2020年10月7日 水曜日/曇り
アマゾンプライムビデオで、『Dr.STONE』の1、2話を見た。岡田斗司夫が絶賛していたから。と言っても、岡田斗司夫が絶賛しているのは、多分、原作漫画の方。とは言え、「科学にも分からないことがある」という、科学を根本的に[理解していない/できない]連中が本気で口走るタワゴトを嘲笑う主人公に激しく共感した。科学は宗教ではないし経典でもない。科学は態度であり、世界について合理的な理解を深めようとする行為それ自体のこと。だから、「科学にも分からないことがある」は「分かろうとしても分からないことがある」という意味でしかなく、それは、知性にとって[諦めと怠慢]の表明にすぎない。
しかしここで反論が出るかもしれない。ゲーデルの不完全性定理は、つまりは「分かろうとしても分からないことがある」と言ってるじゃないか、と。
ゲーデルの不完全性定理は「数学も無敵ではない」と言ってるだけ。
この宇宙の現象は数学を用いた論理によって初めて「正しく」解明したり予測したりできるので(ガリレオ曰く「宇宙は数学という言語で書かれている」)、その数学に限界があるのなら、数学から見れば厳密さの点で少し「浅瀬」の「論理というもの」にも限界があるということになり、だから、「分かろうとしても分からない」すなわち「科学にも分からないことがある」は真理だろう、というリクツも通りそうな気がする。
しかし、そもそも「科学すなわち数学」ではない。科学にとって数学は「道具に過ぎない」。望遠鏡や定規と同じ。
もう少し面倒臭いことを言ってしまえば、数学は、実は、宇宙より「広い」。「広い」というのは、つまり、宇宙にはないものが数学にはあるということ。もっと言えば、宇宙が実現し得ないことも、数学の中では「合理的」に起きる。なぜか? ガリレオの「宇宙は数学という言語で書かれている」は、別の面でも核心を突いていて、それは、数学は「言語」だということ。数学は、現時点で最も精巧な虚構なのだ。
繰り返すが、宇宙の全ては数学で記せるが、数学の全てを宇宙が実現できるわけではないのは、数学が所詮はただの言葉だからだ。言葉は人間が世界を理解するための「勝手な取り決め」。「言葉は言葉よ。現実とは違うわ」という話。
数学は現実に含まれないことも語るが、科学が相手にするのは現実だけだ。だから、たとえ数学が無敵でなくても、科学は平気。