2019年3月27日水曜日

現の虚 2014-9-5【死神X】


俺は広間に通された。壁一面に巨大スクリーンがあって、そこにアイパッチの男が映っていた。とてもよく出来てるが、CGだ。

美人看護師ミカミカミは車椅子の老オーナーを所定の位置まで押し、乾涸びた老人の頭に、太いコードで天井と繋がったヘルメットを被せた。それから俺を見て、老人のヘルメットを無言で指さすと、その人さし指で、太いコードを登って天井に行き、ぐーっと曲がって壁伝いに机の上の端末まで降りる配線のルートを示した。

美人看護師は端末の前に座り、オーナーに尋ねたいことがあれば、おっしゃって下さい。ここで打ち込みますから、と俺に云った。事前情報ゼロの俺は老人の名前を訊いた。

カイです。

間髪入れずに美人看護師が直に答えた。

自称死神。死神カイ。カイはエックスのギリシャ読みです。つまり、死神エックス。

美人看護師はキーボードの上に静かに両手を置いてサラサラとそれだけ喋ると、年をとると誰でもおかしな妄想にとらわれるものです、と付け足した。更に、ちなみに大文字のXはキリストを表すそうですよ。ご存知、全人類のための受難者です、と半笑い。

俺は本題に入り、美人看護師はキーボードを叩き、スクリーンの中のアイパッチの男=死神Xは答えた。車椅子の上の生ける屍は置物のように動かない。

君を救ったのはワタシだ。君を運び、君に血を分けた。だが、今のワタシはただの廃人。ギリギリ死んでないだけの肉の塊。

こうして喋っているワタシは録音でも人工知能でもない。君の目の前にある、その人型の肉塊の奥底に閉じ込められたワタシという存在が、今まさにコトバを発しているのだ。もし、人格の本質が霊魂と呼ばれる自立した存在なら、これらのコトバはその霊魂が発しているということなのだろうが、事実はそうじゃない。

ほんの数ヶ月前までワタシは不死の存在だった。だが、ワタシはこの島で「寿命病」に感染した。熱力学の第二法則が云うところの増大し続けるエントロピーの禍に取り込まれてしまったのだ。

この建物の最上階にプールがある。競泳用ではなく、円筒形の貯水槽だ。深海プールと呼ばれている。蓄えられた水が海水で、事実、深海のように深いからだ。深海プールは建物の中心を貫いて地下深くに達している。君の目指すモノはその深い水の底に待っているよ。

あら、あんまり真に受けちゃダメですよ。

ミカミカミは笑ってそう云うと、ポケットから白い板ガムを取り出して赤い唇の間にねじ込んだ。

8-2:物腰の柔らかい男


天井の低い円形の部屋。照明はない。代わりに床の大きな丸い水たまりが光っている。ソノヒトは潮の匂いを感じた。
「気が付きましたね。深海プールでは海水を使っています。ここは絶海の孤島で真水は貴重。一方で海水は有り余るほどですから」
物腰の柔らかい男は白いスーツのポケットから細い懐中電灯を取り出してソノヒトの足元を照らした。ソノヒトはテーブルのある場所に連れて行かれた。ソノヒトが席に着くと、物腰の柔らかい男は茶碗にお茶を注ぎ「極上の密輸品です」と耳打ちしてから、自分も向かいの席に腰を下ろした。それから自分が先に「極上の密輸品」を味わい、ほーっとため息をもらすと、「さ、あなたも」とソノヒトにお茶を勧めた。ソノヒトにとってそのお茶は一瞬も口をつけられないほど熱かった。
「敵を絶滅させる気がないなら戦争などしない方がよろしいですな」
物腰の柔らかい男はそう切り出した。
「一人残らず皆殺しにしないのなら戦争など時間の無駄です。昔は人間も、敵を根絶やしにする勢いで戦争をしたものですが、近頃は八百長ばかりで、却って事態をこじらせている」
物腰の柔らかい男は微笑んだがソノヒトは笑えなかった。お茶を飲もうとしてまた唇を焼いた。
「こじれるわけが分かりますか?」
ソノヒトは唇を舐めながら首を振った。
「人間に復讐心というものがあるからですよ。簡単なことです。それでは、なぜ人間には復讐心があるのか。人間に関係性の概念があるからです。因果関係の概念と云ってもいいでしょう。つまり、或る物事と別の物事が時間的空間的に隔たっていたとしても、それを関連づけて考えることができるし、その関連づけを長期にわたって大勢が共有することもできる。つまりは優れた記憶力と高度に複雑な言葉が祟っているわけです」
物腰の柔らかい男の両方の鼻の穴から湯気が昇る。
「ともかく戦争をするなら皆殺ししかないのですが、ここに一つのジレンマが生じます。なんだと思います?」
ソノヒトはさあと首を傾げる。
「皆殺しにした方もやっぱり人間だということです。人間が人間を相手に戦争をしている限り、人間を皆殺しにはできないのですよ!」
物腰の柔らかい男はそう云って吹き出した。ソノヒトはソノヒトからそっと抜け出し、席を離れた。プールに飛び込む前に振り返ると、物腰の柔らかい男は、どうにか熱いお茶を飲もうとしているソノヒトに向かって、何かどうでもいいことを熱心に喋り続けていた。

