2021年5月22日土曜日

久米宏のkume*netを「発見」して、面白く観てる

2021年5月22日 土曜日


晴れ。18時過ぎ、猫散歩。



最近の久米宏のkume*netを「発見」して、面白く観てる。で、少し前の動画で、[天気予報が「洗濯物指数」とか「今日の服装」とかをいちいち言うのがアタマにくる。こんなことまで言ってたら、日本人はみんなアホになる]とか言ってた。バカだなあ。あれは、そういう「今日の天気をめぐる他愛もないこと=本気の相談ではない相談」をする相手のいない人たち(主に、孤独な都会の単身労働者たち)に向けた「今日もお元気で」とか「気をつけて行ってらっしゃい」と同じものなのだよ。家族と住んでいたらとりあえず訊いてみたりするだろ、正解を求めず。「今日、傘持ってったほうがいいと思う?」とか、「洗濯物干したままで大丈夫かなあ」とか。で、答える方もいい加減なことを答えるだろう。つまりただの「挨拶」なんだよ。テレビのお天気お姉さんのやってるアレは。



パン工房ゆう(近所のパン屋)の塩バターロールにインド産の[胡瓜のピクルス]を挟んで食べると、旨い[ハンバーガー(ハンバーグ抜き)]になることを発見した。下手に[本物のハンバーグ]がないことで、返って、自分にとっての理想のハンバーグを脳が勝手に妄想して、「今、たまたまその理想のハンバーグがない部分を食べている」という感じになる。



土曜ドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』第4回を面白く観た。次回は最終回



続けて『コントが始まる』第6回を面白く観た。オープニングの中華屋「ポンペイ」での雑談の場面は、基本となる場面設定([中浜姉が下の名前で呼ばれない問題]をみんなで論じる)だけを決めて、俳優陣がセリフを含め自由に演じたという印象。好かった。あと、最後の、酔っ払った中浜さんが絡む公園の場面も好かった。



§º敢えてバカみたいな言い方をすると、人間には大きく分けて、(1)問題解決の手段として戦争が選択肢に入っている人間と、(2)戦争は選択肢に入ってない人間の2種類がいる。言い換えるなら、(1)の人間は、[人死(ひとじに)]を「経費」のひとつと捉えるということ。いうまでもなく、味方の兵士(あるいは市民)からはただの一人も犠牲者は出ないと本気で考えて戦争を始める[王、大統領、首相、将軍など]はいない。彼らは皆、一定数の味方が死ぬことを前提に、コトを進めるのだ。


で、こういう(1)型人間は、戦争以外では「正体が露見」しないかというと、そんなことはない。要は、(1)型人間とは、「最終的あるいは全体的な利益を考慮した場合(主に金勘定。時に信条や名誉のため)、ある程度の死人がでても、遂行すべきことがある」と考える人間のことだからだ。


そう、新型コロナ禍でオリンピックをやりたがる連中が(1)型人間。東京オリンピックを開催したことが原因で、仮に、コロナ患者が増えたり、コロナで死ぬ人間が増えたりしても、オリンピック開催という(経済的にも名誉や信条からも)「素晴らしい事業」を成し遂げるための「経費」としては充分受け入れられる、と、(自覚があるかないかは別にして)考えているし、考えてしまう。まあ、昔なら「お国のために死んでくれ」と言っちゃう連中。


とはいうものの、(1)型人間を非難しているわけではない。というのも、実は(1)型人間の考えは、(2)型人間よりも「合理的」なのだ。彼らが「合理的」なのは、つまり「人間はどうせ死ぬ存在」という事実があるからだ。(1)型人間の「人死は経費」という思想の根底にあるのは、「どうせ死ぬんだから、何かの役に立って死ぬほうがいい」という、「生命教」の「教え」の一つ。だから、「合理的」と言っても、所詮は、生命教狂信者の内側だけで通用する代物なんだけど。


[(2)型人間は(1)型人間に比べて「合理的」ではない]というときの(2)型人間には、一つの条件がつく。それは、この(2)型人間もまた同じ生命教の狂信者であれば、という条件。(2)型人間が生命教の狂信者でもあるというときにのみ、彼らは合理性の点で(1)型人間よりも劣る。この場合の(2)型人間の考え方は、[生命は何よりも尊い(うっかりしたらこの宇宙よりも尊い)]という[究極の狂信]が言わせているものだから。まあ、病気。


しかしここに、生命教狂信者ではない(2)型人間が存在する。つまり、我々だ。生命教から「解脱」した我々にとって重要なのは知性現象であり、生命現象ではない。生命現象は単なる「媒体」であり、この「媒体」の寿命が近い将来尽きることは(我々にとっても問題ではあるが)断じて[負うべき何か]ではない。それを言い換えるなら、「媒体」の短い寿命を、日々の行動の指針や基準に組み入れることは馬鹿げている、ということ。


もう少し言おう。


人間は、なぜ子供を産み続けるのか? 一つには遺伝子から始まる、いわゆる「繁殖本能」ゆえだろう。しかし、人間は、犬猫ではない。生まれてくる赤ん坊が、結局は老いぼれて死ぬことを充分知っているし、老いぼれる前に、病気になったり、殺されたりして死ぬかもしれないことも充分に知っている。では、なぜ、人間は子供を産み続けるのか? それは、生命現象由来の禍は、[自らの責任]の埒外として謂わば「棚上げ」にし、それよりも、新しい知性現象の[創造/出現]に希望なり期待なりを[抱き/託す]からだ。


知性現象の最大の特徴は、生命現象という媒体の「世代」を超えて[積み上げられる]ということ。生命現象など、所詮は「生老病死」の循環である。生命現象が世代を重ねても実現するのはただの「進化」。生命現象に「進歩」はないのだ。知性現象が成し遂げる[世代を超えた「積み重ね」]こそが進歩である。すると、生命現象という媒体の「寿命」の短さを理由に、知性現象の進歩に与えられるはずだった期間を[短縮/中断]することは、バカバカしい以外のなにものでもないことがわかるだろう。