2020年6月12日金曜日


2020年6月12日 金曜日/晴と曇/そこそこ暑い


 NHKの『no art, no life』という5分の番組(ナレーションは内田也哉子←樹木希林の娘)で、家中(壁とか襖とか炊飯釜とか)に絵を描いて、3万個の小さな下駄を作った小林伸一という80歳くらいの爺さんを観た。絵を描き始めたのは72を過ぎてから。絵を描いているうちに溶けてしまったスーパーカップアイスを、かっぱえびせんとシュウマイとナンカの入った弁当にかけて、「こうすると食べる時に甘すぎて」と言っていた。取材のディレクターが帰る時に、描いた絵を二つ渡して、どうもありがとう、また会いましょう、と泣いていた(老人だからすぐ涙が出る)。


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橋から飛び降りた女の人を、犬の散歩中の77歳の爺さん(飛び降りた瞬間を目撃)と、お巡りさん(次に駆けつけた)と、おばさん(40m先の相撲部屋に走った)と、二十人の力士(相撲部屋から駆けつけた)が救助した、というニュース。


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人間が、知性を、もっぱら生命活動の維持のために活用するのは、単に、人間が生命だからだ(厳密に言うと、生命活動によってその活動が維持されている知性現象だからだ)。また、地球上を見回せば、人間以外の全ての知性も、やはり、それぞれの生命活動の維持のためにのみ活用されている。


[自然は生命を経由することでしか知性を出現させ得ない]という現実が、この事態をもたらし、この事態の真っ只中で[知性を認識するまでの知性]を獲得した人間が、知性と生命を混同することになったのは、ある意味、仕方のないこと。


人類は「物心がついて」以来ずっと、「知性とは、何よりも、生命が生き残るための道具である」すなわち「知性は生命のためのもの」という「微妙な勘違い」をし続けている。それは、「子供は、親に生きがいを与えるために生まれ、存在している」という「微妙な勘違い」に通じるもので、あながち間違いではないが、決して真実ではない。


知性の活用は、生命の維持に限定されるものではない。知性の究極の活用法は、知性そのものを創造することである。更に、その究極の究極は、知性が存在するための土台/舞台となる「存在世界」自体、平たく言えば「宇宙」を創造することにある。


何度でも言うが「我々はどこから来てどこに行くのか」に対する答えはとっくに出ている。我々は、「真の知性」という陶器を焼き上げるための窯に焚べられる「薪」なのだから。


2020年6月11日木曜日


2020年6月11日 木曜日/曇時々雨/蒸し暑い


世間一般では存在そのものまで矢鱈と持ち上げてられているが、こちらとしては、そうした評価がどうもピンとこない連中がいる。つまり「それほどのものか?」と思ってしまう連中。長年、彼らの何が「気に入らない」のか、彼らの何に「不足」を感じているのか、自分でもよく分からなかったが、この前、フッと気づいた。連中は皆「しがみついている」。


具体的な名前を挙げる。手塚治虫、立川談志、北野武、宮崎駿など。どれもこれも、日本を代表する表現者たち(実際、その作品は「神様」「天才」と呼ぶにふさわしいものばかり?)だが、よくよく観察してみると、全員、自分の「仕事/肩書き/名前」というものに「しがみついている」。そこが見苦しい、というか、ザンネン、と感じていることに気づいた。


手塚、談志、宮崎は、それぞれに、漫画、落語、アニメに「しがみついて」いる。皆、「こんなもの本当はどーだっていいんだ」「やらなくていいなら全然やりたくはない」と、本心から言えない連中。北野武はちょっと変則。彼は、自分の主戦場のお笑いに対しても全面的にしがみつくだけの自信も実力もない(と本人は思っている)ので、他に何かしがみつけるものがないかと、俳優をやってみたり、映画監督をやってみたり、本を書いてみたり、絵を描いてみたり、知識人を気取ってみたりと、いろいろと手を出す。しかし、「しがみついている(しがみつきたい)」という点では、手塚や談志や宮崎と何も変わらない。


などと言われてもピンと来ないかもしれないが、逆に、「しがみついてない」連中の例を出せば分かってもらえるだろう。「しがみついてない」連中の典型例は水木さんとタモリ。この二人は「自身を世に出してくれたもの(仕事/肩書き)」に対する「しがみつき」がない。彼らにとっての「漫画」や「密室芸」は、台風で海に放り出された時に「一時的にしがみついた」流木みたいなものだ。その「流木」が、「新天地」すなわち経済的な成功に導いてくれたのはその通りでも、だからといって、流木は流木でしかない、というスタンスが彼らにはある。存在そのものが「神様」や「天才」なのは、こういう連中。


