シーズンが始まるらしい。ンだけど、一体何をやるんだろう? アポロ12号以降をやるんだろうか? 多分そうだろう。知らんけど。

それにしてもBBC World Serviceって素晴らしいね(ハリー杉山キッカケでその存在を知った)。このクオリティの番組が無料で聴き放題って、どういう仕組み、というか、どういう了見なんだろう(好い意味で)? まあ、大英帝国の「世界戦略」なのかもしれない。あるいは、元世界帝国の矜持なのかも。

なんにしても、下手な英語教材なんか聞くよりずっと面白いのは間違いない。まあ、聞き取れなくても気にしない。というか、世界にはいろいろな「英語」があるなあ、と思う。そもそも、「地元」の「イギリス人」の英語が何言ってるのかわからない。BBCの人たちの言ってることはわかるけど、いわゆる「下町」とか「地方」とかの「イギリス人」が喋ってる英語が、これ、全然、英語に聞こえないくらい聞き取れなくて、それが面白い。

考えてみれば、日本語だって、ちょっと自分になじみのない地方の人たちの言葉だともう、全然わからないんだから、英語が聞き取れな…

2020年2月20日木曜日

「自分という生き物1匹でも充分モテアマシてるのに、この上、何を好き好んで、ねえ」

なぜ猫を飼わなかったのかと訊かれたオカバヤシハルオが、その理由として答えたのが上のセリフ。同じ理由で未だに一人暮らし。「猫を飼わなかったのか」と過去形なのは、今は1匹の拾い猫(雑種)を飼っているからだ。

「飼ってるというか、まあ、置いてやってるって感じだよね」

年齢不詳。60前後に見えるが、実はもっと若いのかもしれないし、逆にもっと上かもしれない。老けた50歳と、若い70歳と、本当の60歳の体感としての違いは、当人も含め誰にも区別がつかない。役所の出生記録や親の主張がそうだからそうなんだろう、と言えるだけだ。

オカバヤシハルオは、世界のどこにも存在しない野球チームのエンブレム(変形したAに見える)が張り付いた野球帽をかぶって、大きめのママチャリで街をうろつく。すなわち自動車免許を持ってない。

「必要ないからね。ツマラナイってものもある。街中でチマチマ運転なんか、バカらしくやってられんでしょう。赤で止まって、青で動いて。危ないってものもある。道の真ん中によろよろ飛び出してきたボケ老人を跳ねたら、自動で人殺しにされちまう。免許を持ってないだけじゃないよ。ちょんまげだって結ってないし、ふんどしも締めてない。これはあんた達も同じでしょう。時代時代のアタリマエにイチイチ振り回されて、時間やカネや体力気力を無駄遣いするこたぁないよ」

オカバヤシハルオは、「この前の世界大戦」の南方の島の激戦地の生き残りだという。当人の主張だ。オカバヤシハルオ行きつけの居酒屋の女将さんもその話を聞いたことがあるらしい。しかし、最も最近の「この前の世界大戦」に兵隊として参加していたとしても、明治百五十年の今では、もう百歳近いはずで、この話は、オカバヤシハルオ一流のデマかホラだということになっている。曰く、

「アタクシの部隊はアタクシひとりを残して全滅してしまって、アタクシはたったひとり、島に取り残されたってなワケです。で、途方に暮れていたら、ある時、墜落している紫電改を見つけた。これを修理し、飛ばせるようにしてからは、終戦までずっと、島の近くを無警戒に飛ぶ敵さんのヒコーキにちょっかいを出して憂さを晴らしてましたよ。全部で20機くらいですかね、撃ち落としたのは」

ラッキーストライクのオカバヤシハルオは酔うと言葉遣いが丁寧になるタイプだ。

2020年2月19日水曜日

日に焼けて色の変わったことわざ辞典(三省堂)を眺めていたら「医者の不養生」という言葉に出くわした。曰く、「医者は、人には養生を勧めながら、自分は案外不養生なものである。立派なことを言いながら、実行が伴わないことにいう」とある。ああ、なるほどそうだね、それは知ってるよ、と。で、類句として「坊主の不信心」が出ていて、これに引っかかった。これは、本当のことを言えば、医者の不養生とはまるで違うだろ、と。

