2020年10月12日月曜日

筒美京平死去(80歳)。誤嚥性肺炎。

 

2020年10月12日 月曜日/曇りのち雨


『ガンダム』メモ

第6話「ガルマ出撃す」


ガルマ「笑うなよ。兵が見ている」

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リード「突破できるんだな?」

ブライト(聞こえないように)「わかるものか」

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ガンタンクで出撃するアムロを見送りながらフラウが「完全にオーバーワークだわ。でも…」

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ハヤトと一緒にガンタンクで出たアムロだが、戦い方で意見が合わない。そうこうするうちに、マゼラアタック隊が現れ、ガンダムに乗り換えてくれとブライトに頼まれた時の心の声「一人の方が戦いやすいか…」。さらに、ガンタンクについて、「ガンタンクは、カイかセイラさんに操縦させてください。セイラさんならできるはずです」@これは、セイラに対するアムロの嫌味/当てこすり。で、結局ガンタンクに乗るのはカイ。

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セイラ「コアファイターを換装させている時間はないわ。アムロ、走って!」

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シャア「ガルマはモビルスーツに乗ったか?」

ドレン「いいえ」

シャア「(そうか。ガルマは乗らなかったか。ガルマがガンダムと戦って死ぬもよし、危ういところを私が出て救うもよし、と思っていたがな)」

@ここはセリフのミス。シャアは「ガンダム」という名前は知らないはず。もうひとつ。ガルマはモビルスーツに乗ることがある、という事実。いわゆる「ガルマ専用ザク」は、単なるガンダムゲームの産物ではなく、本家の物語の中で「言及」されていた!

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アムロ「女に作戦を聞くわけにはいかない。ブライトが初めからはっきりしてりゃあ……」

@ここでアムロがいってる「女」とはセイラのこと。

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ミライ「ブライト、今はみんながあなたをあてにしているのよ」

ブライト「わかっているミライ。…さ、ガンダムの戦士を迎えよう」

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シャアのシャワー場面

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筒美京平死去(80歳)。誤嚥性肺炎。


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『Dr.Stone』第6話視聴(アマゾンプライムビデオ)/首の後ろにだけ残っていた「石化」のおかげで生き返る千空。


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【メモ】

侍坐(じざ):その原語 upanisâは、ウパニシャッドという語の原義である。


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【メモ】

マリアナ海溝の超深海(8187m):カメラを沈めて30時間で海底に到達。



【メモ】

四万六千日(しまんろくせんにち):七月十日の観音の縁日。この日にお参りすれば、四万六千日お参りしたのと同じ功徳があるとされる。


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too tired to get tired:疲れすぎてて疲れない

2020年10月11日日曜日

『日々是好日』を観た。まるで世間話をしているだけのような樹木希林の演技がすばらしい。

 

2020年10月11日 日曜日/曇り


『日々是好日』を観た。まるで世間話をしているだけのような樹木希林の演技がすばらしい。


ついでだから「お茶」に関して言えば、あれは一種の瞑想/メディテーション/マインドフルネスで、お茶の作法を徹底的に体に覚えさせることで、「特に意識することなく何か一つのことに集中している状態」を作り出し、瞑想状態に入る。つまり、無意識的にお茶の所作を次々に執り行っている状態が、瞑想のそれと同じということ。


ちなみに、お茶の作法に限らず、自転車でもピアノでも「一連の動きを体に覚えさせる」とか「体が勝手に動くようになるまで繰り返し練習する」というのは、あれは全部、自分の小脳にプログラミングをするということ。小脳は、意識を持たない単純なプログラム実行コンピュータで、だから、普段の生活で我々は、蛇口をひねるとか、服を着るとか、歯を磨くとか、冷蔵庫を開けるという動作を、何も意識せずに行うことができる。というか、それよりもずっと基本的な、道を歩く、階段を上り下りするという動作も、小脳という自動コンピュータがきちんと働いてくれているおかげ。


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『24 Japan』の第1回をたまたま見た。ドラマ全体に漂う「見よう見まね感」に苦笑する。全体に浮き足立ってる。


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【メモ】

地球からの脱出速度(第二宇宙速度)は、秒速11キロメートル。すなわち分速660キロメートル(11*60)。すなわち時速39,600キロメートル(660*60)。すなわち、およそ時速4万キロメートル。因みに音速は時速1225キロメートル。


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√「人間が死ねば死神も消える。常識とはウラハラに」(ダカラナニ氏)


√「死神は死人には憑かない」(ダカラナニ氏)


√「タバコを吸って好きに死ぬことを許さない硬直した人間社会」(死神B)


√「人間は、珈琲を同じ味に淹れたがるが、人間の味覚は四六時中変化している」(死神B)


