2020年6月3日水曜日


2020年6月3日 水曜日/晴れのち曇り/さわやか


(昨日のつづきの「テレポーテーション」の話)

更に、人体には様々な細菌が共生している。もしも人間を「転送」するなら、彼らも同じように「転送」しなければ、人体は身体機能を維持できない。


一人の人間を[人格と健康状態]をそのままに「転送」しようと思ったら、[人格再現が可能なレベル]の詳細さを持った[脳状態の完全な複製]と、全身に共生している[何億という数になる細菌類(腸内細菌、皮膚の常在菌など)の複製]が不可欠になる。その技術的な実現可能性はともかく、この「一人の人間を転送する時には、共生する細菌たちも一緒に…」という条件は、SFホラーの古典『ハエ男』のコンセプトに真っ向から対立しているように思える。というか、『ハエ男』(リメイク版は『ザ・フライ』?)のストーリの根幹を叩き壊すものだ。


なぜなら、そもそも、人間を健康な状態で「転送」するには、人間以外の生命も必ず一緒に転送しなければならないはずなのに、ハエのような「巨大生物」(大腸菌などから見たら、ハエなどは超巨大生物である)が一匹紛れ込んだくらいで、「転送」が失敗する、即ち人間とハエが混ざってしまうような技術レベルでは、そもそもオハナシにならないということ。そんな低い技術なら、ハエが紛れ込まなくても、人間と黄色ブドウ球菌と大腸菌とビフィズス菌と水虫菌が混ざり合った「新生物」が、「転送」するごとにどんどん出来上がってしまうだろう、というハナシ。



野生動物が病気になったら、ほぼ絶食状態で、ひたすら寝て、治癒を待つ。新型コロナに感染した社会も「絶食」して「ひたすら寝る」しかない。それがつまりは「lockdown」であり「自粛」。野生動物にしても社会にしても、生き延びられるかは「体力」次第。



「東京アラート」という「気休め」。あるいは「ママゴト」



今日観た『ルーサン警部の犯罪』で、作りのもののジョーズの近くで被害者の夫に話を聞くコロンボのコートの背中に、次の場面でウォードが描く円が既に描かれているのを発見した(というか、前にも気づいたのを忘れてるだけかもしれない)。これは、元々の台本では、「ジョーズ」の場面が、ウォードが円を描く場面の後だったのを、編集時に逆にしたのか(確かにこの順番の方が展開としては自然)、それとも単に撮影の順番が前後し、うっかりコートの円を消し忘れたのか。どっち?