2020年10月4日 日曜日/曇り時々雨
アマゾンのプライムビデオに登録した。基本料金だけで、初代のガンタムが全部観れるし、なんと、あの『Top Gear(BBC)』も全部観れることが分かったからだ。とは言え、『12 モンキーズ』が、もうすぐ配信終了になるというのが、「今登録しなければ」と思った一番の理由のような気もする。
*
今日視聴した岡田斗司夫ゼミの『E.T』解説(生中継)で、『E.T』の撮影を終えた直後のスピルバーグの感極まった様子(映像ソフトの特典映像として収録されている)を解説していた岡田斗司夫自身が、感極まって(おそらく当時のスピルバーグに感情移入して)3秒ほどウルウルになって言葉に詰まっていた。
で、今回の『E.T』解説を聞いて、確信を持ったのだが、岡田斗司夫がアニメ作品や映画作品で「観ているもの(評価の基準にしているもの)」は、登場人物たちの関係性の描かれ方の精細さと精密さ。その場合、登場人物が人間だろうと異星人だろうと、中学生だろうと軍人だろうと関係がない。関係がないと言うのは、それぞれの登場人物の設定から来る「立場(異星人の立場や中学生の立場)」というものは、もちろん考慮しなければならないが、そういうものの根底にある、本質的な「関係性」もっと言ってしまえば「知性と知性の関わり方」にこそ、岡田斗司夫は関心があるということ。
だから、逆に言えば、いわゆる「エヴァの謎(使徒とか何とか)」や「E.T」の異星人としての目的が何なのかや、宇宙世紀の歴史的事実の「整合性」や、そういうモノには大して(いや、たぶん全然)関心がない。それはそうで、所詮そういうものは、「知性と知性の関わり方」を展開するための「方便(キャンバス)」にすぎないからだ。方便というのは、たとえば、或る文学が書かれている特定の言語のようなものだ。
岡田斗司夫にとって、「エヴァの謎」とか「ジオン・ダイクンの提唱したニュータイプ」の解明に夢中になるのは、或る日本語の文芸作品に感動したのをキッカケに日本語の仕組みに夢中になるくらい、スジが違うし、バカバカしい、ドウデモイイコトなのだ。
そして、その考えには激しく同意する。神秘やSFの「世界設定」は、実は、それ自体が、ヒッチコックのいうところの所謂「マクガフィン」なのだ。優れた物語作家というものは、意識的無意識的に関係なく、マクガフィンのために作品を語りはしない。