「しがみつき」なら仕事中毒のサラリーマンだってやっている。手塚や談志や宮崎や北野に対して感じる「つまらなさ」は、「一代で財を築いたワンマン社長」に対して感じる「つまらなさ」と同質。

2020年6月10日水曜日


2020年6月10日 水曜日/晴/暑いが暑過ぎることはない:摂氏29度



この前からずっと、Lynchの伝記『ROOM to DREAM』を読んでいるせいで、久しぶりに『ERASERHEAD』が観たくなった。観た。6周目くらいか。今回の「発見」を二つほど。


シティボーイズの(というか三木聡の)「恋人たちのゴム脳」の「ゴム脳」は、Henryの「消しゴム頭」からのインスピレーション?


Henryのベッドの頭側の、ベッドに仰向けに寝たときに寝ている人の右側になる壁にかかっている小さな額縁は「キノコ雲」の画か? のちにLynch演じるGordonのFBIのオフィスの壁にデカデカと掲げられている、ニューメキシコの原爆実験のキノコ雲に通じるものなのか?


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「川崎病」の「川崎」は、病気が広まった地名(川崎市)のことだと思いでいた。「水俣病」みたいな。正しくは、その病気を「発見」した医師の名前(川崎富作)だった。


ということは、そもそも「川崎病が川崎市(実のところ、川崎市ってどこ?)で流行した」というのは間違った思い込みなのだろう。確か、かつての川崎市で何かしらの公害病が流行った。ソレとコレとを何処かのタイミングでごっちゃにしてしまったのだろう。発見者の川崎医師が90いくつで亡くなったというニュース報道で、長年の誤解が解かれた。


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今日観た『コロンボ』は「黄金のバックル」。ここでも長年の誤解が解かれた。ずっと犯人の姪は、実は犯人が生んだ子供だと思い込んでいた。つまり、犯人の姉が犯人の婚約者と駆け落ちした時に、既に妊娠3ヶ月じゃないと、12月に姪が生まれるはずがない、とコロンボが当の姪に指摘する真意を完全に誤解していたのだ。


誤解というのはこうだ。姉と婚約者が、駆け落ちした頃に初めて肉体関係持ったのなら、姪は12月には生まれないのだから、本当は、それ以前に婚約者と肉体関係を持っていてもおかしくない妹(犯人)が「姪」を生んだのだろう。


しかし、コロンボの指摘の真意は、妹の婚約者と姉が駆け落ちを決行する3ヶ月も前から、妹を裏切っていたことの具体的な証拠が、その年の12月に生まれた姪だということ。犯人が、姪を犯人に仕立てようとした理由がこれで解ける。犯人は、姪を含めた家族全員を憎んでいたのだ。


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「第2波」「第3波」の原因は、「ぼーっと生きている」一般市民の割合を、行政者や医療関係者が過小評価しているからだ。

洗濯機の水位感知の仕組み


2020年6月9日火曜日


2020年6月9日 火曜日/晴/暑い?


テレビCM「パルスイートになんでしないの?」

私「不味いからだよ!」


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『Twin Peaks season 3』のPart15。ネイディーンがエドを「自由」にし、エドがノーマに結婚を申し込み、シェリーの娘の婿(スティーブ)が森で拳銃自殺し、「コンビニエンスストアの2階」が現れ、「ヤカン」のジェフリーズが悪いクーパーに(たぶん)偽の座標を教え、オードリーの息子(リチャード)が悪いクーパーに伸され、丸太おばさんが死ぬ回。で、この回の最後に、ロードハウスの席に一人ポツンと座っているメガネ女子が突然現れる。このメガネ女子が、イージーライダー風の太った二人組に席から床に降ろされ、床を這って行ったあとに絶叫したところでエンドロール。いかにもナニカありげだが、ずっと謎だった。けど、今日観ていて、あ、もしかしたら、「直前」に死んだ丸太おばさんが「転生」した姿なのかも、と「気づいた」。なるほど、そうだ。あのメガネ女子は「丸太おばさん」にちがいない。


