2021年7月25日 日曜日
天気:晴れ。暑い。早朝03時45分ごろ猫散歩。
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晩飯:ロゴダジ(赤)、カリフラワースープ、白米(温)、カレー稲荷、サーモン握り寿司、ヨーグルト、他。
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○『ハウンター』(2014)(吹替版:原題:Haunter)/prime video/『シャイニング』+『Twin Peaks』のkiller BOB+『others』。本作の[殺人鬼の悪霊:Edger]は、自分が生まれた家に取り憑いている一種の地縛霊型BOB。その地縛霊が、引っ越してきた家族のお父さんに取り憑いて、当人もろとも、家族全員を一酸化中毒で皆殺しにしようとする(一度目は成功した)。EdgerとBOBの違いは、Edgerがもとは生身の人間だった点。BOBは最初からずっと、人間ではないナニカ。
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岡田斗司夫ゼミ視聴。マイケル・サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か』解説。無料で2時間近く、全て解説した。面白かった。「限定」に移ってから喋った、アニメの細田監督本人には語るべきものが何もないという話は面白かった。(龍となんとかいうアニメ映画の話の中で)。
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§º所謂「殺人鬼」に対する過大評価
特にフィクションの世界で、所謂「殺人鬼」を「神聖視/特別扱い」する傾向がある。だから、死んだあとに最凶の悪霊となって人々を苦しめ続ける「敵役」として造形されがち。しかし、「殺人鬼」は、知性現象としては所謂「フツウの人」よりも未熟な、即ち完成度の低い、デキソコナイに過ぎない。つまり、真にポンコツ人間なのだ。こういうポンコツ人間に対する評価を誤らせる元凶が生命教信仰。生命教信者は、[生命を、蔑ろにして自らの快楽のためだけにモテアソブ存在]を人間を超越したナニモノカであるかのように、つい、思ってしまうのだ。
更に云えば、だから、その手の「殺人鬼」が現われると、世間や、特に精神科医界隈が「アリガタ」がって、「殺人鬼」の死刑に反対し、その言動の研究や、刑務所内での対話や、[告白本の執筆/出版]を望んだりする。しかし、「殺人鬼」なんぞは大量生産に付き物の「不良品」にすぎない。一定の割合で出てくる、極アリフレタ存在。そのアタマの中にあるものもタカが知れてる。
もちろん、「殺人鬼」を或る種の「病気」と捉えて、たとえば、脳のどの部分がどのようになれば「殺人鬼」が出来上がるのかの研究をする、ということはあるだろう。そして、もし、その研究が成功すれば、「殺人鬼」を「治療」することもできるだろう。そうなれば、元々は「殺人鬼」ではなかった人間が、あるときから急に「殺人鬼」になってしまった場合などに、原因を突き止めて、その人を元の「フツウの人」に戻すこともできるようになるかもしれない。
が、思い出して欲しいのは「殺人鬼」は現に凶悪な殺人をおそらく複数回繰り返したから「殺人鬼」と認識されるわけで、そんな存在をわざわざ治療したり生かし続けたりすることで、当該社会は一体どんな利益を得るのだろう? 一種の人体実験として「殺人鬼」を治療して「フツウ」に戻し、その上で、懲役刑あるいは極刑を科すとか? しかしそうではなく、たとえば、十五人殺した「殺人鬼」が「治療」によって「フツウ」なったら、社会に復帰させるとなったとき、被害者たちの遺族は、あるいはそれ以外の人々も、冗談じゃねえや、と思うに違いない。
「殺人鬼」と「フツウの人」とで一番に異なると考えられるのは、やはり「共感力」だろう。「他人の気持ちになる」という能力。「殺人鬼」にはこの「共感力」がないので、被害者の苦しみが自分の苦しみとはならず、だから、「平気」で殺し続けられる。あるいは、「共感力」はあるが、それがねじれてしまっている場合もあるだろう。「殺人鬼」は、他人の恐怖や苦しみに「共感」して「快感」を覚える、というパターン。いずれにせよ、ただの障害。「ただの障害」というのは、耳が聞こえないとか目が見えないとかの障害の一つに過ぎない、という意味。しかし、目が見えない、耳が聞こえないなどの障害と違い、連続殺人にまでつながるような「共感力のなさ」は、数多ある障害の中でも、社会にとって、絶対に看過できないシロモノなのもその通り。
だが敢えて言いたい。「殺人鬼」も所詮は障害の産物である。「殺人鬼」は「超人」ではなく「障害者」である。しかも、目や耳の障害と違って、知性に関わる部分の障害である。だから、知性現象としては、フツウの人よりも、一段も二段も「低級」な存在なのだ。その点を忘れないことが大切(「だから、その罪を許せ」と言っているのではない。)。
もちろん、知性として「低級」でも侮ることはできない。地全災害・天変地異は知性現象としては「低級」どころか「完全な無」だが、それよりもずっと高級な知性現象である「フツウの人々」を簡単に殺す。「殺人鬼」が人を殺せるのも、一番は、この理屈。