「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年6月29日土曜日
アナトー・シキソの「赤ずきんちゃん」
もし人間が狼に襲われて食われても、何の痕跡も残さずこの世界から消えてしまうことはない。魂の話じゃない。肉体の話。人間が肉食動物に襲われ食われたとしても、食い残しが現場に残る。その食い残しをスカヴェンジャー達が片づけて、初めて人間は跡形もなくこの世界から消える。
その山小屋で俺が目にしたのは、ハラワタを抜かれた(ハラワタだけを食われたのだろう)バアさんの遺体と、赤い頭巾を被った小さい女の子の頭部と、多分その女の子のものだろう、人間の小さな右手だった。既に狼の姿はなかったが、小屋にはケモノのニオイが残っていて、それが狼のニオイであることはすぐに分かった。独特の、嗅ぐとイライラするニオイだからだ。確かに、狼と同じように、人間の快楽殺人者も遺体を著しく損傷させるものだが、今回、バアさんと女の子をこんな姿にしたのは快楽殺人者ではない。狼だ。
理由。
狼は殺すのではなく、食う。そして食う行為は遺体をひどく損傷させる。そのために、その遺体は、快楽殺人者の悍ましい「作品」のようになるが、ある点が決定的に違う。それは命に対する執着だ。狼による殺戮には命に対する執着がない。逆に、そもそもが命に取り憑かれて狂った人間である快楽殺人者の殺戮には、当然のように命に対する病的な執着の跡がはっきりと残る。そこが違う。
山小屋の殺戮には命に対する執着の痕跡がなかった。そして、残されていた独特のニオイ。明らかに狼の仕業だ。殺したのが人間でないのであれば、俺の出番はない。動物の老いた個体や幼い個体が肉食動物の餌食になるというのは自然界ではありふれた光景であり、むしろ健全な命の営みとさえ云える。
俺は中立を守って引き下がった。
だが、俺の予想どおり、人間達はその殺戮を健全な命の営みとは捉えなかったようだ。すぐに大掛かりな山狩りが始まり、結果として、三頭の猪、一匹の山猫、そして一組の狼のツガイが「容疑者」として猟銃で撃ち殺された。
命の「収支」が合わなくなることなどお構いなしだ。
村人達は、ツガイの狼のうち、大きなオスの方を「犯人」と断定し、その死体を村の中央の広場に吊るすと、石を投げ、棒で突き刺し、皮をはぎ、最後に火あぶりにした。それから火の周りで酒を飲み始め、歌ったり踊ったりして夜中まで騒いだ。
次の日、村に行くと、広場に吊るされていた狼の死体は消え、村人の姿もなかった。
俺は、村のアチコチでたくさんの赤い頭巾を拾った。