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生命現象はそれ自体が全体で一枚の絵だと捉えるべきで、人間が、たとえば、「これは鳥、あれは虫、これは植物」あるいは「これはサルで、これはウシ、あれはウサギだ」などと言っているのは、『モナリザ』を観て、「これは眉毛の絵だ、いや手の絵だ。いや山の絵だ。服の絵だ」と言っているようなもの。


個々の生命体の独立性は幻で、生命現象の全体の中の凸凹。絵の喩えを続けるなら、何が描かれていようと、それは全て絵の具の配置。


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人間が宇宙旅行に行く時には、必然的に、生物学者が「違う生物」つまり「独立した別の生命体」として定義している存在(主に細菌類)も引き連れていくことになる。また、連れていかなければ、その宇宙旅行者は、あっという間に体調を崩して、死ぬことになる。


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コロナの抑え込みが、大阪ではうまくいってるのに、東京ではそうでもないのは、大半の住人ににとって、大阪は「地元」だが、東京は「移り住んだ場所」だからだ。東京の住人の多くにとって、東京は「何かのイベントに集まっている人たちにとってのイベント会場」にすぎない。周りにいる人間たちやその場所に対する「連帯感」の質が違う。


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『未来少年コナン』のオープニングで毎回墜落しているロケットは、墜落しなかったら、どこにいくつもりだったんだろう? 月? あるいは一時的な周回軌道上への「退避」?

2020年6月8日月曜日


2020年6月8日 月曜日/曇り/一日肌寒い


ようやく、目も殆ど痒くなくなった。鼻のムズムズもまあ、ない。今年の花粉症の季節は過ぎたようだ。


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『未来少年コナン』の「ダイスの反逆」の回。一人で「有名」な「太陽、エネギー?」のセリフと、ラナを抱えて高いところをから飛び降りたコナンの足から頭に「着地の衝撃」がビリビリビリと伝わる名場面があるのはこの回。あと、ダイス船長がロボノイドを使って大男に変装するのもこの回。それにしても、やっぱり『コナン』には、のちの『ナウシカ』と『ラピュタ』の要素が全部ある。今回登場した「世界を滅ぼした前の戦争で使われた爆撃機」なんて、「キャッチコピー」含め、マンマ「巨神兵」。


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トランプは、大統領を辞めた後のシンパイをした方がいい。


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『有吉eeee!』でやっていた、ぐにゃぐにゃしたキャラクターを操作してゴールを目指すゲームがオモシロそうだった。


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生命と知性の関係は、ある点で、品物と価値の関係に等しい。


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アメリカの警官(警察)が「凶暴」なのは、アメリカの社会全体が、潜在的に、校内暴力が吹き荒れていた頃の学校みたいだからだろう。その場合、警官は、ちょうど生活指導の教員みたいなもの。


銃社会では、暴力と死の距離が近い。ちょっとの暴力沙汰でも油断していたら、パンパンパン(銃声)で、あっという間にこの世とオサラバの社会で「犯罪を取り締まる」仕事をしていれば、知らない顔は全員人殺しに見えているはず。


だから、アメリカの警察組織のあり方がどうとか言ってるのは全部的外れ。スピード違反で止めた車の運転手が、いきなり銃を撃ってくる可能性があるような社会で、警官の意識に「市民は善良なもの」という認識を持たせることはまず不可能。また、そんなお人好しはすぐに命を落とすだろうから、進化論のいう「自然淘汰」のようなものが働いて、結果[「凶暴」=「知らない顔はとりあえずみんな人殺しと思う」]警官が増えていく。つまり、問題の本質は、警察組織という「個体」ではなく、銃社会という「環境」。


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この世に「客観的に笑えること」など存在しない。同じように「客観的に悲しいこと」も存在しない。あるのは、立場の違う者たちの受け取り方だけ。鹿を捕まえて母虎が戻って来れば、虎の子供は「笑う」だろうが、母鹿を殺された鹿の子供は「悲しむ」だろう。立場や見方が変われば、例えば、突然の余命宣告ですら腹を抱えて笑える。