2019年3月25日月曜日

現の虚 2014-9-4【ミカミカミ】


僕らにとって死んだ人間が地上に残した幽霊とか霊魂は環境汚染なのさ。人間にとっての公害や放射能汚染のようなね。つまり放っておくと死神の「健康」を害する。だから小まめに「清掃」「除染」に励んでる、と死神Bは云った。
死神が「健康」を害するとどうなるのさ、と俺。
寿命が発生して老化が始まり死ぬ。
そりゃたいへんだ。
タイヘンさ。死はともかく、老化はひどくツラいらしいからね。

そんなやりとりがあってから4日後、俺は、死神Bがチャーターした漁船に乗り込み、ひとりでその島に上陸した。放射能汚染に喩えれば原発が一度に何基も爆発したくらいの幽霊汚染レベルのその島に死神が上陸することなどとても不可能。だが、人間である俺にとって幽霊汚染は全くの無害。だから、俺が単身乗り込んで、終末世界並の幽霊汚染を「除染」するよう頼まれたのだ。

なくした右手を付けてもらった借りもある。

除染道具一式を背負った俺は、まっすぐ島のオーナーの家に向かった。先方には事前に連絡をしてある。まさか追い返されることはないだろう。もし追い返されても行くところがない。チャーターした漁船は帰ってしまったし、島には宿も店も何もない。あるのはコーラの赤い自販機だけだ。人類が火星に初めて降り立ったら、そこにはきっとこれと同じ赤い自販機があるはずだ。

俺はコーラを一本買った。

樹に囲まれた暗い山道を登って行くと、家の前で、島のオーナーと看護師が待っていた。溶けたロウソクのようなオーナーが座る車椅子を、青いワンピースの美人看護師が押している。美人看護師はミカミカミと名乗った。ミカミカミはスゴい美人だが、俺は、車椅子のオーナーの顔を見た瞬間に、そのスゴい美人の存在を忘れてしまった。死神Bの言葉が蘇る。

島のオーナーに会えば分かるよ。他でもない君が島に行くべき本当の理由が。

溶けたロウソクのように車椅子の上に崩れ込んだオーナーは、アルプスで発見された5千年前のミイラ「アイスマン」のような顔に、海賊船長のような仰々しいアイパッチをしていた。

アイパッチの男。

右手をなくした俺を病院に担ぎ込み、出血多量で死にかけていた俺に大量の血を分け与え、忽然と姿をくらました謎のアイパッチの男が、この男だというのか。しかし、だとしたら年をとりすぎている。

ここ一ヶ月で急激に老化したのです。まるで乙姫様の玉手箱を開けてしまったかのように。

美貌の看護師ミカミカミがそう云って微笑んだ。

8-1:深海プールへようこそ


ソノヒトはそのまま水の底を歩いて砂浜に上陸した。防波堤の上で網の手入れをしている漁師の老人がいた。ここはどこかと尋ねると、相手は丁寧に何か答えてくれた。しかし訛りが強すぎて、ソノヒトには一言も聞き取れなかった。親切な老人は砂浜に口を開けた排水溝を指さし、それから山の上にある塔を指さすと、身振り手振りで、そのふたつが繋がっていることを教えてくれた。それから、塔とソノヒトを交互に何度も指さした。ソノヒトは、老人がソノヒトを塔へ行かせたがっていることに気づいた。老人は笑ってうなづいた。