本来、本当の意味で、つまり、ゴータマさんの教えの実践者としての坊主なら「不信心」が当たり前で、すなわち信仰心など持っていてはオハナシにならんのだ。だから、今この世界に生きている坊主は、ダライ・ラマを含めて全員、ゴータマさんの教えには背いていることになる(死んだらどうとか、生命の本源がどうとか、戒律がなんだとか、世界平和がどうしたとか、すべては人間の生命信仰=生命教が生み出した執着物にすぎないからね)。もし、ゴータマさんが今いたら、やれやれ、それ見たことか、と大きなため息がつくだろう。

「坊主の不信心」ということわざを好意的に解釈すればこうなる。坊主というものは、宗教とか信仰とか生命の尊さとか死後の世界とか、そういうものが単なる人間の「趣味」「嗜好品」「慰み」に過ぎないことを知り尽くしているので「そんなものはどうでもいいことなんだ」と、ちゃんと理解している。もっと端的に言えば、(もしそんな者がいるとして)本当の坊主(ゴータマさんの思想の実践者)は、生命教信仰から自由になっているから、生命教から生まれるあらゆる「虚構」を退けることができる。しかし、坊主ではない「普通の人」は、これはもう、全員[無自覚ゆえの頑固さ]を持った「生命教信者」なので、方便として「信仰が大事」と言ってやって、百年かそこらを、ただの生き物としておとなしく穏やかに生きてもらうしかない。

つまりその場合「坊主の不信心」とは、「普通の人は、その凡庸さと怠惰ゆえに、信心というマヤカシで人生をごまかして生きていかなくはならないが、坊主は修行して心の目を開いたおかげで『不信心』という、普通の人が到達できない状態に達していて、さすがに立派もんだ」という意味になる。が、まあ、これでは最早ことわざでもなんでもない気がする。

とにかく、自分でも信仰心を持ち続けることが大事だなんて思ってる坊主は、正体としては全員ただのコスプレイヤーで…

2020年2月18日火曜日

以前住んでいた部屋のベッドの上で目が覚めた。今住んでいる場所を入れて5つ前の引越し先の部屋だ。5つ前でも一年以上は住んだのだから、他人の家という感じは全くしない。ただし、不思議は不思議だ。今まで家賃はどうしてたんだろう。もしかしたらこの25年間ずっと口座から引き落とされてきたのだろうか。それとも四半世紀分の滞納があるのだろうか。当時既に老人だった大家はもう死んで、息子か娘の世代が後を引き継いでいたら、なんだか、そういう始末が面倒になりそうだ。

暗がりの天井を眺めながらそんなことをあれこれと思う。

しかし、もっと面倒なことがある。さっきから見ている天井いっぱいに、樹木の枝が茂っているのだ。

樹木の枝は樹木の根と対称関係にある。枝は空中で日光と水を集め、根は地中で養分と水を集めるという違いはあるが、まあ「同じもの」だ。人間は地中ではなく、空中(地上)にいるので、枝の方にカタイレするが、絶対的な視点に立てば、地中にいるのが本来で、空中にいるのは「はみ出している」状態だと考えても全く問題ないはずだ。地球という塊の中にズッポリとハマリ込んでいる根の方がマトモで、そこから飛び出してしまって「宇宙に落ちそうな」枝の方は、喩えるなら、満員の列車の窓から下半身をはみ出させている乗客のようなものと言えなくもない。

暗がりの部屋が赤く点滅を始めた。見ると、壁で丸くて赤い光が点滅している。電話か時計か湯沸かし器かガス漏れ探知機かそういう装置の発光ダイオードの点滅。

ベッドから足を下ろした。足の裏が床にあたってひんやりする。素足なのだ。ベッドで寝ていたのだから素足でも不思議はないが、部屋は妙に冷えているので、このまま素足でいるのはどうかと思う。暗がりで、靴下と靴を探す。

素足で歩いて赤い点滅に向かう。内線電話。受話器を取って点滅を押す。

「ああ、やっと出ましたね。急いで下に来てください」
「何かありましたか?」
「靴を預かってます」
「ああ、そちらに」
「ええ」
「靴下もそちらですか?」
「靴下の話は、よそでしてください」
「よそというのは?」
「他ということです」

電話を切って部屋を出る。素足で冷たい階段を降りると、踊り場のところで、下に敵意を持った何かが待ち伏せていることに気づいた。踊り場の壁を押すと抜け道が現れたのでそれを使う。