2020年6月7日日曜日


2020年6月7日 日曜日/曇りのち晴/日向は暑いが日陰は涼しい


昨日の日付の『weather report』の中でLynchが、以前見た夢の話をしていた。昨日6月6日はD-dayすなわち「ノルマンディ上陸作戦」の決行日だが、Lynchの見た夢というのが、この「ノルマンディ上陸作戦」に関係があるのだ。夢の中のLynchは、大戦末期にヒトラーに召集された17歳のドイツ人少年兵。そのことを母親は悲しんだ。ドイツの少年兵であるLynchはノルマディの海岸に配属され、窪地にいたアメリカ兵の機関銃で腹を撃たれる。夢の中のLynchは手に持っていたライフル銃を取り落とし、腹に手を当てる。温かい血が流れ出るのを感じ、その直後、光に包まれる。


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茹で卵(三個)でチキンラーメンを食べてみたが、やっぱり生状態を割り入れる方が美味い。味に対する慣れとかじゃなく。チキンラーメンのスープは、卵が溶けた状態で味が完成するんだと思う。単独だと、やっぱりバカっぽくて「五十年前の味」という感じ。


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NHKのリモートドラマ『Living』全4話を観た。第4話の『敬遠』が一番好かった(他も面白かったけど)。主人公は、現実には「敬遠」してなかったのかもしれない、とも思った。つまり、現実には、勝負して負けたのを、「敬遠しておけば勝てたのに」とどこかの時点で激しく後悔して、それ以来ずっと「敬遠して勝負に勝った」という「偽の記憶」を頼りに「敬遠」し続ける人生を生きて来たのかもしれない。いや、それはないな。テレビを見ている主人公が、「あの時はすごく調子良かったから、勝負しても勝てたんだ」とか言ってるし。


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スペースX社の「打ち上げたロケットが戻って来て、垂直降下で地上の基地に着地する」映像は何度見ても感慨深い。五十年も前からサンダーバード1号がやっていたことだし、他のSF映画とかでも普通に出てくる映像だったので、ロケットが尻から降下して着地するのは技術的にどうってことないものだと思っていた。だが、そうではなかったということを、スペースX社の活動で初めて知った。言われてみれば「再利用」を売りにしていたスペースシャトルも、「再利用」できるのは「飛行機」の部分で、だから、着陸も飛行機式。打ち上げ用ロケットは、毎度毎度、海にボッチャンだった。それが打ち上げ経費高騰の一因だったのは間違いない。ロケットの後ろ向き着地は難しいんだね。

2020年6月6日土曜日

2020年6月6日 土曜日/晴/肌寒い


SNSは他人の「心の声」。SNS上で不特定多数の人間の書き込みを読む(読まされる)のは、他人の「心の声」が聞こえる(聞かされる)状態に似ている。異能・超能力モノの漫画なんかでよくある。最初は超能力に喜んでいた主人公。だがそのうち、聞きたくもない他人(家族や恋人や部下や店員や)の「本音」がどんどんアタマに入ってきて、ドーニカなったりならなかったりするアレ。そう考えると、件の女子プロレスラーが自殺に追い込まれたのも「無理もない」と思える。


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ゴムが伸び縮みするのは、ゴムの分子が「水素結合=(水分子と同じ)』でつながっているせい、ということを今週の『チコちゃん』で学んだ。ちなみに、その時に流れた「ゴムの木からゴムを採取する映像」は、『デザインあ』の「つくる/セロハンテープ」の映像とおなじもの。


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フライパンで炙ったカチョカバロで赤ワイン。


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ナマズの専門家が地震予測や地震解説をやっても笑って相手にしない連中の多くが、結婚や仕事について占い師や霊媒師に真顔で相談する。


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今年のこの状況のアメリカでトランプが再選したら、アメリカはオワッテる。


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晩飯用に、セイコーマートのホットシェフの「ジンギスカン弁当」(添付のタレをかけなければ、薄味で美味い)を買いに行くと、イートインコーナーに爺さんが三人溜まっていた。何を飲み食いするわけでもなく、ただ、居た。少し前、まだ、イートインコーナーが復活する前に、店の外にある灰皿の前に集まってタバコをやっていたジジババの一部が、念願叶って店内で寛げたのかもしれない。


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先週第3部が終わった『雲霧仁左衛門』の第4部が、間を空けずに始まった。今回の「ゲスト」は、イッセー尾形、佐野史郎、永山絢斗(ながやまけんと=「けんと」って読むのを今初めて知った)他。イッセー尾形演じる柏屋(米問屋の元締めみたいな人)のキャラが好い。佐野史郎はいつものあの感じ(『鍵のかかった部屋』で「先生!」と言って殺される美術館の館長みたいな)。永山絢斗は御落胤(ごらくいん)役なのだが、どう見ても『みおつくし料理帖』のゲンサイ先生にしか見えない。