砂浜に口を開けた排水溝は、道路脇の、コンクリートの蓋がついた側溝につながっていて、道路は山の上の塔まで続いていた。道路を行くのがとても危険なのは、ここが(おそらく)初めてのソノヒトにもすぐに分かった。音と光とニオイがその危険を教えてくれた。道路に溢れかえる様々な危険が側溝の蓋を絶えず脅かすのを感じながら、ソノヒトは山の上の塔を目指して側溝の中を歩いた。

ようやく着いて外に出てみると、側溝だと思って歩いてきたものは、実は今では使われていない古い防空壕だった。崩落を防ぐために、入り口からほんの少しを残して、あとは全部石で塞がれていた。ソノヒトは入り口だけの防空壕に一瞬だけ違和感を覚えた。しかし、使われていない防空壕が石で塞がれていても何の不都合もないと思い直し、すぐにその違和感を忘れた。

ソノヒトは目の前の塔を見上げた。塔はどこまでも高いように見えたが実際はさほどでもなかった。というのは、中に入ってエレベータを見ると、階数を示すボタンが偶数しかなかったからだ。もし奇数と偶数の両方のボタンがあるなら、この塔は無限に高いだろう。しかし偶数しかないのなら、無限の半分しか高くない。なぜなら数は奇数と偶数の二つの組み合わせだからだ。ソノヒトはそこまで考えてから、また心に違和感を覚えた。そして今度は、自分の思考にナンラカの不具合が起きていることを確信した。しかしその確信も次の瞬間にはソノヒトの意識から綺麗に消えていた。

ソノヒトを乗せたエレベータは既に動いていて、最上階まで昇るとそこで止まった。しかしそこは見せかけの最上階、すなわち無限の高さの半分しかない偶数の最上階である。ソノヒトは奇数の最上階もあるのだろうと推理した。エレベータの扉が開いた。
「深海プールへようこそ」
ひどく物腰の柔らかい男がソノヒトを出迎えた。

2019年3月24日日曜日

7-9:九眼の石


〈出口〉のドアはいくつかあった。だが、大半はただの絵で、それ以外は〈入口〉だった。遂に本物の〈出口〉を見つけたと思って「出て」みたら「入って」いた。そもそも全ての〈出口〉は〈入口〉なのだとコドモは悟った。〈出口〉から入った場所には草が生えていた。木も生えていた。少し離れたところには大きな池も見える。見上げれば空まである。いかにも〈外〉のようだが、ここは依然として〈中〉なのだ。近くの壁に触れてみた。掌に移ったこの匂いは……

鉄。ここは大きな鉄管の管の中なのだと女が云った。青いワンピースに極端なショートカットの物凄い美人のいきなりの登場に時空が歪む。

時間を飛んだ。

大きな池の畔に二人並んで座っていた。女に石ころを手渡されて、それを池に投げる。石ころは少しの波紋も立てず池の中に吸い込まれる。水音もない。女は裸足だった。そのことを指摘すると、女は黙って頷き、あなただって履いてないと言う顔でこちらの足を見た。
(ああ、これは、今、ちょっと見つからないだけです)
女がそっと笑う。それからまた石ころを手渡す。さっきと同じように池に投げる。
(死んだ奴が威張るのが、コドモの頃から許せないタチで)
自分で石ころを探すが一つも見当たらない。女がまた石ころを手渡してくれる。それを受け取り、池に投げる。
(死人になると人間は途端に威張り出すけど、アレって何ですか?)
女がまたそっと笑う。どうもヤリカタを間違えている気がして、日記『木曜日の子供』を取り出して開いた。

……コドモが「レーに呪い殺された人間は、今度は自分がレーになって自分を殺したレーに復讐すればいいのに、なんでまた自分も別の生きた人間を呪うんだろう」と言うと、九の目のギニグは「平安の頃までは霊同士でやりあってたよ。でも末法の世の今は全然ダメだね」と答えた。「マッポー?」「そう末法だよ」……