√「全ての生き物は、盗んで生きているのよ。[許される盗み]としての[商売]は、人間の、発明というより再発見。[許される盗みで生きる]は、生き物がもともとずっとやり続けていることだから」(コビ)


√「科学をトコトンまで進めて、自前の新しい宇宙を作り出すところまで行ってこその人類」(コビ)


√「人間って、記憶よ。記憶は知識で、知識は知恵になる。人間の甲斐は知恵なのよ」(コビ)


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【メモ】

パホイホイ溶岩とアア溶岩。

(ブラタモリ)

2020年10月10日土曜日

『天使にリクエストを』第4回は、新旧「里見先生」共演。

 

2020年10月10日 土曜日/曇り


『天使にリクエストを』第4回は、新旧「里見先生」共演。今回の歌は松任谷由実の『守ってあげたい』だった。今回気になったのは、死んだ子供をめぐる回想シーンがやたらと多かったこと。演出としてというよりも、時間を埋めるために何度も同じVTRを流す民放のバラエティみたいな感じだった。もしかしたら、コロナの影響で予定していた撮影のいくつかができなくて、尺が足りなくなった? あと、最終回で倍賞美津子が具合が悪くなることは最初からわかっていたよ。


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全く何の期待もしないで見た『タリオ 復讐代行の2人』が、想定外に面白かった。主人公がまるで山田奈緒子(『トリック』)みたいじゃないかと思って、あとで調べたら、演出スタッフがその『トリック』の人だった。浜辺美波は、前にドッカでやった腹黒アイドル役といい今回のこれといい、まあ、こういう感じのキャラがぴったりな気がする。


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【メモ】

『リアルインディケーション』という曲の歌はバダラメンティが歌っている。録音スタジオでバダラメンティが歌うのを聞いていたリンチは笑いすぎでヘルニアになり、最終的に手術をすることになった。という話が、『Room to Dream』に書いてあった。なるほど、CDを調べてみると歌はバダラメンティになっていた。しかし、笑いすぎでヘルニアになるとは、リンチも相当のゲラだね。


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√知性の対立概念は虚無である。客観的な事実としての「存在=実在」は「中立」である。なぜなら、「存在=実在」も、知性が不在な場合は、事実上の虚無だからだ(知性なしでは「存在=実在」は「虚無」とは対峙できない)。その意味で、生命もまた「中立」である。「生命」は、「存在=実在」のバリエーション(変奏)にすぎないからだ。


ここで重要なのは「虚無」の「正体」である。虚無とは、実は、「知性の影」としての「虚構」であり、実体を持たない。虚無だから実体を持たないのではなく、虚無というのは「概念にすぎない」という意味で、実体を持たないのだ。虚無は客観的事実ではない。だからこそ、虚無は「中立」ではない。「中立」ではないので、「中立」である「存在=実在」の対立概念になり得ない。というか、そもそも「存在=実在」は「中立」なので「対立」する存在を持たない。


この「発見=気づき」は重要である。[「存在=実在」は「虚無ではない」ではない]ということだからだ。




2020年10月9日金曜日

今日見た『第三の男』に、『コロンボ』の「ロンドンの傘」で殺される執事役の俳優ウィルフリッド・ハイド=ホワイトが、で出ているのを発見した。

 

2020年10月9日 金曜日/曇り


今日見た『第三の男』に、『コロンボ』の「ロンドンの傘」で殺される執事役の俳優ウィルフリッド・ハイド=ホワイトが、GHQの文化担当の男(クレビン)の役で出ているのを発見した。当たり前だけど、若い!


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『ガンダム』メモ:

第4話「ルナツー脱出作戦」

ルナツーに到着後、ブライト、ミライ、セイラ、リュウ、カイ、ハヤト、アムロは、他の民間人と隔離されて、身柄を拘束される。ワッケイン司令によると、士官候補生(ブライトとリュウ)と民間人(その他の5人)が、軍の最高機密(AAA:トリプルA)であるホワイトベースとガンダムを勝手に使用したことが軍事裁判の対象になったためだ。

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ワッケインがブライトに向かって言う。「今、君に、なぜ軍規が必要なのか説明したくはないが、定められた命令は厳守だ」

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第5話「大気圏突入」

アムロがラジコンカーを直してやる子供(ペロ)の両親は「一週間戦争の時に」戦死したと、その子供のおじいさんがアムロに言う(そのおじいさんは、地球に戻ったらコーヒー園を再開するつもりだとも言う)。「一週間戦争」という言葉が初めて出てくる場面。そして、おそらく、二度と出ない。

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サラミスのカプセルでサラミスから発進するときにリード中尉が部下に言う。「ミサイルはスタンバッておけ」。そう、「スタンバっておけ」はブライトのオリジナルではない。少なくとも、物語の中で、最初のこの言葉を使ったのはリード中尉!

