2019年8月27日火曜日

『ガンダムUC』を観た


『ガンダムUC RE:0096』を観た(GYAO!で。カネないので)。「節操ナイくらい阿った作品」というのが第一印象(で、最後までその印象は変わらなかったけど)。阿る対象は無論『富野ガンダム』。まあ、それはしょうがない。この作品のそもそもの「出自」(「制作動機」)がそうなんだから。

良く言えば(良く言えば?)、コネタ満載(と言うか「もう、オナカいっぱいです」ってくらい大量にガンダムコネタが出てくるから、もしかして実はバカにしてるのか? 実はパロディなのか?って思っちゃうくらい)の、ガンダムファンによるガンダムファンのための、『ガンダム』という作品それ自体がモチーフのガンダム作品。一言で言えば「メタ・ガンダム」。

で、結末まで見終わった時の印象は「随分、こぢんまりしたお話になっちゃったなあ」。フル・フロンタル(いやあ、full frontalって、English nativeにはどんな語感なんだろうと要らぬ心配までしてしまう)をパクって言えば、なんだか、ちいさな「器」の世界になちゃったね、と。

先に言った「ガンダム」要素を全部取っ払った時のこの作品の「正体」は何かって言ったら、結局、「戦争歴史物」ってことになる。つまり、NHKスペシャルでありそうな「激動の昭和史」的な。戦後70年が過ぎ、その当時は分からなかったことが、取材の結果色々分かって、実は裏であの軍人やあの政治家やあの大実業家たちがこんな画策をしてとか、あの国とこの国があんな密約を交わしていたとかっていう、歴史に埋もれた巡り合わせだの陰謀だの策謀だのを「へえーそうだったんだ」とか「なんて愚かなんだ」とか言って面白がるアレ。でも、そういうデキゴトは、『ガンダム』という作品の基準からすると、なんだろ、「背景」というか「方便」であって、まあ、また同じ単語を別の意味で言ってしまえば、料理に於ける「器」のようなもの。

でも、『ガンダム』ファンの結構な割合が、戦争マニアや兵器マニアや戦記マニアの類なので、こういう人たちが作る「続編」はどうしても、この「器」の方が凝ったものになる。こういう人たちは、使いたい「器」はたくさんあるけど、作れる「料理」(「人間」に対する独自な思想みたいなもの)はサホドないから、ドッカから(大抵は本家の『富野ガンダム』から、あるいは実際の戦記などから)借りてきたような登場人物たちが、ドッカから借りてきたようなセリフを吐きながら、死んだり、泣いたりすることになって、それを見せられてる方は、わりとシラケる。で、さっきも言ったけど、「これってもしかしてガンダムを貶めてる(バカにしてる)のか」って一瞬思ったりもする。

富野さんの手による『ガンダム』はどれも、その作品世界に「訳のわからない野蛮な壮大さ」みたいなものがある(『イデオン』もそう)。しかしこの『UC』にそれはない。「激動の昭和史」が「激動の宇宙世紀」になっただけのことだからだ。というと多少語弊があるが、しかし事実そうなんだから仕方がない。

ついでだから言ってしまえば、Nスペなんかで「激動の昭和史」的なものを見ている時の視聴者は必ず「上から目線」。つまり、前の時代や前の世代の人々の「愚かさ」「分かってなさ」に対して、やれやれと首を振る、という気分が必ずどこかにある。「歴史の後ろから来た者たちの特権」みたいなものを享受/悪用しているのだ。「激動の昭和史」的なものを見てると、驚くような陰謀策謀が渦巻き、たくさんの人が死んで、伸るか反るかの大勝負が展開されるけれど、その人々の「ツモリ」や「思い」が「(誤解にせよ)分かる」という感覚がある(構造は野球解説者の解説と同じ)。それが「作品世界の器」を「小さく」する正体で、まあ、本当はコチラ(見る側)の問題。

で、『ガンダムUC』にハナシを戻すと、この手の「激動の昭和史」的な物語を描いていると、戦いに巻き込まれた人々の陰謀や殺し合いや苦悩という「目眩し」に、おそらく製作者たち自身も騙されて「何か言ってるような気分」になってしまう。しかし、そういう「目眩し」から自由な目で作品世界を見てみると、案外「大したことは何も言ってない」ことに気づく。つまり、その作品ならではの独自性というか、一回では消化しきれないほどのデカかったり深かったりする思想性みたいなものはない。作品が提示する思想も解釈もどこか「既製品」的ということ。この『ガンダムUC』もそうした作品の一つ。作品の中で起きている事実は大掛かりで壮大っぽいけど、学校の屋上で中学生が、ただ大きな声で「好きだー」って叫んでる、あの感じに似てる。

