2020年6月12日 金曜日/晴と曇/そこそこ暑い
NHKの『no art, no life』という5分の番組(ナレーションは内田也哉子←樹木希林の娘)で、家中(壁とか襖とか炊飯釜とか)に絵を描いて、3万個の小さな下駄を作った小林伸一という80歳くらいの爺さんを観た。絵を描き始めたのは72を過ぎてから。絵を描いているうちに溶けてしまったスーパーカップアイスを、かっぱえびせんとシュウマイとナンカの入った弁当にかけて、「こうすると食べる時に甘すぎて」と言っていた。取材のディレクターが帰る時に、描いた絵を二つ渡して、どうもありがとう、また会いましょう、と泣いていた(老人だからすぐ涙が出る)。
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橋から飛び降りた女の人を、犬の散歩中の77歳の爺さん(飛び降りた瞬間を目撃)と、お巡りさん(次に駆けつけた)と、おばさん(40m先の相撲部屋に走った)と、二十人の力士(相撲部屋から駆けつけた)が救助した、というニュース。
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人間が、知性を、もっぱら生命活動の維持のために活用するのは、単に、人間が生命だからだ(厳密に言うと、生命活動によってその活動が維持されている知性現象だからだ)。また、地球上を見回せば、人間以外の全ての知性も、やはり、それぞれの生命活動の維持のためにのみ活用されている。
[自然は生命を経由することでしか知性を出現させ得ない]という現実が、この事態をもたらし、この事態の真っ只中で[知性を認識するまでの知性]を獲得した人間が、知性と生命を混同することになったのは、ある意味、仕方のないこと。
人類は「物心がついて」以来ずっと、「知性とは、何よりも、生命が生き残るための道具である」すなわち「知性は生命のためのもの」という「微妙な勘違い」をし続けている。それは、「子供は、親に生きがいを与えるために生まれ、存在している」という「微妙な勘違い」に通じるもので、あながち間違いではないが、決して真実ではない。
知性の活用は、生命の維持に限定されるものではない。知性の究極の活用法は、知性そのものを創造することである。更に、その究極の究極は、知性が存在するための土台/舞台となる「存在世界」自体、平たく言えば「宇宙」を創造することにある。
何度でも言うが「我々はどこから来てどこに行くのか」に対する答えはとっくに出ている。我々は、「真の知性」という陶器を焼き上げるための窯に焚べられる「薪」なのだから。