下で待っていたのは昨夜母親を亡くした看護師で「靴はその中です」と消火器入れの赤い箱を指す。

2020年2月17日月曜日

生命をいくらありがたがってもショーガナイというのは、ちょっと考えたら実は誰でも分かることで、それは、恐竜の行く末を見ても明白。生命原理に忠実に「持続可能な生活」を、何億年何十億年続けたところで、隕石一発でお陀仏。

人間も同じで、生命万歳、自然万歳で、生まれて老いて病んで死ぬ、生まれて老いて病んで死ぬをあと何十億年繰り返しても、ダカラナニってことになる。隕石がぶつかったり、地球が凍結したり、太陽が膨張したり、凶悪な疫病が蔓延したら、ハイソレマデヨだ。だが、生命現象としては、これで全然イイ。生命現象というのは、個々の個体はもちろん個々の種でもない[生命現象というそれ自体]で、ひとつのアリヨウなんだから、個別の種が絶滅したところでどうということない。更に言えば、物理現象の立場から言っても、生命現象という、物理現象の亜種が姿を消したところで、どうということはない。

どうということがアルのは、知性現象の立場。知性現象は、物理現象依存ではあるが、物理現象を制御できる現象であるがゆえに、いわゆるメタな存在になっている。メタな存在というのは、特定の物理現象の「外」に居るということ。これはもちろん、知性現象が、物理法則を超越した存在だとか、精神的な霊的なナニカだとかいうハナシではない。知性現象は、今現に自身が依存している物理現象なり物理法則なりに、必ずしも縛られなくてもいい、という話。音楽は、ビニールレコード盤にも、テープにも、メモリーチップにも、録音し再生することができる、というのに少しに似ている。この場合、音楽が知性現象で、レコード盤やテープやメモリーチップなどの媒体が物理現象。

人間の歴史が発展の歴史なのは、新しく生まれた子供が成長して「新しい」ことを始めるからだ。人間以外の動物は、生命現象の原理にのみ忠実で、あくせくと、次の世代も次の世代も延々と前の世代と同じことしかない。生命現象としてはそれで正解で、あとは「進化」の法則がドーニカするに任せている。しかし、人間は、次の世代が前の世代を引き継いだり乗り越えたりして「新しいモノ」を生み出すことでナニカを成し遂げつつある。そのナニカってのは、生命現象の宿命を乗り越えるということ。生命現象の宿命ってのは、つまりは、「今依存している物理現象の巻き添えを食う」ということ。そして、世代ごとに「新しいモノ」を生み出しているが、他でもない知性現象。

2020年2月16日日曜日

生命現象というのは一種の方便で、コレと言って存在を指摘できる個別の現象は、物理現象と知性現象の二つのみ。生命現象は、物理現象と知性現象が混ざり合った「みせかけ」でしかない。人間は[感受性の異なる三種の視細胞]で「あらゆる」色を感じ取る。それと同じで、物理現象と知性現象が混ざり合うと、それが生命現象として認識される。言ってしまえば、生命現象などという独立した現象は、人間の頭の中の産物で、この宇宙のどこにもない。

人間がアリガタがったり、尊敬の念を抱いたり、愛したりしているものは、実は、生命現象ではなく知性現象だ。というのは前にもどこかで書いたけど、これがなかなか分かってもらえない。大昔に菩提樹の下でゴータマさんが「俺の発見は人間には理解し難いから、説明しても無駄だろう」と思ったのはココ。生命活動と言っているあれは「囲い込まれた物理現象」に過ぎない。水路を水が流れてるとか、風車が回ってるとか、そういうことと何も変わらない。実際、一定の法則性を持った物理運動を目にすると、人間はすぐに「生命」を感じてしまう。ナニヨリの証拠。でも、そこでフハっとしている対象の正体は「生命」ではなく「知性」。

知性現象ってのは何かって言うと「物理現象を制御する現象」。素の物理現象は成り行きが全て。言い換えると[因果が常に固定されている]。原因があって結果という流れ。逆にいうと、物理現象は、どんなに複雑に込み入っていても「結果を見越して原因を作る」ということがない。知性現象が物理現象を「制御する」というとき、具体的に何が行われているかというと、この「結果を見越して原因を作る」ということ。物理現象に対して、物理現象Bを実現するために物理現象Aを(物理法則に従って←ここ重要)実現させることができるのが知性現象。だから生命現象とは、要は「因果をひっくり返した」物理現象の総体。でも、本体は、生命ではなく知性。生命は知性の「影」にすぎない。