物語は最後の最後に「千手観音=赤いネオ・ジオング」が、仏教説話よろしく、主人公を「世界の果て=時間の果て」に連れて行き、世の無常・人の無常を説くというオヤオヤな展開。通俗仏教の世界観は嫌いじゃないけど、アレをやっちゃって、「成仏しそこなったシャア」(フル・フロンタル)が、「ニュータイプ=仏陀(悟った人)」的なことを口走ってしまったら、もうただの法要の時の坊主の法話。この『ガンダムUC』で一番「ズッコケタ」のは、このシャア(の亡霊)に拠る「真のニュータイプ」解釈。

この宇宙の無常を悟ったものが真のニュータイプって話はまあいいとしても、真のニュータイプになったら、途端に肉体から自立した純粋な「個性=自我」だけの存在になって宇宙を飛び回るってのはナントモお粗末。けど、映画版の『イデオン』の最後の「とって付けたような場面」(富野さんが登場人物たちを「成仏」させようと思ったんだろう)にも通じるから、つまりは、ソウイウコトなのだろう。まあ、典型的な「生命教信者が作った生命教信者の世界観の作品」だよね。

ついでだから言うと、生命教信者による生命教信者のための生命教信者の世界観を描いた作品は、まあ、とことんまで行くと、結局みんなこうなる。なぜなら、生命教信者たちは、生命現象と知性現象の区別がついてないから、生命現象がいずれ必ず破綻するという事実に対して、どうしても「本当の生命」とか「生命の根源」みたいなものを夢想して、そこに「活路」なり「希望」なりを見出そうとするから。つまり、いずれ滅びる「肉体としての生命」とは別に、永遠性を持つ「肉体から自立した真の生命」というものが存在するはずだという「信仰」で、なんとか「虚しさ」を切り抜けようとする。そうとでも考えないとヤッテラレナイからね。でも、「永遠の命」つまり「死後の命」という概念は、生命現象型知性現象にのみ必要とされるもので、日本のお正月の門松のようなものでしかないことはキモに銘じておいたほうがいい。

まとめると、「激動の昭和史」的な「戦争歴史物」という車体に、「仏陀思想/悟り思想」というエンジンを載せて、ガンダム関連のステッカーをベタベタ貼った「ガンダム」型のカウルを被せて走らせたのが、この『ガンダムUC』という作品。ニセモノって言えばニセモノだし、ホンモノって言えばホンモノ。

2019/08/27 アナトー・シキソ

2019年7月5日金曜日

アナトー・シキソの「ケセラセラ」


あのさ、違うよ。「どうにかなる」と「なるようになる」は全然違うから。たとえば、何かノッピキナラナイ事態が進行しているとして、それについて、何の根拠もなく、とにかく最悪の結末は回避されると能天気に信じているのが「どうにかなる」で、最悪の結末が回避されても、訪れても、どちらであっても気にしないと笑ってるのが「なるようになる」。

アイツの態度は「なるようになる」であって「どうにかなる」じゃない。みんなよく間違えるんだけど、アイツのは「なるようになる」なんだよ。「どうにかなる」じゃなく。

アイツの態度の根底にあるのは諦め。人生に対する絶対的絶望だね。アイツの過去に何があったのかは知らない。何もなくて、ただ生まれつきそうなのかもしれない。いや、まあ、生まれつき人生に絶望している人間が果たしているものかどうかは知らないけどさ。

イイコトなど全く期待してないのに楽観的になるってことは、要するに、悲観が強すぎて楽観にまで突き抜けてしまった状態。アイツの場合はまさにそれなんだよ。

そういう点ではブラジルのサンバに似てる。サンバは、明るくて、ナンにも考えてないみたいに楽しげだけど、元々は、普段ギュウギュウに抑圧されている奴隷たちが、祭の時だけはハジケることが許されて、それで発展した音楽だからね。つまり、明るく楽しいサンバの、あの明るさや楽しさは、絶望的情況があればこその明るさや楽しさなんだ。

それはともかく。だから、普段の態度を見て、アイツのことをただの能天気だっていうふうに捉えると、アイツの本質を見誤るよ。ただの能天気は往く道だけど、アイツの能天気は還り道だから。

あと、日本の仏教には「他力本願」ていう考えがあるから、君は、アイツの態度をソレとゴッチャにしているところがあるね。でも、超越的な存在が良きに計らってくれると考えるのが他力本願で、良きに計らうも計らわないもないってのがアイツなんだ。全然違う。

そう、だから、相当テゴワイよ。あのお気楽そうな見た目とはウラハラに、その内面は複雑怪奇。実際、俺の仲間が何人もアイツの中に入り込んでソレッキリだからね。取り憑いて操るつもりが、ことごとく捉えられ、分解され、最後はきっとアイツの屁になって体外に放出されてしまったんだよ。だから帰って来ない。