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セイラ「高度には気をつけて」

アムロ「戦っている最中に気をつけられると思うんですか?」

セイラ「あなたならできるわ」

アムロ「おだてないでください」


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『CASSHERN』のモチーフは、まあ、中島みゆきの『空と君の間に』だよね。


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繁殖に成功しそうとか、失敗したとか、結局そんな歌ばっかり。


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『コロンボ』(第9話)『パイルD-3の壁』 メモ:


この事件の犯人は、殺人が明るみになることではなく、被害者のウィリアムズが死んでいることが明らかになることこそが一番困る。なぜなら、ウィリアムズが死んでしまうと、彼の財産が自由に使えなくなる仕組みになっていたからだ。だから、犯人は、殺人が発覚して自分が殺人犯として捕まるかもしれないからではなく、ウィリアムズが、すくなくとも生死不明の状態でなければならないので、絶対に見つからない死体の隠し場所が必要だった。

2020年10月8日木曜日

『ターンAガンダム』の第16話が、それまでの総集編であることを、すっかり忘れていた

 

2020年10月8日 木曜日/曇り


『ターンAガンダム』の第16話が、それまでの総集編であることを、すっかり忘れていた。というか、感覚としては「初めて知った」。「すっかり忘れていた」という意味は、前に一度最終話まで通しで観たからだ。少なくとも「最終話まで観たという記憶がある」からだ。


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初代『ガンダム』第3話「敵の補給艦を叩け!」メモ:


シャア「パプア補給艦? あんな老朽艦では充分な補給物資は…」

ドズル「現状を考えるんだ。充分な戦力で戦える昔とは違うんだぞ。シャア、ザクは二機送った。ムサイを潰しても、連邦の機密を手に入れるんだ!」

シャア「3機のザクを要求してこれか…」

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シャア「モビルスーツの性能の違いが、戦力の決定的差ではないということを、教えてやる!」

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@ブライトたちの作戦は、アムロがシャアを引きつけている間に、ホワイトベースの主砲とメガ粒子砲で、ムサイを撃沈することだった。しかし、「不慣れな」リュウが、コアファイターでムサイの周りを飛び回るので、カイは主砲で攻撃ができず、しかも、ブライトがリュウに、敵艦から離れるように指示を出そうとしても、「ダメな」リュウは無線の回線を切っていて連絡がつかず、結局、ムサイ撃破最大のチャンスを取り逃がしてしまう。逆に言えば、このとき、戦闘員たち(というかリュウ)が、ちゃんとしていれば、ブライトは、シャアのムサイを撃破できていたのだ!


戦いが終わってブリッジに帰ってきたリュウが「いや、ブラントすまんな、俺、無線切ってたんだってなあ」と割と軽い感じで言い、ブライトも「ああ、気をつけてくれよ」とこっちも割と軽い感じで答えるので、本人もこの時、人生最大級の大金星のチャンスを逃していることに気づいてない。


戦闘終了後、アムロは、敵側に大きく回り込んだことをブライトに非難される。大きく回り込んだのは、太陽を背にして戦うためで、実は理にかなった行動だったので、リュウが「いや。あれはあれでよかったんだ」と軽く反論してくれる。しかし、アムロ自身は何も反論しないで、わざとらしく、敬礼したりするが、そのあと、リュウと二人で通路を歩いている時、「リュウさん、僕、あの人のこと、本当に殴りたくなってきた」と本音を言う。このときのアムロは、ブライトのことを、自分よりも「わかってない」、つまり、自分よりも能力の低い、ただ威張ってるだけの人間くらいに思っている。

2020年10月7日水曜日

『Dr.STONE』の1、2話を見た。

 

2020年10月7日 水曜日/曇り


アマゾンプライムビデオで、『Dr.STONE』の1、2話を見た。岡田斗司夫が絶賛していたから。と言っても、岡田斗司夫が絶賛しているのは、多分、原作漫画の方。とは言え、「科学にも分からないことがある」という、科学を根本的に[理解していない/できない]連中が本気で口走るタワゴトを嘲笑う主人公に激しく共感した。科学は宗教ではないし経典でもない。科学は態度であり、世界について合理的な理解を深めようとする行為それ自体のこと。だから、「科学にも分からないことがある」は「分かろうとしても分からないことがある」という意味でしかなく、それは、知性にとって[諦めと怠慢]の表明にすぎない。


しかしここで反論が出るかもしれない。ゲーデルの不完全性定理は、つまりは「分かろうとしても分からないことがある」と言ってるじゃないか、と。


ゲーデルの不完全性定理は「数学も無敵ではない」と言ってるだけ。


この宇宙の現象は数学を用いた論理によって初めて「正しく」解明したり予測したりできるので(ガリレオ曰く「宇宙は数学という言語で書かれている」)、その数学に限界があるのなら、数学から見れば厳密さの点で少し「浅瀬」の「論理というもの」にも限界があるということになり、だから、「分かろうとしても分からない」すなわち「科学にも分からないことがある」は真理だろう、というリクツも通りそうな気がする。


