2021年5月8日土曜日

ガガンボと自販機

勤め先の送別会の帰りにタクシーを捕まえ損ね続けて、大雪の中をだらだらとずいぶん歩いてしまい、もうタクシーに乗るほどの距離でもない辺りまで来てしまった。酔いも覚めて、体も冷えてきたので、まずくて甘い缶コーヒーでも飲んで温まろうと、横道に入った。その奥に安売りの自販機があるのを思い出したのだ。

自販機の光の中に若い女の顔が白く見えた。女の顔はじっと見入って商品を選んでいるふうにも見えるが、実際はそんなことはないだろうことはすぐに分かった。若い女は顔だけが人間で、首から下はガガンボなのだ。ガガンボは音で聴くとなんだかよく分からないが、漢字で書くと「大蚊」すなわち「大きな蚊」なので、まさに「名は体を表す」。

顔は若い人間の女(しかも美人)の、体はガガンボ(細いが普通の人間くらいの大きさはある)が、大雪の夜の自販機の光の中にふわふわと浮かんで、「微糖」だの「ラテ」だの「しぼりたて」だのと印刷された缶のダミーの並びを見てどうしようというのだろう?

以前、自称死神から聞いた話だと、ごく稀に、死んだ人間の記憶がいつまでも消えずに残ってしまうことがある。記憶は時間が経つと「腐って」、元のものとは「全くの別物」になり地上を「汚染」する。通説とは異なり、死神の仕事は、この死んだ人間の腐った記憶による地上の汚染の除去すなわち「除染」なのだ。

今目の前に浮かんでいる美人ガガンボも、自称死神が言うところの「腐った記憶」なのだろうか。

気づいたガガンボが横に避けてくれたので、前に進んで、財布から小銭を出して投入口に入れた。青い缶を選んでボタンを押す。取り出し口から缶を取り出し、プルタブをひねって蓋を開け一口飲んだ。その全ての動作を空中のガガンボは、横で黙って見ていた。

欲しいのかと思ったので、もう一本同じものを買って、どうせ自力でプルタブを開けられないだろうから、蓋まで開けてやって、顔を前にそっと差し出すと、小さく立ち上る湯気をじっと見ている。口の中からストロー的なものでも出てくるのか思っていたがそれもない。ただじっと見ている。

そのガガンボの若い女の顔を見ているうちに、この女の顔には見覚えがあるような気がして、はっと気がつくと、雪に埋もれて倒れていた。

死んではいない。だが体は冷え切っている。

「危なかったよ。ギリギリ」

レトロなライダーファッションの小さい女が注射器を見せた。