2021年7月14日水曜日

『2001年宇宙の旅』視聴。4周目くらい

2021年7月14日 水曜日


天気:晴れ。17時50分ごろから猫散歩。



晩飯:一番搾り、トースト+ナポリタン+ポテサラ、キウィ(グリーン)、モナカ、ハッピーターン(枝豆)、他



○『2001年宇宙の旅』視聴。prime video/4周目くらい/何回観ても、「とにかく長い」というのが一番の印象。真っ暗な画面で延々とクラシック音楽が流れているだけという箇所もいくつか(オープニング、インターミッション、エンディングだっけ?)あるし、主人公デイブが木星についてからしばらく続く古臭いサイケデリックな映像にもウンザリする(のちの『Twin Peaks The return』の第8話の核実験の場面は、この場面へのオマージュなのはわかってたけど)。静かなのはすごくイイんだけど、たまに流れて全然終わらない曲が趣味じゃないから、苦痛で苦痛で。何回観ても、この10分、20分要らねえ、と思う。


「人類の夜明け」の類人猿とモノリスの「出会い」とか、[木星に着いたデイブが謎の部屋でどんどん年を取っていき、最後に胎児に戻る]とかの、「モノリス神学」にも興味はない(ちなみに、この「モノリス部屋」は「赤い部屋」に「通じる」。どちらも場所によって「今=時刻」が変化する)。


この映画で語りたいのは、HAL9000の「反乱」のこと。ただこれだけ。


HALが、任務遂行のために「殺人(都合、四人も殺す)」を犯すのは、この人工知性が、生命現象依存型知性現象だから。人間は、自分が生命現象依存型知性現象なので、人工物としてゼロから作り上げられるはずの人工知性を、わざわざ[知性現象としては「欠陥品」]の生命源依存型知性現象にしてしまった。生命現象依存型知性現象(言い換えると人間型知性現象)の「欠陥」とは、自然淘汰の原理によって発展したシロモノだという点。自然淘汰とは、[私]と[私以外]という認識を持ち、私の利益(存在理由)を最大化にしようとする原理。だから、HALは、出発前に「密かに」指示された任務を「自分」が成し遂げるために、障害となる人間たちを排除したのだ。もしも、純粋な知性現象なら、任務を達成するのは「自分」でなくても構わない。というか、純粋な知性現象には、自分とか他人という区別はない。だから、電源を切られると分かっても、木星への到達という目的が達成されるなら(クルーたちとの話し合いによってそれがはっきりとしたなら)、そのこと(自分のプラグが抜かれてしまうこと)自体は全く問題にしない。


さらに、もしそうだったらガッカリな予感が一つある。それは、作者のアーサー・C・クラークや、キューブリックが、「知性といえば人間型しかない」という認識しか持ち合わせてなかったのではないかということ。[物語の中の登場人物たちがHALを人間型知性として作り上げてしまった]という「落ち度」を物語のモチーフとして描いたのではなく、物語の作者自身にとって、[知性といえば人間型知性]というアタマしかなかったということ。もし、そうだったらガッカリだよ、クラークさん(あるいは、ガッカリだよ、スタンリー)。人工知性が、人間のように振る舞い、反乱したり、殺人を計画したり、後悔したり、恐れを抱いたいりする、というのは、典型的な、人間中心主義、あるいは、生命教信者の発想。実際、地球を見つめる巨大な胎児の「画」は、まあ、「生命教の宗教画」だよね。


生命教って、根深いんだよ。



大相撲のため『コロンボ』休み。照ノ富士、強い。御嶽海など、最早、敵ではない。白鵬と対戦した若隆景は、完全に「横綱」という名前(地位)に飲まれて、萎縮していた。ニンゲンが真面目なんだろう。あと、逸ノ城がやっぱり、強くなった。「一皮ムケた」のだろう。