うん。俺はもう退散する。俺たちが何をやっても無駄だってコトが、もう充分に分かったから。アイツはある意味、最強だね。

2019年7月4日木曜日

isotope 24「変身」


その朝、妹は兄を起こそうと部屋を覗いた。
だが、ベッドの上に兄の姿はなかった。
代わりに一匹の毒虫がシーツの上で仰向けになって無数の脚を動かしていた。
妹は年老いた両親に「お兄さまは毒虫になった」と伝えた。
両親は驚き、倅の部屋の覗いた。
妹がベッドの上の毒虫を指さす。
両親は抱き合って「倅は毒虫になってしまった」と云った。

一家は大黒柱を失った。
家族は話し合い、部屋を貸すことにした。
無論、毒虫(=兄=倅)の部屋だけは別だ。
貸せはしない。
ドアに鍵をかけ、その鍵は家族だけが持った。
毒虫(=兄=倅)の姿を他人の目に触れさせるわけにはいかない。

三人連れの男が下宿人になった。
妹と両親は居間へ移った。

ある日の夕食後、妹はバイオリンを演奏した。
下宿人たちが無理に強いたのだ。
妹の演奏を聴きながら、薄ら笑いを浮かべ合う三人の下宿人。
妹は蔑みに耐え、バイオリンの弓を動かし続けた。
その時、下宿人のひとりが床に一匹の小さな毒虫を見つけた。
彼は「おい、困るなあ、汚い虫がいるぞ」と云った。
妹と両親は揃って「あっ」と声を上げた。
「なあに、こんなものはこうやって」
別の下宿人はそう云うと靴の底で勢いよく毒虫を踏み潰した。
両親は床に崩れ落ち、妹はバイオリンを放り出して絶叫した。
そして三人ともそのまま意識を失った。
下宿人たちは「大袈裟だな」と顔を見合わせ笑った。

その時、毒虫の部屋でゴトリと音がした。

三人の下宿人は〈開かずのドア〉に目を向けた。
無音。
ドアの下から一匹の小さな毒虫が這い出した。
「まただよ」と下宿人のひとりが顔をしかめた。「掃除はちゃんと……」
云い終わる前にドアの下から更に3匹の毒虫が現れた。
続いて4匹、5匹……〈数〉はすぐに〈量〉になった。
ドアの下から溢れ出すそれは、まるで黒い液体だった。
ザワザワと鳴る無数の脚を持った異様な一塊。
それは床を流れ、壁を這い上がると、天井の隅の暗闇に吸い込まれ、消えた。

三人の下宿人はその間ずっとテーブルの上で抱き合って震えていた。

さて、あの朝、妹が部屋を覗くとベッドに兄の姿はなかった。
一匹の小さな毒虫がシーツの上で仰向けに無数の脚を動かしていただけだ。
妹は「お兄さまは毒虫になった」と云った。
両親も「倅は毒虫になった」と云った。

三人は決して部屋の奥にぶら下がった兄=倅の死体を見ようとしなかった。

男は首を吊った。
死体は、毒虫たちに食い尽くされたあの晩までそこにぶら下がっていた。

isotope 23「薔薇海小学校」


有名な薔薇海小学校の授業を見学した。キツネの教師がキツネの生徒に教えている学校。授業見学には校長が付き添う。授業中はもちろん禁煙だ。

若いキツネの教師が居並ぶキツネの生徒達に云った。

「人間の民俗学者が書き記したこの『遠野物語』には、無知な人間が勝手に怖がったり、妄想したりして、その罪を、たまたまその場に居合わせただけの無実のキツネに着せ、裁判も何もなしでイキナリ撲殺して澄ましているという話がたくさん出てきます。それは『遠野物語』の中でも、25年後の再版時に付け加えられた『遠野物語拾遺』に多いようです。このことから、皆さん、何が分かりますか?」

キツネの生徒達は互いに顔を見合わせて黙っていたが、そのうち一人の生徒が手を挙げた。キツネの教師は頷いて云った。

「はい、ではツネキチさん」

緑色のチョッキを着たツネキチと呼ばれたキツネの生徒はすっと立ち上がって云った。

「人間の無知はめったに治らないということです」

キツネの教師は「なるほど、それもありますね」と答え「他の意見はありませんか?」と続けた。また別の生徒が手を挙げた。「はい、どうぞ」

「人間は偏見の強い生き物だということです」
「そうですね。確かに人間は偏見の強い生き物です。他には?」

赤い大きなリボンをした女の子のキツネが手を挙げた。
「はい、キネコさん、どうぞ」

キネコと呼ばれたその赤いリボンのキツネはクスクス笑いながら云った。

「人間はキツネを恐れているのだと思います。人間にはないチカラをキツネが持っていると思い込んでいますから」

キツネの教師は「そうです」と大きく頷き、生徒達を見回した。

「人間が私たちキツネを恐れているのはなぜか。それは今、キネコさんが云ってくれたように、人間が、私たちキツネには、人間にはない特別なチカラが備わっていると信じ込んでいるからです。しかし、みなさんもご存知のように私たちキツネにそんなチカラはありません。つまり、死んだ人間を自由に動かしたり、人間に幻を見せたり、他の人間に化けたりというようなチカラは、私たちにはないのです。ここから分かるのは、無知は未知を生み、未知は恐怖を生み、その恐怖は必ず、謂れのない暴力に発展する、ということです」