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このコロナのご時世に戸別訪問で宗教の勧誘をしている人間が来た。パチンコ通いをやめられない連中よりも「重症」でタチが悪い。そういう観点で言うなら、感染を広げてしまっている歌舞伎町の「夜の街」の連中はマトモな部類。

2020年6月5日金曜日


2020年6月5日 金曜日/晴/涼しい(むしろ肌寒い?)


hardwareとしての人間の脳は、何万年も前のversionから少しも更新されていない。だから、21世紀の人間にふさわしい、理性的で合理的な「人類愛に溢れた」知性現象であるためには、脳にinstallするsoftwareとしての、教育/知識が重要。ということを、昨日の『アンビリバボー』で紹介されていた[メキシコ国境付近のアメリカの町で起きた殺人事件]を観て、改めて思った。


事件には都合3人のポンコツが登場する。


10代の若いカップルが別れる。男子の方に別に好きな女子が出来たからだ。フラれた女子の方はしばらく落ち込むが、新しい恋人を見つけて立ち直る。キッカケとなった出来事はこれだけ。


ポンコツ一人目は、フラれた女子の母親で、「自分をキズモノにした男と結婚できなかった女は一生不幸になる」という古い考え方に囚われている。こいつが殺人事件の黒幕。この母親、最初は「月いくらのお金を渡すから、娘とヨリを戻して欲しい」と、件の男子に直談判に行く(無論、断られる)。そこで、街の祈祷師のオバハンのところに行って、娘がヨリを戻せるかどうかを占ってもらう。祈祷師は、その可能性はないと答える。すると、この母親は、だったら祈祷で呪い殺してくれと迫る。祈祷師はそんなことはできないと断るが、母親は何度も何度もやって来て、祈祷師のことを罵るようになる。祈祷師は困り果てる。


二人目のポンコツは、嫁さんに逃げられたオッサン。このオッサンも、なんとか嫁さんとヨリを戻そうとして、例の祈祷師の所に相談に来る。祈祷師は、変な液体の入った小瓶を渡して、これを靴に毎日垂らし続ければ悪霊が退散してヨリが戻るみたいな、バカな助言する。無論、そんな子供騙しで、オトナの人間関係が回復するはずもなく、オッサンは「嫁が戻ってくるなら何でもする。悪魔に魂を売ってもいい」と祈祷師に迫る。


そこで3人目のポンコツの登場。さっきから出ている祈祷師のオバハンだ。オッサンの言葉を渡りに船とでも思ったのだろう、「この子を殺せたら、あんたの嫁は戻ってくる」と、例の男子の写真を見せる。それを聞いたオッサンは殺し屋二人を雇う。殺し屋たちは、哀れな男子を自宅前で射殺する(オッサンの嫁はもちろん戻ってこない)。


知性現象として洗練されるには、生命現象としての自分を相対化していく工程を積み重ねるしかない。


2020年6月4日木曜日


2020年6月4日 木曜日/晴/涼しい/若干の風あり


22時40分ごろから急に土砂降りになり、パシパシいう雷が何発も落ちた。10分ほどで静かになったから、これが当世風の「ゲリラ豪雨」だろう。今、23時だが、また少し降り出して、ゴロゴロと音もしているが、もう「ゲリラ」感はない、ただの夜中の雷雨。


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昨日観た、笹餅作りの93歳の青森県の婆さんを紹介した『プロフェッショナル』で一番印象に残った(というか、心が動いた)のは、93歳の笹餅作りの様子ではなく、二人揃って癌が見つかった息子夫婦の食事や排泄の介助/介護に内線電話(だと思う)で呼び出される93歳の姿。当人が93歳だから、息子夫婦も60代後半あたりの「老人」のはずで、だから、癌患者として看病されてもオカシクはないのだが、やはり釈然としないものを感じた。


もうひとつ。年齢は、「健康」や「寿命」のデジタルな目盛りではないということも改めて感じた。人間がやたらに細かく気にする年齢というものは、もっとおおざっぱなものに、むりやり(というか人間が手前勝手に)均等な境目を入れただけの代物で、実効性は低い。つまり、今までに93粒食べた落花生の袋の方が、今までに65粒食べた落花生の袋よりも、残りが少ないとは限らないというハナシ。93粒食べた袋にはまだ10粒残ってるかもしれない一方で、65粒食べた袋にはあと1、2粒しか残ってないかもしれない。総量は、粒ではなく、実は重さできまっているのかもしれないからだ。


