2021年7月29日 木曜日
天気:晴れ。涼しい。風はある。16時頃一時的に雨。04時30分ごろと17時30分ごろに猫散歩。
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晩飯:函館ワイン(赤)、成城石井のスモークチーズ、シジミの味噌汁、白米(温)、トマトソースのパスタ(ファミマ)、オリーブの塩漬け、スーパーカップバニラ+ブルーベリー、他。
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△三池崇史監督『天国から来た男たち』(2000年)/prime video/吉川晃司主演、山崎努助演。フィリピンの刑務所に入っている日本人たちが主役。昭和のテレビドラマのテイスト。つまり、『探偵物語』とか『プロハンター』とか『俺たちは天使だ』とか。しかし、無駄にオッサンのセンズリ場面が多い。般若心経のタロウ、ロリコンのサカモト、[吉田/村上](=山崎努)の命を狙うヤクザの都合三回も。この監督はセンズリ好きか?
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ついに、グラナダテレビの、というのはジェレミー・ブレッドの『シャーロック・ホームズ』を面白いと思えない自分を発見した。映像作品では、少し前に『未来世紀ブラジル』が少しも面白くない自分を発見して以来の「ありがとう、さようなら」だ。つまり、この名作テレビドラマはもう「卒業」ということ。最後の『マザランの宝石』を入れて、残り2話。
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英語の過去形が丁寧表現になる理由を、日本人の英語教師たちはやたらと、[これは過去を意味しているのではなく、動詞(助動詞)の過去形が「距離感」を表すからだ]という[よく分からない説明]をするが、英語の過去形は、丁寧表現でも仮定表現でも、どちらも[ただの過去表現]だよ。
日本語で考えてみれば、敢えて過去形を使う話者の心の内が誰にでも簡単に分かる(というか、日本人の英語教師たちは何故わざわざ「距離感」みたいなものを説明に使うのだろう?)。
例えば、could。「可能か?」と訊くのではなく「可能だったか?」と訊くことで、今これからの可能性を訊くのではなく、もしも昔こういうことを依頼されたら可能だっただろうか、と訊きつつ、実際には今その依頼が可能であれば嬉しい、という含みを持たせているのだ。これが丁寧表現になるのは、[あくまでも過去のことを云っているのであるから無論、その可能性を今求めている訳ではない]という「言い逃れ」ができるから。つまり、形の上では、話者は相手に対して何の依頼もしてはいない。だからこれは、相手に察してもらい、相手から「過去とは云わず今も可能ですよ」というコトバ・熊度を引き出そうとする表現。それが、丁寧表現としての過去形。「距離感」とかどうでもいい「ただの」過去形。
仮定法としての過去形も全く同じ道筋。昔こうだったら、こうなってただろう(実際は違うけど)、と極アタリマエの「ただの」過去形。というか、「過去形」を使う丁寧表現は、[仮定の話をしているから丁寧になる]のだから、結局どちらも「仮定法」で、仮定法自体がただの過去表現なのだから、丁寧表現もただの過去表現。それが、仮定法になったり、丁寧表現になったりするのは、話し手や聞き手が「知っている」その「過去」の現実や、現在の事実が、当該の発言内容と同じだったり違ったりするから。