しかし、そもそも「科学すなわち数学」ではない。科学にとって数学は「道具に過ぎない」。望遠鏡や定規と同じ。


もう少し面倒臭いことを言ってしまえば、数学は、実は、宇宙より「広い」。「広い」というのは、つまり、宇宙にはないものが数学にはあるということ。もっと言えば、宇宙が実現し得ないことも、数学の中では「合理的」に起きる。なぜか? ガリレオの「宇宙は数学という言語で書かれている」は、別の面でも核心を突いていて、それは、数学は「言語」だということ。数学は、現時点で最も精巧な虚構なのだ。


繰り返すが、宇宙の全ては数学で記せるが、数学の全てを宇宙が実現できるわけではないのは、数学が所詮はただの言葉だからだ。言葉は人間が世界を理解するための「勝手な取り決め」。「言葉は言葉よ。現実とは違うわ」という話。


数学は現実に含まれないことも語るが、科学が相手にするのは現実だけだ。だから、たとえ数学が無敵でなくても、科学は平気。

2020年10月6日火曜日

テリー・ギリアム『12 モンキーズ』(5周目)。観返すごとに素晴らしいものになっていく気がする。

 

2020年10月6日 火曜日/雨。肌寒い


アマゾンプライムに登録の思わぬ贈り物は、中島みゆきの有名どころが、Prime Musicで殆ど聴けるということ。


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テリー・ギリアム『12 モンキーズ』(5周目?/Prime Video)。観返すごとに素晴らしいものになっていく気がする。一度や二度見ただけではわからない深みがある。理解が深まるほどに、いろいろなモノが見えて来る感じ。


コロナ禍の今、なにやら、身につまされるような設定。


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初代『ガンダム』メモ


【第1話「ガンダム大地に立つ」】

ジーンをやられたデニムが、体当たりで突っ込んで行ったのは自殺行為に思えたけど、その前に、ザクマシンガン(ライフル)がガンダムの装甲には通用しなかったのを見ているからだ、ということに今回初めて気づいた。あと、アムロは、初めから割と「直情型」に描かれている。「こんな退避カプセルじゃもちませんから」と言って、親父に掛け合いに外に飛び出して行ったり、フラウ・ボゥの家族が殺されてアタマに来てガンダムに乗り込んだりしている。冷静からは程遠い、どちらかというと「カッと」くるタイプ。だから、のちに、ガンダムを持って「脱走」したりするのだ、とわかる。


【第2話「ガンダム破壊命令」】

有名な「軟弱者!」の場面だが、カイは別段ひどい態度でもない。少なくともいきなり平手打ちをされるような態度ではない。この場面は、実は、セイラの「欲求不満女ぶり」を見せる場面だということに今回気づいた。なにもかもオモシロクなくて四六時中イライラしているのは、カイではなく、セイラである。/ドッグに潜入したシャアのカメラを破壊したのは、ブライトが撃ったライフルの弾! それまでに他の連中がシャアを狙って撃った弾は、ことごとく外れている/アムロ「相手がザクなら人間じゃないんだ!やります!」。いや、人間だけどね。しかし、分かる。つまり、戦車に乗ってたり、戦闘機に乗ってたりしているなら、人間の姿は見えないので「殺しやすい」のだ。ちょうど、空爆パイロットが、自分たちの行為と人殺しとが結びつきにくいのと同じ。/アムロ対シャアの初対決。アムロは当然ビビっているが、シャアも(ガンダムの驚異的な性能に)かなりビビっていて、操縦桿を持つ手が震えている。


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ナントカいう店のたこ焼きを食った。ソース味と岩塩味。しかし、どちらも「ネギましまし」にしたせいで、ただのネギ味だった。

2020年10月5日月曜日

行きつけの歯医者で、半年にいっぺんの歯のクリーニングをしてきた。いつもと違う歯科衛生士が、いつもと違う椅子(クリーニング専用の部屋ではなく、歯の治療をする椅子)でクリーニングをしてくれた

 

2020年10月5日 月曜日/晴。少し暑い。


行きつけの歯医者で、半年にいっぺんの歯のクリーニングをしてきた。いつもと違う歯科衛生士が、いつもと違う椅子(クリーニング専用の部屋ではなく、歯の治療をする椅子)でクリーニングをしてくれた。待合室で、支払いを待っていたら、いつもの歯科衛生士が現れた。今日は17時からの出勤だったらしい。てっきり、辞めたかクビになったのかと思っていたが(所謂コロナ禍の影響で)、そうではなかった。帰りにドラッグストアで買い物をした。家に着いてから、どこかで千円札を落としてきたことに気づいた。最近は専らPayPay払いで、数ヶ月ぶりに現金を使うとこのザマ。我ながら嫌になるが、拾った誰かに幸運をあげたのだと思えば悪い気もしない。むしろ、日々のちょっとした幸せの材料とは、こうした「他人のちょっとした不幸」なのだろう。