再び池の畔。女から受け取った石ころは今までのものと少し違った。女を見るとニコリと頷いたので、同じように池に投げた。今までと少し違う石は水面を揺らし、水音を立てた。これは、と思って女の方を見ると、世界が一気に解像度を上げ、全てがmoleculeになった。落ち着いて観察すると、特徴的な水素結合がはっきりと確認でき、全て水のmoleculeだと気づいた。

そして解像度が戻った。

深い水の底へゆっくりと降りていく。
右手には、最後に投げた石、すなわち「九眼の石」を握っている。

現の虚 2014-9-3【世界最高齢のタクシー運転手と古い水源地の女の幽霊】


死神Bは世界最高齢のタクシー運転手が運転する個人タクシーを愛用している。電話で呼ぶと孫悟空のキントウンのようにすぐにやって来るのが便利だからだ。ただし車種は黒いアルファロメオ・ブレラで、客が二人以上の場合、車内はものすごく狭い。死神Bは「いつもの席」だという後部座席を独り占めにして、俺を助手席に座らせた。死神Bが世界最高齢の運転手に行き先を耳打ちすると、ジイさんは、アハーと大声で頷き、車を発進させた。

後部座席でとぐろを巻いた死神Bが云う。

僕ら死神は死を司ってるわけじゃないよ。生き物は勝手に生まれて勝手に死ぬ。どの生き物がいつ死ぬかが書き込まれた死神手帳なんてものはない。そんなものあるわけないよ。宇宙は計画じゃないから。僕ら死神はただ死なないんだ。つまり、その点で死を超越してる。だから人間に死神と呼ばれる。死なないんだから生きてるとも云えない。つまり僕らは純粋な存在なのさ。大気や岩石や水のような。

僕らって云うことは、つまり死神は一人じゃないってことか?

俺の質問に死神Bは煙草に火をつけながら笑う。喫煙可能な点も死神Bがこの個人タクシーを愛用する理由の一つだ。

当り前だよ。「唯一無二の存在」ってのは、人間のアタマの中でしか成立しない破綻概念だからね。「時間を遡る」とか「1を3で割った数」と同じ、実体のない、言葉だけの言葉だよ。

そうなんだ、と俺。
どうだろ、と死神B。

タクシーは街を出て山に入り、舗装されてない道を登って、今は使われてない古い水源地に着いた。タクシーを道に待たせて、俺たちは下に降りた。

古い水源地の水は殆ど枯れていた。殆ど枯れてはいたが小さい池くらいの水たまりがあって、その中にだれか女がひとり立っていた。

ひとりでひっそりと死ぬのはいいけど、あんまり寂しすぎるところを選ぶと、死んだことにさえ気付いてもらえない、と死神B。で、あんなふうになる。ひどい汚染に、スゴいニオイ。

俺には、ひどい汚染もスゴいニオイも、意味が分からない。山奥のきれいな空気の中で、水に浸かった女の幽霊がじっとこちらを見ているだけだ。一つだけ気付いたトクベツなコトと云えば、女の幽霊の服装が、俺にでも分かるくらい時代遅れのシロモノだということ。

死神Bはドライアイスのような塊を水たまりに投げ込んで煙を発生させた。煙に包まれた女の幽霊の頭の上に光の輪が現れて、時代遅れの服を着た女の幽霊は青い空の果てに消えた。

2019年3月23日土曜日

7-8:フクタローさんとその娘


コドモが熱を出すと、親は「フクタローさんに行くか?」と言う。コドモが腹が痛いと言っても「フクタローさんのところに行け」と言う。コドモがイウコトヲキカナイない時には「フクタローさんに注射してもらう」と言う。

フクタローさんは、村でただ一人の医師だが、背が高く、しかし、首の後ろで見えない米俵を担いでいるみたいに体は曲がっていて、中華饅頭のような顔に、いわゆる瓶底眼鏡をかけ、ハゲ頭で、村の言葉とは全く違う訛りで喋る、コドモにとっては、ただの怪人だった。

怪人のアジトは、採石場の地下や森の奥ではなく、コドモの家から歩いて5分の村の真ん中にあった。村ではダントツに広い敷地に、診療所と住宅を背中合わせに建てたオヤシキだ。コドモは、住宅の方に行ったことはなかったが、診療所には何回も連れて行かれた。変な道具と妙なクスリでいっぱいの棚が並び、嗅ぎなれないニオイのする薄暗い平屋の建物で、タタズマイはまさにホンモノ。

