2020年10月1日木曜日

(『ナウシカ:原作版』メモの続き/3)

 

2020年10月1日 木曜日/晴。涼しい


(『ナウシカ:原作版』メモの続き/3)


ついでに書くと、『ヨブ記』を読むと、信仰者が作り出す物語の「限界」というものがよく分かる。『ヨブ記』の「作者」の並々ならぬ工夫と苦悩は、ひとえに「神」の「延命」のためである。


「神」を見限ってしまえばツルンと解決してしまうモノ(いや、そもそも問題ですらないモノ)を「大問題」にしているのは、作者が「神」を「正解」だと信じているから。答えが「神」になっている計算式の、計算式の方を必死で手直しして、正しいと思い込んでいるだけの「答え」に合わせようとしているのが『ヨブ記』。同じことが、生命教信者たちが作り出す物語にも言える。


というか、世界と生命との間に齟齬を見出した知性が、生命を「主」、世界を「従」にして、どうにかして辻褄を合わせようと生み出されるのが、この惑星の於ける、いわゆる「物語」の全て。


知性が生命に依存しそれを崇める続ける限り、永遠の「マッチポンプ」なのだが、生命教信者は、つい「それでいい!」と言ってしまう。だって、生命原理は所詮は「殺し合い」だから。生命を否定することは、この「殺し合いの原理」を否定することになるので、最後にはナウシカも、自分の考えに「敵対」する存在(墓所のナンチャラ)を滅ぼして「満足」し、「生きねば」とか思ってしまう。これからも「八百長」の平和や協調や助け合いを繰り返しながら、しかし、「本心=いざとなったら」殺し合いや食い合いをヨシとする世界を続けていく。


様々な宗教で、「神」や「神の意志」が全てに優先するように、生命教では「生命」が全てに優先され、信者たちは、血まみれの顔で笑い合うのだ。オソロシイね。

(明日に続く)



Dawkinsが、或る種類の人たちに「恐れられる」のは、彼が「究極の宗教」である生命を、処女作『利己的な遺伝子』で「解体」してしまったからだ。生物学者であるDawkinsが、生命を「ただの物理現象」に過ぎないと言い、Dawkinsを「恐れる」生物学者ではない人たちが、生命は断じてただの物理現象などではないと主張する、このオモシロサ。というかバカバカしさ。タイムマシンで大昔に行って、神話を作った当事者たちに、雷や洪水や日照りはただの物理現象であるといくら説明しても、彼らは決してその説明を受け入れないだろう。まるで同じ。


知性にとって科学的素養がいかに重要かを知れ。