キツネの教師はそう云うと、黒板に〈無知〉〈未知〉〈恐怖〉〈暴力〉と書き、それぞれから矢印を引いて、四つの語をつなげた。

キツネの校長がこちらを向いて、どうですか、という顔をした。

isotope 22「彷徨える阿蘭陀人」


「『彷徨える阿蘭陀人』とは私のことで、あなたではありませんよ」
赤ヒゲのノッポは、木靴のつま先で脹ら脛を掻きながら俺の主張を否定した。
「なによりまず、あなたは阿蘭陀人ではない」
それから俺の上から下までを改めて眺め回してこう付け足した。
「更に云えば、その身なり、明らかに時代が違います」
なるほど、ごもっとも。ユニクロにドテラを羽織った俺は、少なくとも20世紀以降の存在だ。しかも、こたつとコンビニとティッシュペーパーがお似合いのハンパ者だ。どう間違っても世界の海を永遠に彷徨うガラではない。ただ、一つ云っておきたい。審判のその日まで俺は間違いなく彷徨い続ける。それはアンタと同じだよ。
赤ヒゲのノッポは「ハッ!」と笑う。
「あなたも神に呪われたのですな?」
いや、神と関わったことはないね。神を名乗るヤツは何人か知ってるけど。
「では、今日までどのくらい彷徨いました?」
三十年くらいかな。
相手はフフンと云って、ポケットから手帳を取り出し俺に渡した。
「私が彷徨い始めてから最初の百年間の日記です」
開いてみるとページにびっしりと文字が書き込まれている。が、阿蘭陀語だから全く読めない。
「日記はこれきり書いてません。ムナシイだけですから」
俺は手帳を返す。
「最近は『審判の日なんて永久に来ないんじゃないか?』なんて思い始めてますよ」
阿蘭陀人。そう云えば流暢な日本語だ。
「永く世界中を彷徨ってますからね。めぼしい言語は大抵喋れます」
通りの向こうのコンビニの前が急に騒がしくなる。見ると、高校生風の男女が7、8人。赤ヒゲのノッポもその様子を眺める。
「彼らは最後の審判の日の存在を知ってるのでしょうか?」
そんなものは死んでから知ればいいよ。
「私だって本当には死んではいないのです。しかしすでに審判の日を待ち望んでいる」
ただ、アンタは生きてもいない。
「そこです。私は一体何なんでしょう?」
さあね。ところで『彷徨える阿蘭陀人』のアンタがなんでオカを彷徨いてる?
「いや、前に上陸したとき船に置き去りにされましてね」
それっきり?
「はあ。迎えにも来てくれません」
ひどいなあ。
「いや、そうでもありません。オカは楽ですよ。海は過酷です」
あ、冷えると思ったら……
「雪ですね」
白いふわふわが、見上げる阿蘭陀人の体を通り抜けていく。俺は手のひらに雪を受けてそれが溶けるのを眺める。
「あなたはまだ肉体に囚われた存在のようだ」
いや。これは俺の船だよ。

アナトー・シキソの「芝浜」


一代で財を築いた男が堤防の上で俺に云う。

「若い時は若さっていう財産があるから、やっぱり真面目に働かないんだよ。どうにかなると思っちゃう。その気になればカネなんかすぐに稼げるって。いや、実際その気になれば若さでどうにかなるもんなんだよ。若いと病気はないし体の無理も利くからね。実際オイラがそうだったし。

けどね、なかなかその気にならない。つまり、若い時には、自分はいつまでも若いと思っちゃうから。いつまでもってことはなくても、まあ、明日や明後日や来年や再来年はまだ若いと思って今日を怠けちゃう。で、気がついた時には、膝が悪い、腰が痛い、目が霞む、物が覚えられねえってことでもう手遅れ。オイラ、そういうヤツラをいっぱい見てきたよ。

オイラだって危なかったさ。酒飲んで仕事をサボってばかりで何度母ちゃんを怒らせたり泣かせたりしたことか。その母ちゃんも去年ぽっくり逝っちまったけどね。

若いヤツがその気になるにはキッカケが要るんだなあ。オイラの場合はこれだよ。この財布。この財布がオイラの人生を変えた。運命の品ってヤツさ。買ったんじゃねえよ。貰ったんでもねえ。拾ったんだ。ちょうどこの辺りだったなあ。海に沈んでるのを見つけたのさ。今じゃここも堤防なんか出来てこんな感じだけど、昔は自然の浜だったから見えたんだよね。水の中でゆらゆら揺れてるのが。そいつを拾った。

