2021年5月26日水曜日

ゴールデングローブ賞の騒ぎ

2021年5月26日 水曜日


晴れ。家賃振り込み。そのあと(17時半ごろ)猫散歩。



読書家が、蔵書を売り払う1番の理由は「保管場所がない」だ。専用の書庫や図書室、図書館を持てる人間はほとんどいないのだから、本を買えば買うほど、それらの本が生活空間を「圧迫」することになる。その「大量の本がある」という光景が、色々な意味で[目障り=不愉快]になり、蔵書を「整理」したくなるのだ。だから、原理的に置き場所を必要としない電子書籍になれば、そういう理由からの「整理」をする必要もなく、売り払う必要もなくなる。無論、電子書籍は古本屋に売り払うことできないが、もし売り払うことができたとしても、読書家が蔵書を売る1番の理由は「保管場所問題」であって、「資金調達」ではないので、売られる本はものすごく減る。いや、読書家は、保管場所問題がクリアできれば、一度手に入れた本は手放さない。



「誰もいない森で木が倒れたら音はするのか」問題の続き。誰もいない森で木が倒れても、それによって引き起こされる[空気の振動]はある。誰もいない森では、その[空気の振動]を「音」として認識する器官を備えた知覚体が存在しないので、[空気の振動]は「音」にはならない。「音」は人間のような知覚体の「認識」の形態である。だから、例えば、人間の耳には聞き取れない高周波や低周波の[空気の振動]が周囲に満ち溢れていても、それを「音として聞き取れない」人間は、自信たっぷりに「そんな音はしていない」という。同じことが光(電磁波)についても言える。人間が「光のない闇」と言う時、それは厳密に言うなら「人間に知覚できる電磁波が周囲には存在しない」というだけ。事実、この宇宙は、常にどこでも電磁波で満ち満ちている。


そしてこの「誰もいない森で木が倒れたら〜」問題は、「自分というものが存在しなくなった時、この宇宙は存在し続けるのか」問題へとつながる。



岡田斗司夫が、本やアニメや映画を解説する、「岡田斗司夫の解説」は、映画の予告編に似ている。大抵の映画は、予告編を見るとものすごく面白そうだが、いざ、本編を観てみると、予告編ほどではない。岡田斗司夫が紹介する本やアニメや映画も、大抵は、岡田斗司夫の解説ほどには面白くない。



ゴールデングローブ賞の投票資格を持った人間の中に黒人がいないとかで、なんかちょっとした騒ぎ(授賞式をテレビが放映しないとか)になっている(らしい)。でも、「審査員に黒人が一人もいない状況では黒人に投票する人間もいなくなる(恐れがある)」と考えるのは、まあ、これも人種差別意識の表れなんだけどね。なぜなら、それは、「白人は白人にしか投票しない」とか「黒人に投票資格を与えれば、その黒人は黒人に票を入れるだろう」とか、言ってるのとほとんど同じだからね。


いや、もちろん。白人ばかりの審査員によって賞に選ばれたのが白人俳優だったときに「いらぬ嫌疑」を招く恐れがあるから、それを避けるために、最初から審査員の中にいろいろな「人種」を入れておくのだ、という「考え方」もあるんだろうけど、この考え方がまた、相当な「人種差別的」、言い方がきつければ「人種主義的」なんだよなあ。つまり、人類全体を人種というフィルターでものを見る連中だと想定しているわけだから。


だから、所謂「人種差別主義者」はどうしようもない連中だけど、「人種差別反対運動家」に類するような「激しめ」の連中も、危なっかしいんだよ。過激なフェミニストが、多分に差別主義的な危なっかしさを持っているのと同じで。


「人種差別」や「性差別」や「障害者差別」など、人間の生命現象に由来する差別を、本当に[緩和/解消]してくれるのは、科学技術の発展だけだよ。歴史、地域、性、身体機能などの「格差」を埋めるのは、科学技術の発展だけだから。だって、どれも、根本は、物質的/物理的な問題だから。科学技術の発展によって、物質的/物理的な問題に「余裕」が生まれたところから、イデオロギー的思想的「騒ぎ」が起きて、そういうところから少しずつ「差別意識」が解消されていく。


まあ、まだまだ人類は「途中」なんだよ。「人種」という妄想が目について仕方がないのは、その人の中に「人種主義」が根強く残っているからだから。全人類に「人種」が「見えなくなる」のは、まだずっと先だろう。わかるだろう? もし本当に「人種」を問題にしなくなる(見えなくなる)人類になったら、審査員が全員白人でも、なんとも思わない。そもそも「あ、審査員が全員白人だ!」という「気づき」が「できない」のが、真に「人種」の呪縛からの自由になった人類。


サッカーの日本代表チームを選んだら、全員の名字がたとえば「鈴木」だったとしても、別に気にしないだろう(面白がるかもしれないけど)。「佐藤」や「田中」も入れなきゃ、とは思わない。「人種」についても、この「名字」くらい「無意味」になれたら、人類もやっと一人前。いや、まだ半人前か。