2021年5月28日金曜日

アリババが独占禁止法で罰金を科されたってなに?

2021年5月28日 金曜日


曇り。17半ごろ、猫散歩。



立川談志からどうやっても滲み出てしまっている「つまらなさ」の正体は、彼の抱えた劣等感。噺家や落語というものに劣等感を持っていて、その[社会的な地位]の「低さ」をどうにかしてひっくり返したい「見返したい」と「ガンバッテいる」感じがダダモレで、それが粋じゃない。ビートたけしにも同じことが言えて、漫才師やお笑いというものに対して彼が持っている劣等感をひっくり返したくて仕方がない(なかった。今は文化人とか知識人とか映画監督とかの「ちゃんとした」肩書きが手に入ったから、割合、「冷静に=距離をとって=他人事として」お笑いに接することができている)。例えば、さんまにはそういうところはない。さんまは、お笑いという仕事に劣等感は持っていない代わりに、特に優越感も持っていない。魚屋が魚売りに誇りを持っている程度に、さんまはお笑いに誇りを持っているが、かといって、お笑いの社会的価値を高めたいとも思っていないのは、魚屋が魚売りの社会的価値を殊更に高めようとは思わないのと同じ。宮崎駿にとってのアニメも、談志の落語や、たけしの漫才と同じ。この手の連中は、だいたいが「俺様」キャラで周りを圧倒したがちだけど、所詮は虚勢なので、「本物」の前では、その虚勢ぶりが全部見透かされてしまって、シドロモドロになるし、一般の観客や視聴者も実は無意識のうちに、彼ら(談志やたけしや宮崎)の劣等感を感じ取っていて、それが「気安さ」となって、彼ら(談志やたけしや宮崎)の「人気」につながっている。ようするに、実は「舐められている」のだ。


「本物」とは誰を指すのか。志ん生や水木さんやタモリや高畑勲だ。談志やたけしや宮崎駿は、所詮、生命現象の塔の内側の屋根裏部屋にいるだけだが、志ん生や水木さんやタモリや高畑勲は、生命現象の塔の屋上(屋根の上)にいる。



『クロコーチ』は今「キンキラ教」のところを読んでいるが、もう続きは読まなくてもいい気がする。展開の「ドラゴンボール」病が確定的になったからだ。「おや?」と思ったのは、「桃太郎」の弟子の二人の殺し屋のうち、女の方が生き残ったあたりから。その頃から、作品全体に、妙な「手加減」というか、「阿り」が出てきて、ヤバイナと思っていたが、まだこの時は「ドラゴンボール」病は起きてなかった。「ドラゴンボール」病が始まったのは、「桜吹雪の会」の悶着が片付いてから。「桜吹雪の会なんて、かわいいもんだ」的な、さらなる謎の暗躍組織(黒幕)の噂が出てきて、これを読んだ時点で「おやおや、ピッコロが済んだらベジータで、ベジータが済んだらフリーザ、フリーザが済んだらセルかな」と思った。本家『ドラゴンボール』の場合は、今言った、ひたすらの後盛りで、強さのインフレが起きてしまって、物語がすっかり陳腐化してしまったのだが、『クロコーチ』の場合は[謎の組織/黒幕/暗躍者]の暗躍感や正体不明感がインフレを起こして、「警察庁長官狙撃事件」だの「例の新興宗教」だの「元KGBの殺し屋」だのというフレーズを出すほど返って陳腐感が増すという「末期症状」。とにかく、今読んでる「キンキラ教」の作品世界には、桜吹雪の会の実行部隊の連中が正体不明の殺し屋に惨殺されていたころのような緊張感は皆無。ちょうど、様式美だけでマンネリ化した「必殺仕事人」で展開される裏社会のような、視聴者(読者)は何も心配もしなくていい、お気楽な世界が惰性で描かれていてツマラナイ。



このコロナ禍のご時世にさえ、「純粋に」オリンピックをやりたいと思ってる連中ってなんだろう、と考えた。つまり、「商売になるから」「金になるから」の損得勘定ではなく、自分からは率先して大会中止を望まないし、大会が開かれるならそれはもちろん出場する、という、いわゆるオリンピック代表選手たちって、どういう「人種」なのだろうと考えて、あ、そうか、と気づいた。毎年律儀に、インフルエンザウィルスを運んで飛んでくる渡り鳥や、花粉をばらまく杉や白樺の木と同じなのだ。そう思うと、あまり、腹も立たないし、イライラもしない。しょうがないよね。特に理由もなくそういうことを「したい」んだから(鳥や木と違って、人間の場合は後付けの理由はいくらでもでっち上げられるだろうけど)。


ま、でも、困るのは困る。カネ目当てでオリンピックをやりたがる連中相手なら、問題はカネなんだから、交渉の余地もあるし、だましたりすかしたりする方法もあるだろうけど、渡り鳥が渡り「たがる」のとか、杉や白樺が花粉をまき「たがる」のと同じ「理由」で、オリンピックを[やりたがる/参加したがる]連中は、機会があれば、そりゃ絶対やるだろうし、それをやめさせる方法もない。だって、ほぼ「本能」なんだから。腹をすかせた犬の前に、うまそうな肉を置いて「待て」と言っても、遅かれ早かれ犬はその肉を食うもの。



富野作品のテレビシリーズは、打ち切りだなんだと言っても、大抵、40話くらいはある。この40話は、1ヶ月4話として10ヶ月。つまり、この、ほぼ一年という長い期間(長い「時間」ではなく)を、一つの作品世界に付き合ってきたということが、最終回にまで到達したときに、或る感慨を視聴者にもたらす。この「長い旅路感」は、最近の6話や10話で終わる(ということは、2〜3ヶ月程度の付き合いの)テレビドラマでは、到底、味わえない感慨。だからなに? だから、時間をかけて、ゆっくりと物語ることの大切さだよ。そこには[急ぎ過ぎない演出]が生む感動がある。



中国のアリババが独占禁止法で罰金を科されたせいで、この四半期が決算が赤字になったというニュースを聞いて、笑っちゃったよ。あの独裁国家で、[誰に/何に]対する独占?