拾った財布なんて大抵は空だけど、こいつには入ってたね。ビッチリとウナルほど。だからホント云うと、この財布じゃなくて、中に入ってたカネが、オイラが真面目に働くようになったキッカケなんだけど。

うん。結局、落とし主は現れなかったから財布もカネもオイラのものになったよ。なったけど、別にオイラ、そのカネでナニカしたわけじゃない。詳しい説明は省くけど、拾ったカネには一切、手をつけてないからね。お守りみたいなもんだから、普通にカネとして使っちゃダメな気がしてさ。だからほら、今もこの財布にはその時のカネがそっくりそのまま入ってる。

それにしても、いったい誰の財布だったんだろうねえ」

男がそう云って感慨深げに財布を眺めていると、不意に海面から光る腕がぬっと伸び、男から財布を奪って海の中に持ち去った。そしてすぐに、今度はボンヤリ光る巨大な女の顔が海面に現れた。男はその巨大な女の顔に見覚えがあるらしい。

「なんだ、ぜんぶ母ちゃんのシワザだったのか」

男はそう云って笑った。

2019年7月3日水曜日

アナトー・シキソの「白雪姫」


会って来たよ。確かに美人だね。けど頭の方はもう完全にダメだ。仮死状態が長過ぎたから脳にダメージを受けたんだろう。いや、もしかしたらその前からダメになっていた可能性はあるヨ。逮捕された七人の証言に拠ると、連中との暮らしは過酷を極めていたようだしさ。若い女が山の中で山賊七人と何ヶ月も一緒に暮らして無事でいられるわけがないもの。妊娠しなかったのが不思議なくらいさ。というか、実際は妊娠して密かに堕ろした可能性だってなくはない。本人は否定しているけどね。

そうそう。娘に対する殺人未遂容疑で告訴されてる母親だけど、実は物的証拠は何もないんだ。あのオツムのイカレタ美人の訴えの他には具体的な証拠は何もない。母親自身は無論無実を主張してるさ。

一緒に暮らしていた七人の山賊たちの話だと、あの美人の精神状態はかなり前から相当に不安定で、合計三度自殺しようとしたらしいね。で、初めの二回は、山賊たちがガラにもなく蘇生させたのさ。連中にしてみたら、自由に出来るせっかくの若い女を死なせてしまうのはモッタイナイと思ったんだろうな。ところが蘇生させると、自殺じゃなくて母親が私を殺そうとしたんだってご当人は譲らない。男たちはそんな馬鹿なって驚いたらしい。こんな険しい山奥に、そう若くもない母親が一人でどうやって来たんだって。

で、三回目の自殺の時に、山賊たちも遂に蘇生を諦めた。蘇生させても、もう使い物にならないと思ったらしい。

で、どうしたかって?

売ったのさ。相手は高貴な血筋の死体愛好家。いるんだ、そういうのが。女の死体を裸にして、眺めたり、嘗め回したり、突っ込んだり、剥製にしたりする妙な輩が。誰って、それは知らない。極秘なんだってさ。高貴な血筋だからだろ。ともかく、七人の山賊はそいつに被害者の死体を売った。死体と云っても本当は仮死状態だったんだけど、ほっといてもどうせ腐るだけだし、だったら高く売れる新鮮なうちに売った方がいいという判断だね。連中はいつだって実際的だよ。

で、その高貴な血筋の、高貴ではないネクロフィリア・プレイの独特な刺激のおかげで、仮死状態だった被害者が息を吹き返し、高貴な血筋の変態は慌てて病院に駆け込んだ。好きなのは、あくまでも死んでる女だからね。こうしてこの件は世の知るところとなったわけさ。

真実を伝えるって? 森で小人達と暮らし、最後に王子様に救われたと信じてるんだからそれでいいじゃないか。

2019年7月2日火曜日

アナトー・シキソの「ヤマタノオロチ」


全部で8人だよ。8人組。いや、ただの人間。集まったバカ同士でチームを組んでいい気になって暴れ回るってのは大昔からある。人間の本性なんだな。今から千年前も今から千年後もきっと同じことをやってる。連中も同じ。8人組だからヤマタノオロチなんだろう、クダラネエ。まあ、イキッて悪党ぶってても所詮は田舎もんだから、都会から来た俺にとりあえず引け目があるのさ。会ってすぐに分かったよ。訛ってるし、着てるものもアレだし。だから、逆にこっちがシタテに出てさ、おだてて酒飲まして一緒にカラオケ歌ってダンスの手ほどきなんかして、ああセンスありますねえ、なんて云ってやれば、もう全然、百年来の大親友のツモリ。で、酔い潰れて寝入ったところを皆殺しにしてやったのさ。楽勝だったよ。写真も撮ったけど見るかい。ちょっとグロいけど。