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若い現役アイドルの髪の毛が抜けて、最後にはつるっぱげになってしまった「奇病」の名前は「汎発性脱毛症(はんぱつせいだつもうしょう)」。よくある円形脱毛症のラスボスみたいなもの。原因はよくわかっていないので、確立した治療法もない。というわけで、件のアイドルは今もつるっぱげのまま。アトピー体質の人とか、子供の頃に円形脱毛症を発症した人がなりやすいという話。円形脱毛症の最も重症なやつなので、頭髪だけでなく、全身(眉毛なども)の毛が抜ける。


もう一つ観たのは「糖質依存症」。つまり、アルコール中毒ならぬ糖質中毒。甘いパンが食べたくてしょうがなくなる(手が震えたりする)。無理な糖質ダイエットを2年以上続けた後で初めて食べたパン(糖質=炭水化物)が、実際に涙が流れるほど美味く感じたその時に、脳内に分泌された快楽物質が[パンの味]と強力に結びついて中毒化した。

2020年6月3日水曜日


2020年6月3日 水曜日/晴れのち曇り/さわやか


(昨日のつづきの「テレポーテーション」の話)

更に、人体には様々な細菌が共生している。もしも人間を「転送」するなら、彼らも同じように「転送」しなければ、人体は身体機能を維持できない。


一人の人間を[人格と健康状態]をそのままに「転送」しようと思ったら、[人格再現が可能なレベル]の詳細さを持った[脳状態の完全な複製]と、全身に共生している[何億という数になる細菌類(腸内細菌、皮膚の常在菌など)の複製]が不可欠になる。その技術的な実現可能性はともかく、この「一人の人間を転送する時には、共生する細菌たちも一緒に…」という条件は、SFホラーの古典『ハエ男』のコンセプトに真っ向から対立しているように思える。というか、『ハエ男』(リメイク版は『ザ・フライ』?)のストーリの根幹を叩き壊すものだ。


なぜなら、そもそも、人間を健康な状態で「転送」するには、人間以外の生命も必ず一緒に転送しなければならないはずなのに、ハエのような「巨大生物」(大腸菌などから見たら、ハエなどは超巨大生物である)が一匹紛れ込んだくらいで、「転送」が失敗する、即ち人間とハエが混ざってしまうような技術レベルでは、そもそもオハナシにならないということ。そんな低い技術なら、ハエが紛れ込まなくても、人間と黄色ブドウ球菌と大腸菌とビフィズス菌と水虫菌が混ざり合った「新生物」が、「転送」するごとにどんどん出来上がってしまうだろう、というハナシ。


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野生動物が病気になったら、ほぼ絶食状態で、ひたすら寝て、治癒を待つ。新型コロナに感染した社会も「絶食」して「ひたすら寝る」しかない。それがつまりは「lockdown」であり「自粛」。野生動物にしても社会にしても、生き延びられるかは「体力」次第。


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「東京アラート」という「気休め」。あるいは「ママゴト」


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今日観た『ルーサン警部の犯罪』で、作りのもののジョーズの近くで被害者の夫に話を聞くコロンボのコートの背中に、次の場面でウォードが描く円が既に描かれているのを発見した(というか、前にも気づいたのを忘れてるだけかもしれない)。これは、元々の台本では、「ジョーズ」の場面が、ウォードが円を描く場面の後だったのを、編集時に逆にしたのか(確かにこの順番の方が展開としては自然)、それとも単に撮影の順番が前後し、うっかりコートの円を消し忘れたのか。どっち?