面倒臭いというか、面白いのは、しばしばこの認識が逆転すること。人間の多くは、生命現象から知性現象が生まれると思い込んでいる。だがそうではない。物理現象から知性現象が出現した時、それが生命現象に見える。これが正しい認識。

「生命それ自体は無価値=幻影」ということ。人間という存在は何よりもまず知性であり、生命は知性が関わる物理現象の一種に過ぎず、その制御には当然限界がある。以上。

2020年2月15日土曜日

NHKが夜やってる『伝説のお母さん』を面白く観ている。第二回で、人間が勝手に数を減らしているショーシカの問題を魔王(あ、大地真央だから魔王か、今気づいたけど)に説明するビデオの中で、ショーシカの原因は「空気」となっていた。すなわち「子供の世話はメスがするものだ」という「空気」が少子化の原因という説明。ここで言う空気とは、要するに社会全体が持っている[根拠のない雰囲気や思い込み]のことだ。「そういうもんだろ」という決めつけのようなもの。

しかし、「子供の世話はメスがする」は「空気」ではなく「本能」だ。今は「本能」という言葉は流行らないので、もっとまどろっこしく言い直すと、「ヒトという生き物が進化の結果そうなってしまっている」ということだ。もちろん「オスが子供の世話をしない/したがらないのは、進化の結果だからしょうがないだろう」という話ではない。進化が700万年をかけてこのような存在した[ヒトという生き物]のオスとメスのアリヨウと、人間が、せいぜい数千年程度で作り上げた[結婚+労働+納税(徴税)]の仕組み(すなわち人間社会)の間には齟齬があるとイイタイのだ。

今の時代、「自分の子供の世話をしないヒトのオス」というのは、すごくわかりやすい「何考えてんだか」だが、理由は何であれ妊娠したら、経済状態も何も御構い無しで、何がなんでも赤ん坊を生みたがるヒトのメスというのも、やっぱり「何考えてんだか」。しかも「一旦妊娠したら何が何でも産みたがる」はヒトという生き物よりもずっとprimitiveな生き物たちから延々と受け継がれてきた「本能」だから、ものすごく強力で「強情」。これだって、つまりは、人間がたかだか数千年程度ででっち上げた社会の仕組みが、ヒトに埋め込まれた「進化の結果」をオソロカにしたからというダケの問題。

ダイヤモンド博士が言っていた。東南アジアの「伝統的な」暮らしをしている人間の夫婦は、ヨメさんが赤ん坊と家財道具を抱えて、ダンナの方は弓矢だけの手ぶら状態。これは、他の人間にいつ襲われるかわからないから、男の方はいつでも戦える状態でなければならないから、だと言う。要するに、ヨメさんにとってダンナは「ひとり自衛隊」なのだ。「ひとり軍隊」のゴルゴさんと同じ。この「ひとり自衛隊」に子供の世話なんかさせて夫婦揃って後ろからプスっとやられた日には目も当てられないといわけで、ここでは逆に…

2020年2月14日金曜日

とにかく毎日千文字文章を書く。これが千文字作文の決まり。他は何もない。スタイルもジャンルも縛りはない。前もって決めていてもいいし、適当に始めてもいい。動かさないのは千文字になったらピタリとやめるというただこれだけ。だから「毎日」の部分の「毎日」も「毎日の食事」程度の「毎日」。具合が悪かったり都合がつかなかったりしても、毎日の食事を諦めることはまずないが、絶対にないとは言えないのが「毎日の食事」の「毎日」。「千字作文」も、そういう「毎日」。

ぴったり千文字で、強制的に止めるというのは、テレビやラジオの生放送に似ている。タモリが『いいとも』や『Mステ』を延々と続けられたのは、あれは、生放送だから。撮り直しやヤリ直しがなくて、出来が良かろうが「事故」が起きようが、時間が来たら終わる。終わったら家に帰れる。始まる時間が決まっていて、家に帰れる時間が決まっていれば、予定が立つということで、予定が立つとなら、人間は結構いつまでも、それほどの苦もなく続けられる。逆に、始まる時間や終わる時間が一定してない、今日はいつ帰れるか分からない、というが、人間には一番辛い。それで、ビルから飛び降りたり、セーシンを病んだりすることになる。