男はそう云ってスマートフォンを出した。アタシは遠慮した。

あとこれがリーダー格の奴が持っていたナイフ。高そうだったから持って来たけど、あげようか。

男が取り出したナイフにアタシは見覚えがあった。映画の中でランボーが持っているでっかいナイフと同じナイフで、アタシが弟に買ってやった物だ。アタシは要らないと答えた。

男はナイフを無造作にテーブルの上に放り投げると、ビールをまた一本カラにした。冷蔵庫から新しいのを出してやると、礼も云わず受け取り、すぐに開けて口をつける。金持ちのキチガイは世界の全てを自分の所有物のように扱う。

貧乏人の家に生まれたキチガイは、あっさりアスファルトのシミになるか、そうでなくても、結局はこの世のあの世に隔離されて社会から抹殺される。けれど、金持ちの家に生まれたキチガイは、殺されもせず、隔離もされず、ひたすら社会に留まり続けて害を成す。そしてなぜか、後の世で、英雄や偉人と呼ばれるようになることさえある。

同じキチガイでも貧乏人と金持ちとでは全てがまるで違う。

いや、その話は今はいい。アタシは目の前の具体的な一事例に片をつけたいだけだ。相手はクスリ入りのビールを3缶も飲み干し床に伸びている。自分でやったのと同じ手に引っかかるマヌケ。アタシは形見のナイフを手に取ると鞘から抜き、逆さに構えて大きく振りかぶった。

ヤマタノオロチ。股が8つなら頭は9つよ!

最後にアタシは、男を真似て男のスマートフォンで男の写真を撮り、その写真を、男のスマートフォンに登録されている全てのアドレスに送った。

2019年7月1日月曜日

アナトー・シキソの「星の王子さま」


自家用飛行機が砂漠の真ん中に不時着した。そのとき一緒に無線機も壊れた。飲み水が少ない状態で焦って飛行機を修理していると子供が現れた。子供の突然の出現に、オレは、近くの村とか、たまたま通りかかった旅行者の一団とか、そういうものを期待した。だが子供は、僕も一年前からこの砂漠で迷子なのさ、と云った。

嘘だ。

一年も砂漠を彷徨っていると云う子供の髪はサラサラで、肌は日焼けもせず真っ白だった。それは僕がこの星の生き物ではないからだよ、と子供が云ったのを聞いてオレは飛行機の修理に戻った。

自称異星人の子供は飛行機の修理を手伝うわけでもなく、さりとて、この一年の間、過酷な砂漠でどう生き延びてきたのかというオレの質問に答えるでもなく、だが、残り少ない貴重な飲み水はきっちりと要求し、自分の住んでいたという星についての荒唐無稽を延々と喋り続けてオレをイライラさせた。おかげでオレは飛行機の修理に集中出来ず、飛行機はいつまで経っても直らなかった。

そして飲み水が尽きた。死と本気で向き合う時が来たのだ。

夜になって、子供が、井戸を探しに行こうと云いだした。水がなければ死ぬしかないし、じっと死を待つよりその方がいいとも云った。こんな砂漠の真ん中に井戸などあるものかバカバカしいと思ったが、二人で歩くと井戸はすぐに見つかった。子供は井戸の存在を最初から知っていたらしい。

オレと子供は井戸の水を飲んだ。

井戸の縁に座った自称異星人の子供は、ちょうど今、僕の星がこの場所の真上にある、と云って夜空を指さし、帰るなら今だね、と笑った。

オレたちは井戸のそばでそのまま眠ってしまった。それまでは蠍や毒蛇を警戒して飛行機の中で寝ていたのが、飲み水の心配がなくなり気が大きくなってしまったのだ。だが、無意識は警戒を忘れず、オレに一つの夢を見せた。井戸の隙間から飛び出した毒蛇に噛まれた子供が赤黒い顔をして死んでいく夢だ。驚いて目を覚ますと、本当に子供は死んでいた。ただ、どう見てもゆうべのうちに死んだわけではなさそうだった。子供の死体はカラカラに干からびていて、抱き上げると嘘のように軽かった。

子供の服のポケットから何かが落ちた。拾うと小型発信器で、電池が切れていた。飛行機の中を引っ掻き回して使いかけの電池を見つけ、それで小型発信器を作動させた。数時間後、救助ヘリが飛んで来た。それには子供の両親も乗っていた。無論、二人とも地球人だった。

2019年6月30日日曜日

アナトー・シキソの「粗忽長屋」


ウチでぼんやり火星探査機キュリオシティの行く末を考えていると、アイツが来て、オレが死んでると云う。マルイのスーパーの前で死体になって転がってると云う。見物人だか野次馬だかがいっぱい集まってミットモナイたらありゃしないと云う。

マサカと思い、少し考え、マサカと云った。オレは今、煙草の先に灯る火を眺めながら、火星の砂の上でやがて孤独に朽ち果てる探査機について、詩的な思いに耽っていたのだ。こういうことは死んでいては出来ないはずだろ?

