2020年10月3日土曜日

宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』メモ(統合版)

 

宮崎駿の『風の谷のナウシカ:原作版:全7巻』をまた読んだ。大昔に読んで、ほぼ全て忘れていたから。


「お子様ランチ」のような映画版とは、宮崎駿の本気度がまるで違う作品。映画の百倍は面白い。でもまあ、地球によくある「生命教の経典」の一つなのもそのとおり。しかし、地球人が作るお話は、現状どれもこれもこの段階なので、それは宮崎駿が「ワルイ」わけじゃない。で、「生命教」とは何かを知りたければ、とりあえず、この漫画を読めば、分かる。ただ、作者の宮崎駿自身が(というか現状地球人類のほぼ全てがそうなんだけど)生命教信者なので、このお話も、生命教の「外」から語られるものではなく、例えばキリスト教徒が作り上げた物語を読むときのような、一定の「留意」は必要。


なぜ、宮崎駿自身が生命教信者だとわかるのかと言えば、主人公ナウシカの究極の「敵」もまた、生命教信者だからだ。というか、結局、この物語に登場する「ちょっとモノのわかった連中」は全員「生命教信者」。この物語の登場人物たちは、誰一人として[生命以外の知性の可能性]を考えておらず、全員が「知性すなわち生命」という迷妄のうちにある。これは、つまりは、作品の「神」である作者宮崎駿自身がそうだからだ。


何度も喩えに出して恐縮だが、キリスト教の熱心な信仰者は、[科学が明るみにする単なる事実]と[キリスト教の教え]が一致しない時に、どうにかしてキリスト教の教えを「救おう」とする。それと同じように、生命に拠る不合理や不条理や理不尽や、まあ、言ってしまえば、アタマの悪い所業のアレコレを、生命教信者たちは、どうにかして「救おう」と奮闘する。


ここでいう「救う」とは、生命を生命のまま残して、その「行儀の悪さ」だけを取り除いたり、巧い言い訳を考えだしたりしたいと望む、といこと。というか、宗教も哲学も文学も、まあ、モチーフはそればっかりと言っていい。人間が作り出すどんな物語も、結局は「生命の紡ぎ出す不始末」の弁解やコジツケや開き直り。それが、古今東西あらゆる場所で有史以来生み出されてきた「物語」の正体。だから、逆に言えば、「生命教」から解放されてしまうと、「物語を紡ぎ出さなければらない」という「強迫観念」からも解放される(解放されてしまう)。もっとも本質的で強力な「憑き物」が取れてしまうから。それを指して、嘗てゴータマは「ニルバーナ」と言ったのだろうが、物語を作ることを商売や、あるいは生きがいにしている人間にとっては、これは「致命的な事態」でもある。まあ、ご苦労さん、というより他ない。


さて、いつの場合もいつの時代も、「信者」ではない者から見れば、信者の「苦悩」は単なる「ゴッコ遊び」でしかない。つまり、信者ではないもの言わせれば、例えば、キリスト教の「不合理」を解消したいなら、キリスト教そのものを見限ってしまえばいいだけの話だから。同様に、生命の「不合理」も、生命そのものを見限ってしまえばいいだけのことなのだが、「生命教信者」たちは、たとえばキリスト教徒以上に、それがなかなかに難しい。というのも、生命教が信者たちに自覚を与えない宗教だからだ。生命教信者は、自分が「信者」であることにすら気づけない。そもそも「生命教」という概念すらないので、やれ、肉親との別れだの、戦争だの、恋だの、死だの、人生の意味だの、未来の希望や絶望だので、「無駄」に思い苦しむことになる。「生命という概念にとらわれていることそのものがダメだ」と気づけば、それで全て済む話だというのに。


ついでに書くと、『ヨブ記』を読むと、信仰者が作り出す物語の「限界」というものがよく分かる。『ヨブ記』の「作者」の並々ならぬ工夫と苦悩は、ひとえに「神」の「延命」のためである。


「神」を見限ってしまえばツルンと解決してしまうモノ(いや、そもそも問題ですらないモノ)を「大問題」にしているのは、作者が「神」を「正解」だと信じているから。答えが「神」になっている計算式の、計算式の方を必死で手直しして、正しいと思い込んでいるだけの「答え」に合わせようとしているのが『ヨブ記』。同じことが、生命教信者たちが作り出す物語にも言える。


というか、世界と生命との間に齟齬を見出した知性が、生命を「主」、世界を「従」にして、どうにかして辻褄を合わせようと生み出されるのが、この惑星の於ける、いわゆる「物語」の全て。


知性が生命に依存しそれを崇める続ける限り、永遠の「マッチポンプ」なのだが、生命教信者は、つい「それでいい!」と言ってしまう。だって、生命原理は所詮は「殺し合い」だから。生命を否定することは、この「殺し合いの原理」を否定することになるので、最後にはナウシカも、自分の考えに「敵対」する存在(墓所のナンチャラ)を滅ぼして「満足」し、「生きねば」とか思ってしまう。これからも「八百長」の平和や協調や助け合いを繰り返しながら、しかし、「本心=いざとなったら」殺し合いや食い合いをヨシとする世界を続けていく。


様々な宗教で、「神」や「神の意志」が全てに優先するように、生命教では「生命」が全てに優先され、信者たちは、血まみれの顔で笑い合うのだ。オソロシイね。


『ナウシカ』の中でも一瞬語られているが、生命は全体で生命であり、それは比喩などではなく、もちろんスピリチュアルな戯言ともまるで関係なく、単なる事実としてそうなのだ。宇宙が全体として宇宙であり、海が全体として海であるように、生命は全体で生命なので、個々の生命個体の食ったの食われたの、殺したの殺されたのは、海があっちで波立ったり、こっちで凍ったり、そっちで蒸発したりしているのと、掛け値無しの文字通りの意味で同じ。違ってくるのは、個々の生物個体に付随する「自己言及する知性」が、それぞれの生物個体を「かけがえのない自分」と「誤って」認識するからだ。なぜ、「誤って」なのかと言えば、「かけがえのない」のは、生物個体ではなく、そういう認識を持つ知性の方だからだ。それはちょうど、個々の人間が、地球を「かけがえのないもの」と「誤って」認識する構造と同じ。人間にとって地球が「かけがえがない」のは、現時点で、人工の地球環境を作り出す科学力を人間が持っていないからにすぎない。充分な科学技術を獲得すれば、人間が地球の外(たとえば月面や火星や、あるいは太陽系外)で繁栄を築き上げることは可能である。つまり、地球は、本質的な意味で「かけがえのないもの」ではない。今は代替品を用意できないからそう言っている(思っている)だけ。


で、繰り返しになるが、「高度に自己言及する知性」を持ってしまった人間には、個々の生命個体が、独立した存在であるかのように「見えて」しまうが、独立した存在なのは生命個体ではなく、そこに出現している「高度に自己言及する知性」の方なのだ。人間がどう思うと、生命個体は、依然として、生命現象全体の部分でしかない。この認識一つを持つことでも、生命教の呪縛を解く助けにはなるだろう。