今回は、第二回で、まあ「千字作文」の趣旨みたいなものを自分自身に向けて書いているわけだが、次回の中身は「千字掌説」になっているかもしれないし、「Vexations」になっているかもしれない(この文章はVexationsではない。癪に触ることを書いているわけではないからだ。これはただのザッカン=雑感。あるいはメモ)。たまには「連続もの」なるかもしれない。

ついでに書けば、誤字脱字誤変換の類もあまりとやかく言わない。1日一本、一年で365本を積み重ねて、その数の多さから、ナニカシラな価値が生まれることを目論んでいるからだ。個々の出来の[完璧性や完成度]は、さして重要ではない。だから、生命現象のやり口に似ている。進化のやり口と言い直してもいいかもしれない。ソコソコのものを、とにかくいろいろバーっと大量に生み出して、そのソコソコゆえの雑多性が、数というモノを一種の変換器にして(あるいはテコ)にして、自覚的に求める[個々の完璧性]では到達できない、言ってみれば、[無意識の完璧性]に到達できればシメたもの。

編集者や編纂者の意識が芽生えると表現は枯れる。リンチも言ってる。カネ…

2020年2月13日木曜日

ひだる神に取り憑かれて、四畳半で死にかけていると、顔面包帯ぐるぐる巻きの死神が現れた。黒い詰襟の死神は畳の上に正座している。包帯の隙間に紙巻きたばこを差し込んで器用に煙を吸う。

「低血糖症。ひだる神の正体は急性の低血糖症さ」

知ってる。
畳を這って冷蔵庫からコーラ缶を取り出し一気に飲む。

「自殺が難しいのは、最大の抵抗者が自分自身だからさ。人間の体は人間の意識とは無関係に生きている。人間の意識が自殺を目論むことはあっても、人間の体は決してそんなことをやらない。人間の体は生命だから。生命に生命の自覚がない。生命は生命というのもの知らない。自分が生命だということを知らないだけではなく、生命というものがなんなのかも知らないという意味だ。そんなものが存在していることさえ気づいてない。だから、生命は生命を終わらせることができない。生命をどうこうしようとするのは、生命ではないものだ。それが、この地球上では、たとえば、人間の意識になる」

死神のタバコの煙で四畳半が霞む。

「意識がなくても人間の体は生きることができる。一方で、体が生きてなくては人間の意識は存在できない。そもそも両者の立場は対等ではない。人間の自殺は、店子の指図で大家が自分のアパートを壊すようなもので、うまくいかないのがアタリマエ」

死神は缶コーヒーの空き缶にタバコの吸い殻を入れる。

「だから、だまし討ちにするしかない。たとえ、自分自身が相手でも、隙をついてやるしかないのさ。大きな失敗をして気が塞いでいるとか、大病で体力が落ちているとか、そういうのは、つまりは人間の体の方に隙があるってことで、そこを狙う。ちまちまやってちゃダメだし、じっくり考えててもダメ。勢いが大事。ある意味、結婚とか就職とかと同じだよ」

立ち上がった死神の頭は天井スレスレだ。

「アメリカ人というのは、いつまでたってもちっとも垢抜けない、地球一ダサい連中で、その幼稚な精神が、いわゆる銃社会を作り上げている。お互いに好きに撃ち殺しあえる銃社会は、まあ、問題も多いが、自殺志願者にとってはひとつの楽園だよ。自殺を思い付いたら、ホームセンターで電動ノコギリを買うように、銃を買って即実行できる。スイスだのに出かけて行って、証明書だの承諾書だのに署名したり、ビデオカメラに向かって意思表明をしたりする必要もない。買って、咥えて、ズドン」

銃、さもなくば、凍死。
そう思って、体を起こした。

2020年1月16日木曜日

二つある死


医学や科学が人間の死を克服する、などと言う時の「死」は、実は二つある。寿命と事故死だ。このうち、医学や科学で克服が可能なのは、寿命の方だけだ。事故死は、あらゆる物理的破壊をはねのけねばならないので、原理的に不可能。宇宙を含め[破壊不可能な実在]は存在しないからだ。寿命に関していえば、それは人間の問題というよりも、人間という生命に適用されている、生命のイチ仕様の問題なので、実はどうにでもなる。寿命のない生命は現に居る。問題は、寿命が克服された時、その生命は、もはや人間ではないだろうということ。なんであれ、生命である限り、人間は死を克服できない。寿命は退けても、事故死からは逃れられないからだ。これが、人間から見た場合の、生命の弱点。生命は個体を顧みない。人間にはそれが許せないし、受け入れられないわけだが、生命という現象にとっては、なんの問題もない。人間は、自覚なく、生命の埒外にいる。