それに対してアイツは、そんなことはモンダイじゃない、現に死体はあるのだ、とやや強い口調で主張する。更に、おそらくオマエは、ドッペルゲンガー現象に於ける、怖がる方ではなく怖がられる方に違いないと付け足す。そしてすぐに、その姿を見たら死ぬと云われるドッペルゲンガーの、死ぬ方ではなく、見られて殺すほうなのだ、と云いなおし、分かるか、分かるだろう、とオレに迫った。

イヤ、とオレは答えた。分からないなあ。

実際に行ってミテミレバ分かる、とアイツが云うので、オレは科学雑誌の最新号を畳み、煙草を消し、飼い猫のためにほんの少し窓を開けたままにしてアイツと出掛けた。

オレの死体があるというスーパーのマルイの前はケッコウなヒトダカリだった。警察もどうしてさっさと死体を片づけないのだろう、とオレは思う。アイツが人垣をかき分け、オレが続く。

スーパーのロゴ入りの大きな足拭きマットの上に布を被せられた死体があり、その脇に制服警官が一人立っている。イキダオレだと制服が云う。イキダオレというのは心不全と同じで、理由は分からないがとにかく死んだのだ、と云うかわりに使う空疎なコトバだ。警官が死体に被せた布を捲ると確かにオレと同じ顔。背格好もそっくりだし着ている服まで同じ。マルイの衣料品コーナーの今週の特売品。

どうだい、とオレは訊く。アイツは、そっくりだ、イヤ間違いない、コレは確かにオレだと答える。そうだろう、だから云ったんだ、とオレ。

しかしマイッタな、とオレは思う。これで何人目だ? オレは警察無線に手を伸ばし、思い直して引っ込める。死体を含めここに集まっている全員がオレなのだ。周りの野次馬も今やって来た二人連れも。

困り顔の警官と目が合ったオレはそっと野次馬たちから離れる。あの死体の顔、まず間違いない。しかしここは当人に確かめさせるのが一番だ。電話が鳴った。出た。
「おい、お前、死んでるぞ」

2019年6月29日土曜日

アナトー・シキソの「赤ずきんちゃん」


もし人間が狼に襲われて食われても、何の痕跡も残さずこの世界から消えてしまうことはない。魂の話じゃない。肉体の話。人間が肉食動物に襲われ食われたとしても、食い残しが現場に残る。その食い残しをスカヴェンジャー達が片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消える。

その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれた(ハラワタだけを食われたのだろう)バアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の頭部と、多分その女の子のものだろう、人間の小さな右手だった。既に狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。独特の、嗅ぐとイライラするニオイだからだ。確かに、狼と同じように、人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回、バアさんと女の子をこんな姿にしたのは快楽殺人者ではない。狼だ。

理由。

狼は殺すのではなく、食う。そして食う行為は遺体をひどく損傷させる。そのために、その遺体は、快楽殺人者の悍ましい「作品」のようになるが、ある点が決定的に違う。それは命に対する執着だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に、そもそもが命に取り憑かれて狂った人間である快楽殺人者の殺戮には、当然のように命に対する病的な執着の跡がはっきりと残る。そこが違う。

山小屋の殺戮には命に対する執着の痕跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でないのであれば、俺の出番はない。動物の老いた個体や幼い個体が肉食動物の餌食になるというのは自然界ではありふれた光景であり、むしろ健全な命の営みとさえ云える。

俺は中立を守って引き下がった。

だが、俺の予想どおり、人間達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかったようだ。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の山猫、そして一組の狼のツガイが「容疑者」として猟銃で撃ち殺された。

命の「収支」が合わなくなることなどお構いなしだ。

村人達は、ツガイの狼のうち、大きなオスの方を「犯人」と断定し、その死体を村の中央の広場に吊るすと、石を投げ、棒で突き刺し、皮をはぎ、最後に火あぶりにした。それから火の周りで酒を飲み始め、歌ったり踊ったりして夜中まで騒いだ。

次の日、村に行くと、広場に吊るされていた狼の死体は消え、村人の姿もなかった。

俺は、村のアチコチでたくさんの赤い頭巾を拾った。

アナトー・シキソの「早すぎた埋葬」


もっとも恐ろしいのは死ぬことか? 否。なぜなら死は体験ではないから。死は決して体験されることのない永遠の虚構。決して体験されない虚構に恐怖を抱くのは、自分ででっち上げた怪談話が恐ろしくて夜中に便所に立てなくなるようなもの。メタ世界を生きる人間ならではの愚かな妄想。

