2021年5月8日土曜日

物腰の柔らかい男

 金色に光る真鍮の潜水服は、この身を守ってくれる防具であると同時に、外界との交流を著しく妨げる妨害でもある。だがしかし、ここではやむを得ない。この場所は、ナニカ空気(つまり地球の大気)以外のもので満たされていて、この真鍮の鎧なしでは5分と保たないのだ。

今潜水服と言ったが、この場所を満たしているのは水でもない。水ではないばかりか、おそらく液体でもない。それどころか、物質の相にある固体・液体・気体・プラズマのどれとも違うように思える。印象として最も近いのは靄だが、ならばやはり気体か? しかし、この場所を満たすものにはナニカしら液体めいた性質があり、たとえば、物を落とすと、その落下速度はややゆっくりになる。単に重力が少し弱いのかもしれない。

物腰の柔らかい若い男が用意してくれた「取って置きの紅茶」も、潜水服のせいで味わうことができなかった。相手もそれをとても残念がった。

赤い髪に、タートルネックの白いセーターを着て、細い長い二本の脚に黒いジーンズを履いた物腰の柔らかい男は、歩く時に、足をそっと持ち上げ、またそっと下ろす。

深海プールの「水面」から(何度目かの)顔を出した時、物腰の柔らかい男は紅茶を淹れている最中だったが、気配に気づいて振り返り「おや」と言った。それから紅茶を淹れ終わるまで少し待つように言い、紅茶を淹れ終わると、潜水服の手を取ってプールの上に引き上げてくれた。プールサイドには接客用のソファがちゃんと設えてあった。

物腰の柔らかい男の話では、ここはまだ大分「下の階」らしい。最上階に行くまでにはこの先何度も深海プールに飛び込まなくてはならないと言う。

「しかし最上階にまで行けば、あなたは素晴らしいものを得ることができるでしょう。いや、それはあなたに限った話ではありませんよ。そこに行きさえすれば、誰もが真の幸福を得られると、ワタクシは確信しています」

物腰の柔らかい男に改めて訊いてみた。実際そこは「最上階」なのか、それとも「最下層」なのかと。

「深く深く潜ることで辿り着く場所が最高の高み、ということになりますね」

物腰の柔らかい男は、ワタクシだけが申し訳ない、と言って、さっき自分で淹れた紅茶を啜った。

物腰の柔らかい男とは「飽きること」について話をした。すなわち、人間が最後には世界の全てに飽きてしまうことにこそ、人間の不幸の源があるという話だ。