もしも事故死からも逃れたいなら、生命ではなく、情報になる必要がある。情報は、事故死すなわち物理的破壊を、何よりも巧みにすり抜けることができる。無論、事故死を完全に克服することはできないが、媒体の破壊(生命も所詮はイチ媒体である)に否応なく巻き込まれて「死ぬ」ことは、最大限回避できるようになるだろう。うまくいけば、この宇宙の死の巻き添えさえ回避できるやもしれない。

2020/01/16 アナトー・シキソ

2019年12月25日水曜日

刑罰のこと(無期懲役に万歳三唱する人殺し)


「控訴はしません。万歳三唱をします」の裁判についてテレビの人たちの言うことを眺めていて、どうも、21世紀になってもイマダに刑罰に対する認識が統一されていないと思った。

もっと原始的な、ただの「罰」というとき、誰の目にもよくわかるのは「懲らしめる」という要素。人間に限らず、野生動物は「不適切」な振る舞いが原因で、仲間や敵や自然から「罰」を受ける。このとき「罰」を受けた対象は「懲らしめられた/痛い目に遭わされた」ように見えるし、当人も実際そう感じているだろう。しかしこれは「罰」の表層に過ぎない。

罰の本質は「排除」。「懲らしめ」は手段・経過・過程・方便に過ぎない。一見そうは見えないがそうだ。罰の目的は「排除」(ちなみに、罰の「抑止効果」は「あらかじめなされる排除」「未然の排除」)。

罰が排除を目論む対象は「好ましくない現象・不適切な現象・不愉快な現象」つまり現象それ自体。具象物としての或る生物個体は、その現象を生み出した源ゆえに「排除」の「途中経過」である「懲らしめ」を体験する。消防士は火を懲らしめているわけではなく、排除している。

法律を持たない野生動物が別の野生動物に与える「罰」は、「痛い目に合わせる」という手段を経由して、自身にとって不快で不適切な現象を、自身の生活圏や活動圏から「遠ざけて」いるだけ。繁殖期のオス同士の争いが滅多に「殺し合い」にならないのは、不愉快な現象を生み出す対象を「遠ざければ(排除すれば)」用が足りるから。

「排除」には究極のカタチがある。排除の対象となる存在を、存在世界全体から排除することだ。すなわち完全なる消滅。生き物に伴って起きる現象を完全に消滅させようとするとき、もっとも手っ取り早くて確実なのは、当該の生き物もろとも消滅させること。言い換えるなら、当該の生き物を殺してしまうこと。これを人間の持ち物である刑罰の用語で言えば「死刑」になる。

人間が死刑を手放せないのは、特定の人間が生み出す「不適切な現象・不快な現象」を対象にした「究極の排除手段」を、死刑以外にまだ手に入れていないから。すなわち、相対的にテマ・ヒマ・カネのかからない「永久的な排除手段」として、死刑を超えるものを手に入れてないから。なんと言っても、生命教に骨の髄まで毒された「文明人」にでもならない限り、無反省の殺人鬼を社会全体で養い続けるのは、不合理且つ不条理だと思うのが「人情」で、だから人間(社会)は現状、「死刑」は手放せない。

これをひっくり返すと、不快で不適切な現象の「完全な排除」が実現できる方法が他にあるなら、「死刑」はもちろん、方便としての「懲らしめ」すら要らない。かつて「治療」と称して行われた「犯罪者」に対する無知でガサツな外科手術や薬物投与がソレ(ついでに言えば、だいたい、異教徒や同性愛者を犯罪者扱いしていじめるのは、架空のサッカー帝国の法廷が、手を使ってボールを運んだ者を有罪にしているようなもの)。今現在行われている[犯罪者に対する精神鑑定やそれに続く「治療」の類]も実は同列。ここにあるのは、不適切で不快な現象を「排除」するのが目的なら、何も手段は「罰」に限らない。「治療」でいいじゃないか、という発想。その発想自体はケッコウ。しかし「治療」する側の実力がまるで伴ってなくて、「治療」ではなくやっぱり「罰」(犯罪者自身やその被害者にとって)になってるのがオモシロイ(というか情けない)。