余談だが、臨死体験者の語る体験は断じて死の体験ではない。生(せい)の体験だ。臨死体験者の誰ひとりとして死者になったことはない。彼らはその時も、それを語る時もずっと生者である。彼らは、こちらの瀬戸際を、あたかもあちら側であったかのように思い込み語る。逆のことが、胎内にいる間や、眠っている間、泥酔で記憶をなくした間に起きている。その間を確かに生きていたという自覚はひとつもないが、人は決してそれを「臨死」とは呼ばない。

ポーの『早すぎた埋葬』が読者に突きつけるのは[死にかける=瀬戸際の生]の恐怖ではない。生きながら閉じ込められること。それが『早すぎた埋葬』にある恐怖だ。一切の身体的自由を奪われた状態で生き続けること。それが人間にとって最大最悪の恐怖である。

ポーが恐れたような早すぎた埋葬は、医学の発展により取り除かれた。すなわち、誤って生きたまま埋葬される人間は、現代社会に於いてはまず存在しない。しかし喜んでばかりもいられない。前のめりの医学と、頑固な生命教信仰が絡み合って、人間の死に対する社会の態度は大きくつんのめった。

いまや新たな恐怖が出現したことを私は知っている。

それは、いわば「遅すぎる埋葬」。「無の安楽」へと向かおうとする者の足首を掴んでこの世に引き摺り戻し、重篤な機能不全を起こした[肉体という棺桶]に閉じ込める、この上もない残虐行為だ。

この「遅すぎる埋葬」のうち最も恐ろしいのが、いわゆる「完全閉じ込め症候群」である。例えば、筋萎縮性側索硬化症の進行によって、眉ひとつ動かせない状態になっても、あるいは、自力呼吸すら出来ない状態になっても、現代の呪われた医学と生命教信仰が人間を生かし続ける。

だがこれは、新たな「生き埋め」なのだ。

死んだ肉体にその魂が生き埋めにされること。それこそが現代版『早すぎた埋葬』の恐怖であると私は主張する!

「何にも知らないくせに。誰がこんなこと書いてるのかしら」
妻はスマートフォンから目を上げると、見開いたままでマバタキしない夫の、真っ赤に充血した両目に定時の目薬を注した。

——何も知らない?

2019年6月28日金曜日

アナトー・シキソの「般若心経」


本名アヴァローキテーシュヴァラという長い名前の、みんなはナゼかカンノンと呼んでる体重150キロの女装家が、ハンバーガー屋の窓際の席で僕に云う。

宇宙空間に1人漂っていると想像してみなさいよ。その宇宙にはたったひとつの星しかないの。そんな宇宙はアリエナイけど、まあ、あると想像しなさい。真っ暗な宇宙空間の遥か彼方にその星が見えている。小さな白い点。さて、この時、その星を眺めながらアンタはほんの少し横にズレる。星は見えなくなるかしら。

ならんね。

そうね。じゃあ、次に、光速宇宙船に乗ってその星から百光年ほど離れたら、今度は星は見えなくなるかしら。

宇宙の年齢にもよるけど普通は見える。

ここで注文していたチキンバーガーが運ばれて来る。僕の奢りだ。カンノンはチキンバーガーをウマそうに食う。肉食上等。カンノンはバーガーを平らげ、バニラシェイクをズコズコと飲み干したあと、あーっと満足してから、静かに手を合わせた。

つまりなに、と僕は催促した。カンノンは、うん、と云ってからさっきの続きだ。

星がたったひとつしかない宇宙空間で、最初の位置でも、少しズレた位置でも、百光年離れた位置でも同じく星が見えてしまうということの意味よ。あと、こういう想像もいいわね。アンタの後ろに、もう1人誰かがいる。その誰かはアンタのすぐ後ろにいる時はアンタがジャマで星が見えない。けど、アンタから百光年も離れた後ろにいれば、やっぱりちゃんと星は見える。この意味を理解するのよ。つまりね、この場合たったひとつの星しか存在しない宇宙の、少なくとも百光年以内の領域に、そのたったひとつの星から発せられた光が満ちているということ。だいたい殆ど隈無く。

へえ。

分かってないわね。それはつまり、その星が見える限り、真っ暗な宇宙空間はその星の外部ではなく内部だということよ。その星が見えるということは、その星の光の海の中にいるってことだからね。

そうなのかな。

そうよ。そしてこのことはひとつの真理を示してる。すなわち物質とは干渉する空間にすぎない。アンタが、存在すると確信してる物質も、本当のことを云えば、アンタが、何もないとみなしている宇宙空間と同じということね。干渉する空間であるアンタが干渉可能な空間だけを限定的に物質とみなす。それだけのことよ。この世界にはただ空間だけが、厳密には時空間だけが存在する。無いだけが有る。これぞ即ち、色即是空、空即是色。