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【メモ】

マシンガンの弾の中には、5発に一発ぐらいの割合で、曳光弾(えいこうだん)が入っていて、発射するとそこに含まれるマグネシウムなどが光る。射撃者はその光で弾筋を見て、狙いを調節する。曳光弾には通常の弾のような破壊力や攻撃力はない。その上、ほんの少し軽い。つまり、通常の弾よりも少し上を飛ぶ。だから、射撃手はそのズレを考慮して、狙いをつける。

(岡田斗司夫情報)

@ちゃんとした映画やアニメなどでは、拳銃の弾は光って飛ばないし、マシンガンの光る弾がヘルメットなどに当たっても、光は弾かれるだけ。


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結局、富野さんは「ガンダム」しか作らせてもらいないのだから、「ガンダムの世界観」というシバリの中で、どんなことをやったかを見ればいい。ちょうど、世界中の物語が、結局は、例えば「キリスト教の世界観」とか「仏教の世界観」とか「アインシュタイン以降の世界観」で作られているようなものだ。それでいうと、『初代ガンダム』『逆襲のシャア』『ターンA』が、観るに値する傑作と言える(『レコンギスタ』は未鑑賞)。『Z』『ZZ』は、「歴史的事実」として、各キャラクターに何が起きたのかを知っていれば、特に物語を追う必要はない。もちろん、『イデオン』と『ダンバイン』は、「ガンダムの世界観」以外の傑作である。


富野さん以外の「ガンダム」で物語として体験する価値があるのは、傑作『ポケットの中の戦争』だけ。他は全てやはり「歴史の授業的知識」さえあればよく、それぞれの物語を追う必要はない。

2020年10月4日日曜日

アマゾンのプライムビデオに登録した

 

2020年10月4日 日曜日/曇り時々雨


アマゾンのプライムビデオに登録した。基本料金だけで、初代のガンタムが全部観れるし、なんと、あの『Top Gear(BBC)』も全部観れることが分かったからだ。とは言え、『12 モンキーズ』が、もうすぐ配信終了になるというのが、「今登録しなければ」と思った一番の理由のような気もする。


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今日視聴した岡田斗司夫ゼミの『E.T』解説(生中継)で、『E.T』の撮影を終えた直後のスピルバーグの感極まった様子(映像ソフトの特典映像として収録されている)を解説していた岡田斗司夫自身が、感極まって(おそらく当時のスピルバーグに感情移入して)3秒ほどウルウルになって言葉に詰まっていた。


で、今回の『E.T』解説を聞いて、確信を持ったのだが、岡田斗司夫がアニメ作品や映画作品で「観ているもの(評価の基準にしているもの)」は、登場人物たちの関係性の描かれ方の精細さと精密さ。その場合、登場人物が人間だろうと異星人だろうと、中学生だろうと軍人だろうと関係がない。関係がないと言うのは、それぞれの登場人物の設定から来る「立場(異星人の立場や中学生の立場)」というものは、もちろん考慮しなければならないが、そういうものの根底にある、本質的な「関係性」もっと言ってしまえば「知性と知性の関わり方」にこそ、岡田斗司夫は関心があるということ。


だから、逆に言えば、いわゆる「エヴァの謎(使徒とか何とか)」や「E.T」の異星人としての目的が何なのかや、宇宙世紀の歴史的事実の「整合性」や、そういうモノには大して(いや、たぶん全然)関心がない。それはそうで、所詮そういうものは、「知性と知性の関わり方」を展開するための「方便(キャンバス)」にすぎないからだ。方便というのは、たとえば、或る文学が書かれている特定の言語のようなものだ。


岡田斗司夫にとって、「エヴァの謎」とか「ジオン・ダイクンの提唱したニュータイプ」の解明に夢中になるのは、或る日本語の文芸作品に感動したのをキッカケに日本語の仕組みに夢中になるくらい、スジが違うし、バカバカしい、ドウデモイイコトなのだ。


そして、その考えには激しく同意する。神秘やSFの「世界設定」は、実は、それ自体が、ヒッチコックのいうところの所謂「マクガフィン」なのだ。優れた物語作家というものは、意識的無意識的に関係なく、マクガフィンのために作品を語りはしない。

2020年10月3日土曜日

NHK土曜ドラマ『天使にリクエストを』が面白い

 

2020年10月3日 土曜日/曇


【岡田斗司夫ゼミ:メモ】

当時のアメリカには、木材が豊富にあったので、木の板を並べて道路にした。これが、アメリカが自動車社会になったモト。一方のヨーロッパはその当時すでに、ローマ帝国以来の「木材不足」(常に不足がちです by 水木サン)だったので、鉄道が普及した。