さらに不穏なことを付け足せば、そもそも「治療」される犯罪者は「罰」が効かないから治療するんだという側面もあったりなかったりする。

だらだらと喋り続けるなら、刑罰の目的が「懲らしめ」や「復讐」だとみんなに「誤解」されていた過去には、死刑囚をそう簡単には死なせない様々な死刑方法が考案され、実施された。すなわち、できるだけ苦しめて、ゆっくりと殺す方法だ。

過去に於いて、殺し方(死刑方法)が様々に工夫されてきた理由は簡単で、「懲らしめ(罰)」に対する反応(苦しみ具合)が人によって様々だからだ。人前で嘲笑されただけで死の苦しみを味わう者もいれば、鞭打ちに快感を覚える者もいる(『ヘルレイザー』)。そして「なによりも死こそが安らぎ」という変わり者まで稀にはいる。つまり、「懲らしめ」目的の残忍な死刑方法が「工夫」されたのは、死刑をあたえる側(社会や体制)が、万人が死の苦しみを確実に味わう方法を探し求めたからだ。「排除」はどこに行った? 典型的な本末転倒。

刑罰(罰)を「懲らしめ」だと認識するのは、歴史的に見ても誤りであり、自然史的に見てもlost highway状態。人間が生み出す「不快な現象・不適切な現象」を社会から排除することが刑罰の目的だから、「死刑」が「イヤだ」という[純度を増した生命教信仰社会]では、殺人鬼を税金で養い続けるのが「正しい」刑罰のやり方という結論になる。しかし、生命教の呪いから脱却し、物生知現象論的な「家事」の煩わしさから自由になれば、件の[万歳三唱の人殺し]は、人間の「生業」にとって邪魔な存在でしかないわけだから、生かしておく理由は何もない。

何度でも言うが、物生知現象論から言えば、生命にとりわけの価値はない。生命の価値は知性の認証に依存する。実際、当の生命は「生命は尊い」などとは思いもしない。生命が尊ぶのは生命ではなく「身内=遺伝的繋がり」だけ。だから、或る知性が生命の価値を損なうなら、当該知性が依存している当該生命の価値を、知性によって構成されている人間社会が認証を与える続ける理由はない。

おまけで言えば、殺人鬼に対する死刑を嫌がるのは、宗教を理由に、子供への輸血を拒否したり、牛やら豚やらの肉を食べたがらなかったりするのと同じ「信仰」がもたらす歪み。人間にとって生命は大事だが、生命の神聖視は、知性にとっては「命取り/致命的」。

2019/12/25 アナトー・シキソ

2019年12月22日日曜日

「家事」に関する議論は、全て相対的なものである。

2019年11月15日金曜日

無灯火(てつねこ)



1)[生命現象]から出現した人間という[知性現象]は、自ら作り出した[生命現象に依存しない知性現象]即ち[人工人格]に、自らの[知性現象としての遺産]を引き継がせた後、[自発的絶滅]によって、漸進的にこの存在世界から消滅する。

2)全ての現象は[物理現象]である。

3)因果関係にある二つ以上の現象群が[生命現象]である。因果関係は「意図」や「目的」の鋳型であり、それが知性現象を出現させる。

4)現象に干渉する現象が[知性現象]である。第1の現象と第2の現象が互いに干渉して第3の現象が生じる時、[第1の現象と第2の現象の組み合わせ]と[第3の現象]の間に、それまでは存在しなかった[新たな因果関係]が作られる。[知性現象]の特徴は、この[新たな因果関係の創出]である。

5)知性現象としての人間の活動のうちで[生業]と呼べるのは、[人工人格の創出]だけである。それ以外の人間の活動は全て[家事]である。

6)人間という生命現象依存型知性現象が、自らが依存する生命現象の[要望や欲求]に対処するために行う人間の活動の全てが[家事]である。即ち、摂食・排便・睡眠から政治・経済・芸術・医術の全てが[家事]である。

7)人間社会の災厄の元凶は「生命教」である。全ての人間は[生命教]の[狂信者]である。神が人間の妄想であるように、生命もまた人間の妄想である。人間が至上のものとして崇め奉る[生命]の実体は[知性]すなわち[知性現象]である。[生命]および[生命現象]は[知性現象]のための[仕組み]に過ぎない。