2021年5月8日土曜日

靴も靴下もない

以前住んでいた部屋のベッドの上で目が覚めた。今住んでいる場所を入れて5つ前の引越し先の部屋だ。5つ前でも一年以上は住んだのだから、他人の家という感じは全くしない。ただし、不思議は不思議だ。今まで家賃はどうしてたんだろう。もしかしたらこの25年間ずっと口座から引き落とされてきたのだろうか。それとも四半世紀分の滞納があるのだろうか。当時既に老人だった大家はもう死んで、息子か娘の世代が後を引き継いでいたら、なんだか、そういう始末が面倒になりそうだ。

暗がりの天井を眺めながらそんなことをあれこれと思う。

しかし、もっと面倒なことがある。さっきから見ている天井いっぱいに、樹木の枝が茂っているのだ。

樹木の枝は樹木の根と対称関係にある。枝は空中で日光と水を集め、根は地中で養分と水を集めるという違いはあるが、まあ「同じもの」だ。人間は地中ではなく、空中(地上)にいるので、枝の方にカタイレするが、絶対的な視点に立てば、地中にいるのが本来で、空中にいるのは「はみ出している」状態だと考えても全く問題ないはずだ。地球という塊の中にズッポリとハマリ込んでいる根の方がマトモで、そこから飛び出してしまって「宇宙に落ちそうな」枝の方は、喩えるなら、満員の列車の窓から下半身をはみ出させている乗客のようなものと言えなくもない。

暗がりの部屋が赤く点滅を始めた。見ると、壁で丸くて赤い光が点滅している。電話か時計か湯沸かし器かガス漏れ探知機かそういう装置の発光ダイオードの点滅。

ベッドから足を下ろした。足の裏が床にあたってひんやりする。素足なのだ。ベッドで寝ていたのだから素足でも不思議はないが、部屋は妙に冷えているので、このまま素足でいるのはどうかと思う。暗がりで、靴下と靴を探す。

素足で歩いて赤い点滅に向かう。内線電話。受話器を取って点滅を押す。

「ああ、やっと出ましたね。急いで下に来てください」

「何かありましたか?」

「靴を預かってます」

「ああ、そちらに」

「ええ」

「靴下もそちらですか?」

「靴下の話は、よそでしてください」

「よそというのは?」

「他ということです」

電話を切って部屋を出る。素足で冷たい階段を降りると、踊り場のところで、下に敵意を持った何かが待ち伏せていることに気づいた。踊り場の壁を押すと抜け道が現れたのでそれを使う。

下で待っていたのは昨夜母親を亡くした看護師で「靴はその中です」と消火器入れの赤い箱を指す。