2019年6月29日土曜日

アナトー・シキソの「早すぎた埋葬」


もっとも恐ろしいのは死ぬことか? 否。なぜなら死は体験ではないから。死は決して体験されることのない永遠の虚構。決して体験されない虚構に恐怖を抱くのは、自分ででっち上げた怪談話が恐ろしくて夜中に便所に立てなくなるようなもの。メタ世界を生きる人間ならではの愚かな妄想。

余談だが、臨死体験者の語る体験は断じて死の体験ではない。生(せい)の体験だ。臨死体験者の誰ひとりとして死者になったことはない。彼らはその時も、それを語る時もずっと生者である。彼らは、こちらの瀬戸際を、あたかもあちら側であったかのように思い込み語る。逆のことが、胎内にいる間や、眠っている間、泥酔で記憶をなくした間に起きている。その間を確かに生きていたという自覚はひとつもないが、人は決してそれを「臨死」とは呼ばない。

ポーの『早すぎた埋葬』が読者に突きつけるのは[死にかける=瀬戸際の生]の恐怖ではない。生きながら閉じ込められること。それが『早すぎた埋葬』にある恐怖だ。一切の身体的自由を奪われた状態で生き続けること。それが人間にとって最大最悪の恐怖である。

ポーが恐れたような早すぎた埋葬は、医学の発展により取り除かれた。すなわち、誤って生きたまま埋葬される人間は、現代社会に於いてはまず存在しない。しかし喜んでばかりもいられない。前のめりの医学と、頑固な生命教信仰が絡み合って、人間の死に対する社会の態度は大きくつんのめった。

いまや新たな恐怖が出現したことを私は知っている。

それは、いわば「遅すぎる埋葬」。「無の安楽」へと向かおうとする者の足首を掴んでこの世に引き摺り戻し、重篤な機能不全を起こした[肉体という棺桶]に閉じ込める、この上もない残虐行為だ。

この「遅すぎる埋葬」のうち最も恐ろしいのが、いわゆる「完全閉じ込め症候群」である。例えば、筋萎縮性側索硬化症の進行によって、眉ひとつ動かせない状態になっても、あるいは、自力呼吸すら出来ない状態になっても、現代の呪われた医学と生命教信仰が人間を生かし続ける。

だがこれは、新たな「生き埋め」なのだ。

死んだ肉体にその魂が生き埋めにされること。それこそが現代版『早すぎた埋葬』の恐怖であると私は主張する!

「何にも知らないくせに。誰がこんなこと書いてるのかしら」
妻はスマートフォンから目を上げると、見開いたままでマバタキしない夫の、真っ赤に充血した両目に定時の目薬を注した。

——何も知らない?