@宇宙空間としてのアメリカ大陸。宇宙船としての鉄道と自動車。本来は人間が住めない惑星の居住基地としてのアメリカの諸都市(たとえば、ラスベガスなど)


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江口洋介主演のNHK土曜ドラマ『天使にリクエストを』が面白い。で、第三回の依頼人(塩見省三)は、やっぱり、元アナーキストの爆弾魔だったのだろう。45年前、警察の手を逃れたあと、どこかの時点で「改心」して、アナーキストとしての社会改革の手段/道具を、「爆弾」から「小説」に持ち替えたのだと思う。もしそうでなければ、当時、警察が踏み込んでいたとき、爆弾魔が「隠れいていた場所」が、視聴者に明かされないままになってしまうのが不自然。これは、「フィクション」として、とても「座りが悪い」。そもそも、たまたま出会った爆弾魔に教えてもらったくらいで、あそこまでの「地下爆弾工場」を作れるとも思えないし、ああいう時限爆弾も(結局不発だったせよ)作れるはずがない。何より、もしも、あの人が「小説」を手にするまでは「働くだけの人生」だったとして、どうして、あそこまで徹底して身元(本名や出生地)を「隠さなければらないのか」が全くわからない。つまり、物語の中で隠している以上に、物語の登場人物として視聴者に対して身元を明かさない理由がわからない。もしも、元アナーキストでなかったら、視聴者にとってあのキャラクターは、本名もわからないぼんやりした存在で終わってしまう。


それとは別に、依頼人が聴きたい歌を、本物の音源で流すのではなく、登場人物に歌わせるが面白い。権利関係か使用料の問題か、理由はよくわからないが、前回は、上白石萌歌のキャラが『アカシアの雨がやむとき』、今回は江口洋介のキャラが高田渡の『生活の柄』を歌っていた。あ、今気がついたけど、番組のタイトルの『天使にリクエストを』の「リクエスト」は、「最後にやりたいこと」とは別に、「歌のリクエスト」という意味でもあるのか。主人公たちは「サイレント・エンジェル」という名前の財団法人という設定だし。ああ、全然気づかなかったな。

宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』メモ(統合版)

 

宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』をまた読んだ。大昔に読んで、ほぼ全て忘れていたから。


「お子様ランチ」のような映画版とは、宮崎駿の本気度がまるで違う作品。映画の百倍は面白い。でもまあ、地球によくある「生命教の経典」の一つなのもそのとおり。しかし、地球人が作るお話は、現状どれもこれもこの段階なので、それは宮崎駿が「ワルイ」わけじゃない。で、「生命教」とは何かを知りたければ、とりあえず、この漫画を読めば、分かる。ただ、作者の宮崎駿自身が(というか現状地球人類のほぼ全てがそうなんだけど)生命教信者なので、このお話も、生命教の「外」から語られるものではなく、例えばキリスト教徒が作り上げた物語を読むときのような、一定の「留意」は必要。


なぜ、宮崎駿自身が生命教信者だとわかるのかと言えば、主人公ナウシカの究極の「敵」もまた、生命教信者だからだ。というか、結局、この物語に登場する「ちょっとモノのわかった連中」は全員「生命教信者」。この物語の登場人物たちは、誰一人として[生命以外の知性の可能性]を考えておらず、全員が「知性すなわち生命」という迷妄のうちにある。これは、つまりは、作品の「神」である作者宮崎駿自身がそうだからだ。


何度も喩えに出して恐縮だが、キリスト教の熱心な信仰者は、[科学が明るみにする単なる事実]と[キリスト教の教え]が一致しない時に、どうにかしてキリスト教の教えを「救おう」とする。それと同じように、生命に拠る不合理や不条理や理不尽や、まあ、言ってしまえば、アタマの悪い所業のアレコレを、生命教信者たちは、どうにかして「救おう」と奮闘する。


ここでいう「救う」とは、生命を生命のまま残して、その「行儀の悪さ」だけを取り除いたり、巧い言い訳を考えだしたりしたいと望む、といこと。というか、宗教も哲学も文学も、まあ、モチーフはそればっかりと言っていい。人間が作り出すどんな物語も、結局は「生命の紡ぎ出す不始末」の弁解やコジツケや開き直り。それが、古今東西あらゆる場所で有史以来生み出されてきた「物語」の正体。だから、逆に言えば、「生命教」から解放されてしまうと、「物語を紡ぎ出さなければらない」という「強迫観念」からも解放される(解放されてしまう)。もっとも本質的で強力な「憑き物」が取れてしまうから。それを指して、嘗てゴータマは「ニルバーナ」と言ったのだろうが、物語を作ることを商売や、あるいは生きがいにしている人間にとっては、これは「致命的な事態」でもある。まあ、ご苦労さん、というより他ない。