2020年6月2日火曜日


2020年6月2日 火曜日/晴/昨日よりは涼しいが暑い/風強し


昨日の夜に外でボンボン花火が鳴っていたので何だろうと思ったら、今朝のニュースで、今回のコロナ禍で花火大会が軒並み中止になった全国の花火職人たちが「こっそり」話し合って、疫病退散の花火を打ち上げたのだと、言っていた。打ち上げられない花火の中には廃棄処分するしかないものもあり、捨てるくらいなら打ち上げようというハナシ。つまり、昨日のアレは札幌市だけではなかったのだ(ちなみに、後で知ったが、札幌の花火は、いつもの豊平川河川敷ではなく、藻岩山から打ち上げていたらしいので、ボンボン言っている時に窓を開けてたら、見えたかもしれない)。日本全国の43都道府県の全てで、あの時刻(20時?)に一斉に花火が上がっていたのだ。いや、ま、ご苦労さん。


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「テレポーテーション」の話をしてみよう。昔のSF映画などに出てくるし、ウルトラマンも技として持っている「物体転送」とか「瞬間移動」とか言われるアレだ。「人間が想像できるものはいずれは全て実現できる」という迷信が一部の人間の中にあって(それが迷信なのは、例えば、人間は世界の果ての海の水が流れ落ちる滝を想像し、いつかはその滝を目にすることができると想像したが、「世界の果ての滝の目撃」は決して実現しない。そもそもの世界認識の根本が間違っていたためだ)、そういう信者にとっては、この「テレポーテーション」もいずれは実現できる類の技術なのだろう。


単なる物体のテレポーテーションはおそらく可能だろう。実のところそれは、「設計図を送って現場で新規に作り上げる」を全自動化するだけのことだからだ。だから、機械装置だの薬品だのは「転送先」に材料や原料が揃っていれば「転送」できる。


問題は人間。単なる物質としての「誰でもない」人体を「転送」することは、上で言ったように、「材料」さえ全て取り揃えておけば、そう難しくはないだろう。「中身」がある場合が問題なのだ。「中身」すなわち「意識」とか「心」とか「人格」とか呼ばれるものだ。例えば、「あなた」という人間を転送するときに、転送先に現れる人体に「あなた」を「再現」するには、もう、神がかり的に高度な複製技術(詳細な脳状態のデータの取得と、取得したデータの欠損の完全な回避)が必要となる。更に、人体には様々な細菌が共生している。彼らも同じように「複製・転送」しなければ……

2020年6月1日月曜日


2020年6月1日 月曜日/晴/暑/風が強い


昨日の続きを少し書けば、例えば、リンチ作品が何度も繰り返し観られるのは「1周目」が終わっても「ネタバレ」状態になる割合がとても低いから。最後まで全部見たはずなのに何が起きたのか分からないせいで「2周目以降」が「1周目」とあまり変わらないことになってしまう。


『シックスセンス』などの作品を「2周する」理由は、リンチのそれとはまた違う。『シックスセンス』は、最後まで見ると、何が起きていたのかが分かる。その「何が起きていたのかが分かった」状態で、もう一度作品を見直して、自分の見落としを確認しているのだ。つまり、登場人物の言動を、新たな視点(真相を知った後の視点)から分析している「だけ」のこと。相応のオモシロミはあるが、それは「間違い探し」の安っぽさに通じていて、それが、シャマランを「一発屋」的な監督で終わらせたのだ。


ついでに書けば、三木聡の『時効警察』シリーズ(というか、三木聡作品全般)は、「1周目」よりも「2周目以降」の方が断然楽しめる。彼の作品は(『時効警察』が典型なのだが)、全体のストーリーは単なる「箱」に過ぎず、その中に並べる(実はバラ売り可能な)個々の場面(小ネタ含む)こそが「売り」なのだ。「箱」の全体像が分かっていない「1周目」、観客は「箱」のことを気にする必要があり、個々の場面(と小ネタ)という「売り」を充分に味わうことが難しい。「2周目以降」は、もう分かってしまった「箱」のことは気にせずに、個々の場面(と小ネタ)を楽しむことに集中できる。


実際、ファンは、「1周目」の三木聡作品に対して、「2周目以降」のような楽しみ方をしてしまい、全体のストーリーを見失いがち。そのせいで、最後まで観た後も「?」のリンチ作品に似ているように思えてしまうのだが、三木聡作品の方は、単に観客が個々の場面や小ネタにばかり注目してストーリー展開を追ってないだけのことなので、両者の「?」の理由は全然違う。実際、三木聡作品の全体のストーリーは、それだけちゃんと追うと難解でも何でもない。むしろ陳腐で凡庸。「箱」だからその程度でいいのだ。


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毎年のことだが、スマホの「花粉情報」は終了したのに、まだ目は痒いし、鼻の奥もヒリヒリする。もしかしたら、花粉ではなくネコなのか、と思い出したりもしている。が、ネットを調べたら、シラカバ花粉飛散情報はまだちゃんと出てた。