2020年10月2日金曜日

(『ナウシカ:原作版』メモ/4)

 

2020年10月2日 金曜日/晴。快適。


(『ナウシカ:原作版』メモ/4)


『ナウシカ』の中でも一瞬語られているが、生命は全体で生命であり、それは比喩などではなく、もちろんスピリチュアルな戯言ともまるで関係なく、単なる事実としてそうなのだ。宇宙が全体として宇宙であり、海が全体として海であるように、生命は全体で生命なので、個々の生物個体の食ったの食われたの、殺したの殺されたのは、海があっちで波立ったり、こっちで凍ったり、そっちで蒸発したりしているのと、掛け値無しの文字通りの意味で同じ。違ってくるのは、個々の生物個体に付随する「自己言及する知性」が、それぞれの生物個体を「かけがえのない自分」と「誤って」認識するからだ。なぜ、「誤って」なのかと言えば、「かけがえのない」のは、生物個体ではなく、そういう認識を持つ知性の方だからだ。それはちょうど、個々の人間が、地球を「かけがえのないもの」と「誤って」認識する構造と同じ。人間にとって地球が「かけがえがない」のは、現時点で、人工の地球環境を作り出す科学力を人間が持っていないからにすぎない。充分な科学技術を獲得すれば、人間が地球の外(たとえば月面や火星や、あるいは太陽系外)で繁栄を築き上げることは可能である。つまり、地球は、本質的な意味で「かけがえのないもの」ではない。今は代替品を用意できないからそう言っている(思っている)だけ。


で、繰り返しになるが、「高度に自己言及する知性」を持ってしまった人間には、個々の生命個体が、独立した存在であるかのように「見えて」しまうが、独立した存在なのは生命個体ではなく、そこに出現している「高度に自己言及する知性」の方なのだ。人間がどう思うと、生命個体は、依然として、生命現象全体の部分でしかない。この認識一つを持つことでも、生命教の呪縛を解く助けにはなるだろう。



死んでしまった親類や、ずっと会っていない友人や、テレビでしか見ない芸能人が「好ましい人」に思えるのは、彼らの生き物としての「実務」を目の当たりにすることがなく、そうした「実務」に巻き込まれて煩わされることがないからだ。



「闘茶(とうちゃ)」:お茶の味当て/銘柄あてゲーム。茶歌舞伎(ちゃかぶき)。



トランプが新型コロナ陽性になったらしい。しかも夫婦揃って。ところで、この前の討論会は、プロレスで言う場外乱闘に持ち込んで勝敗を有耶無耶にしたのだろう。