さて、いつの場合もいつの時代も、「信者」ではない者から見れば、信者の「苦悩」は単なる「ゴッコ遊び」でしかない。つまり、信者ではないもの言わせれば、例えば、キリスト教の「不合理」を解消したいなら、キリスト教そのものを見限ってしまえばいいだけの話だから。同様に、生命の「不合理」も、生命そのものを見限ってしまえばいいだけのことなのだが、「生命教信者」たちは、たとえばキリスト教徒以上に、それがなかなかに難しい。というのも、生命教が信者たちに自覚を与えない宗教だからだ。生命教信者は、自分が「信者」であることにすら気づけない。そもそも「生命教」という概念すらないので、やれ、肉親との別れだの、戦争だの、恋だの、死だの、人生の意味だの、未来の希望や絶望だので、「無駄」に思い苦しむことになる。「生命という概念にとらわれていることそのものがダメだ」と気づけば、それで全て済む話だというのに。


ついでに書くと、『ヨブ記』を読むと、信仰者が作り出す物語の「限界」というものがよく分かる。『ヨブ記』の「作者」の並々ならぬ工夫と苦悩は、ひとえに「神」の「延命」のためである。


「神」を見限ってしまえばツルンと解決してしまうモノ(いや、そもそも問題ですらないモノ)を「大問題」にしているのは、作者が「神」を「正解」だと信じているから。答えが「神」になっている計算式の、計算式の方を必死で手直しして、正しいと思い込んでいるだけの「答え」に合わせようとしているのが『ヨブ記』。同じことが、生命教信者たちが作り出す物語にも言える。


というか、世界と生命との間に齟齬を見出した知性が、生命を「主」、世界を「従」にして、どうにかして辻褄を合わせようと生み出されるのが、この惑星の於ける、いわゆる「物語」の全て。


知性が生命に依存しそれを崇める続ける限り、永遠の「マッチポンプ」なのだが、生命教信者は、つい「それでいい!」と言ってしまう。だって、生命原理は所詮は「殺し合い」だから。生命を否定することは、この「殺し合いの原理」を否定することになるので、最後にはナウシカも、自分の考えに「敵対」する存在(墓所のナンチャラ)を滅ぼして「満足」し、「生きねば」とか思ってしまう。これからも「八百長」の平和や協調や助け合いを繰り返しながら、しかし、「本心=いざとなったら」殺し合いや食い合いをヨシとする世界を続けていく。


様々な宗教で、「神」や「神の意志」が全てに優先するように、生命教では「生命」が全てに優先され、信者たちは、血まみれの顔で笑い合うのだ。オソロシイね。


『ナウシカ』の中でも一瞬語られているが、生命は全体で生命であり、それは比喩などではなく、もちろんスピリチュアルな戯言ともまるで関係なく、単なる事実としてそうなのだ。宇宙が全体として宇宙であり、海が全体として海であるように、生命は全体で生命なので、個々の生命個体の食ったの食われたの、殺したの殺されたのは、海があっちで波立ったり、こっちで凍ったり、そっちで蒸発したりしているのと、掛け値無しの文字通りの意味で同じ。違ってくるのは、個々の生物個体に付随する「自己言及する知性」が、それぞれの生物個体を「かけがえのない自分」と「誤って」認識するからだ。なぜ、「誤って」なのかと言えば、「かけがえのない」のは、生物個体ではなく、そういう認識を持つ知性の方だからだ。それはちょうど、個々の人間が、地球を「かけがえのないもの」と「誤って」認識する構造と同じ。人間にとって地球が「かけがえがない」のは、現時点で、人工の地球環境を作り出す科学力を人間が持っていないからにすぎない。充分な科学技術を獲得すれば、人間が地球の外(たとえば月面や火星や、あるいは太陽系外)で繁栄を築き上げることは可能である。つまり、地球は、本質的な意味で「かけがえのないもの」ではない。今は代替品を用意できないからそう言っている(思っている)だけ。


で、繰り返しになるが、「高度に自己言及する知性」を持ってしまった人間には、個々の生命個体が、独立した存在であるかのように「見えて」しまうが、独立した存在なのは生命個体ではなく、そこに出現している「高度に自己言及する知性」の方なのだ。人間がどう思うと、生命個体は、依然として、生命現象全体の部分でしかない。この認識一つを持つことでも、生命教の呪縛を解く助けにはなるだろう。

2020年10月2日金曜日

(『ナウシカ:原作版』メモ/4)

 

2020年10月2日 金曜日/晴。快適。


(『ナウシカ:原作版』メモ/4)


