2020年6月11日木曜日


2020年6月11日 木曜日/曇時々雨/蒸し暑い


世間一般では存在そのものまで矢鱈と持ち上げてられているが、こちらとしては、そうした評価がどうもピンとこない連中がいる。つまり「それほどのものか?」と思ってしまう連中。長年、彼らの何が「気に入らない」のか、彼らの何に「不足」を感じているのか、自分でもよく分からなかったが、この前、フッと気づいた。連中は皆「しがみついている」。


具体的な名前を挙げる。手塚治虫、立川談志、北野武、宮崎駿など。どれもこれも、日本を代表する表現者たち(実際、その作品は「神様」「天才」と呼ぶにふさわしいものばかり?)だが、よくよく観察してみると、全員、自分の「仕事/肩書き/名前」というものに「しがみついている」。そこが見苦しい、というか、ザンネン、と感じていることに気づいた。


手塚、談志、宮崎は、それぞれに、漫画、落語、アニメに「しがみついて」いる。皆、「こんなもの本当はどーだっていいんだ」「やらなくていいなら全然やりたくはない」と、本心から言えない連中。北野武はちょっと変則。彼は、自分の主戦場のお笑いに対しても全面的にしがみつくだけの自信も実力もない(と本人は思っている)ので、他に何かしがみつけるものがないかと、俳優をやってみたり、映画監督をやってみたり、本を書いてみたり、絵を描いてみたり、知識人を気取ってみたりと、いろいろと手を出す。しかし、「しがみついている(しがみつきたい)」という点では、手塚や談志や宮崎と何も変わらない。


などと言われてもピンと来ないかもしれないが、逆に、「しがみついてない」連中の例を出せば分かってもらえるだろう。「しがみついてない」連中の典型例は水木さんとタモリ。この二人は「自身を世に出してくれたもの(仕事/肩書き)」に対する「しがみつき」がない。彼らにとっての「漫画」や「密室芸」は、台風で海に放り出された時に「一時的にしがみついた」流木みたいなものだ。その「流木」が、「新天地」すなわち経済的な成功に導いてくれたのはその通りでも、だからといって、流木は流木でしかない、というスタンスが彼らにはある。存在そのものが「神様」や「天才」なのは、こういう連中。


「しがみつき」なら仕事中毒のサラリーマンだってやっている。手塚や談志や宮崎や北野に対して感じる「つまらなさ」は、「一代で財を築いたワンマン社長」に対して感じる「つまらなさ」と同質。