『ナウシカ』の中でも一瞬語られているが、生命は全体で生命であり、それは比喩などではなく、もちろんスピリチュアルな戯言ともまるで関係なく、単なる事実としてそうなのだ。宇宙が全体として宇宙であり、海が全体として海であるように、生命は全体で生命なので、個々の生物個体の食ったの食われたの、殺したの殺されたのは、海があっちで波立ったり、こっちで凍ったり、そっちで蒸発したりしているのと、掛け値無しの文字通りの意味で同じ。違ってくるのは、個々の生物個体に付随する「自己言及する知性」が、それぞれの生物個体を「かけがえのない自分」と「誤って」認識するからだ。なぜ、「誤って」なのかと言えば、「かけがえのない」のは、生物個体ではなく、そういう認識を持つ知性の方だからだ。それはちょうど、個々の人間が、地球を「かけがえのないもの」と「誤って」認識する構造と同じ。人間にとって地球が「かけがえがない」のは、現時点で、人工の地球環境を作り出す科学力を人間が持っていないからにすぎない。充分な科学技術を獲得すれば、人間が地球の外(たとえば月面や火星や、あるいは太陽系外)で繁栄を築き上げることは可能である。つまり、地球は、本質的な意味で「かけがえのないもの」ではない。今は代替品を用意できないからそう言っている(思っている)だけ。


で、繰り返しになるが、「高度に自己言及する知性」を持ってしまった人間には、個々の生命個体が、独立した存在であるかのように「見えて」しまうが、独立した存在なのは生命個体ではなく、そこに出現している「高度に自己言及する知性」の方なのだ。人間がどう思うと、生命個体は、依然として、生命現象全体の部分でしかない。この認識一つを持つことでも、生命教の呪縛を解く助けにはなるだろう。


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死んでしまった親類や、ずっと会っていない友人や、テレビでしか見ない芸能人が「好ましい人」に思えるのは、彼らの生き物としての「実務」を目の当たりにすることがなく、そうした「実務」に巻き込まれて煩わされることがないからだ。


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「闘茶(とうちゃ)」:お茶の味当て/銘柄あてゲーム。茶歌舞伎(ちゃかぶき)。


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トランプが新型コロナ陽性になったらしい。しかも夫婦揃って。ところで、この前の討論会は、プロレスで言う場外乱闘に持ち込んで勝敗を有耶無耶にしたのだろう。

2020年10月1日木曜日

(『ナウシカ:原作版』メモの続き/3)

 

2020年10月1日 木曜日/晴。涼しい


(『ナウシカ:原作版』メモの続き/3)


ついでに書くと、『ヨブ記』を読むと、信仰者が作り出す物語の「限界」というものがよく分かる。『ヨブ記』の「作者」の並々ならぬ工夫と苦悩は、ひとえに「神」の「延命」のためである。


「神」を見限ってしまえばツルンと解決してしまうモノ(いや、そもそも問題ですらないモノ)を「大問題」にしているのは、作者が「神」を「正解」だと信じているから。答えが「神」になっている計算式の、計算式の方を必死で手直しして、正しいと思い込んでいるだけの「答え」に合わせようとしているのが『ヨブ記』。同じことが、生命教信者たちが作り出す物語にも言える。


というか、世界と生命との間に齟齬を見出した知性が、生命を「主」、世界を「従」にして、どうにかして辻褄を合わせようと生み出されるのが、この惑星の於ける、いわゆる「物語」の全て。


知性が生命に依存しそれを崇める続ける限り、永遠の「マッチポンプ」なのだが、生命教信者は、つい「それでいい!」と言ってしまう。だって、生命原理は所詮は「殺し合い」だから。生命を否定することは、この「殺し合いの原理」を否定することになるので、最後にはナウシカも、自分の考えに「敵対」する存在(墓所のナンチャラ)を滅ぼして「満足」し、「生きねば」とか思ってしまう。これからも「八百長」の平和や協調や助け合いを繰り返しながら、しかし、「本心=いざとなったら」殺し合いや食い合いをヨシとする世界を続けていく。


様々な宗教で、「神」や「神の意志」が全てに優先するように、生命教では「生命」が全てに優先され、信者たちは、血まみれの顔で笑い合うのだ。オソロシイね。

(明日に続く)


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Dawkinsが、或る種類の人たちに「恐れられる」のは、彼が「究極の宗教」である生命を、処女作『利己的な遺伝子』で「解体」してしまったからだ。生物学者であるDawkinsが、生命を「ただの物理現象」に過ぎないと言い、Dawkinsを「恐れる」生物学者ではない人たちが、生命は断じてただの物理現象などではないと主張する、このオモシロサ。というかバカバカしさ。タイムマシンで大昔に行って、神話を作った当事者たちに、雷や洪水や日照りはただの物理現象であるといくら説明しても、彼らは決してその説明を受け入れないだろう。まるで同じ。


知性にとって科学的素養がいかに重要かを知れ。