更にそこには、怪人に甲斐甲斐しく仕える魔女がいた。魔女は看護婦で、薬剤師で、受付係で、実は(と言っても、別に隠してたわけではない)怪人のひとり娘だった。コドモはもう忘れたが、魔女は極ありふれた「ホニャ子さん(サチ子さんとかヨシ子さんとか)」と呼ばれていた。「ホニャ子さん」が魔女の理由は「ちゃんと」喋れなかったからだ。ちゃんと喋れなかったのは「ホニャ子さん」には、舌の前半分がなかったからだ。事故か病気か糊を舐めたせいかコドモは知らない。ホニャ子さんの喋る言葉は、だから、究極の「舌足らず」で、コドモには「AWAW」としか聞こえない。その上、どうしても唾液が口から漏れ出しがちになり(舌の表面積が少ないせいだ)、途中に何度も「C」という唾液の吸引音が挟まる。このように、コドモには全く理解不能のホニャ子さんの「AWAW-C」語をオトナはちゃんと聞き取っていて、コドモをしきりと関心させた。

村の言葉と全く違う訛りで喋る怪人が注射器を構え、「AWAW-C」語の魔女が受付の小窓から顔を出す診療所は、コドモにとってはまさに異界ではあったが、だからこそ、ビョーキに打ち勝つ、いわゆる「パワースポット」でもあった。

「昔の中国の『五毒』もそうだが、猛烈な毒は、それ以上に猛烈な毒で打ち負かせるというのは、ヒトにありがちな幼児的発想だよ」と、待合室の長椅子で学研の科学を読みながら8つ目のギニグがコドモに言った。

現の虚 2014-9-2【場の記憶】


人間が死んで霊魂が死後の世界に行くとか、ヤレ輪廻転生して生まれかわるとか、そういうことはないね。だいたいさ、死後の世界だなんて、バカバカしくて笑っちゃうよ。

と云い切るのは死神B。顔面に包帯をグルグル巻きにして丸い緑色サングラスを掛けた、透明人間かミイラ男のようなイデタチ。ひょろ長い体を場末の喫茶店の狭い席に片づけて、包帯の隙間から器用にブラック珈琲を啜る。

死神Bは俺のために持って来たという義手を紙袋から取り出し、テーブルの上に置いた。それは義手というより、誰かの腕から今切り落とされたばかりのナマの人間の手そのものだった。いや。人間の手の形をした生き物か。手はテーブルの上でモゾモゾ動いて、触ると生き物みたいに温かかった。

付けたら付くよ、と死神B。俺はモゾモゾ動く手を俺の右手首にくっ付けた。付いた。一瞬背中がゾクゾクッとしたと思ったら、もう自分の手のように自由に動かせる。便利だよねえ、と死神B。便利だなあ、と俺。さっそくその右手で珈琲カップを掴んで珈琲を飲んだ。何の不都合も違和感もない。

じゃあ僕が除染してる霊魂と呼ぶあの連中はなんだ、と君は訊くだろうね、と死神Bは話を戻し、俺は頷く。右手を失って以来ずっと目撃し続けている、あの、明らかに死んだ人間の霊魂のような幽霊のような連中はなんだと云うのか。あれこそまさに死後の人間そのものじゃないか。

死神Bは首を振る。

便宜的に霊魂とか幽霊とか呼んでるけど、アレは記憶とか思いと呼んだ方が実態に近い。英語で云えばメモリーだけど、思い出と訳すと感傷的すぎる。もっと工学的なイメージ。問題は誰にとっての記憶かということだけど、実は死んだ人間のじゃない。場(ば)の記憶なんだ。

場ってなんだ、と俺。

場というの英語で云えばフィールド。古い概念で云えば時空間のことさ。かつて存在した人間によって生み出された場の揺らぎがその場に留まっている状態が場の記憶で、つまり、君が見て来たいわゆる幽霊たちだ。けど、連中はかつて存在した人間の成れの果てじゃないよ。布団に残るぬくもりは今までそこに寝ていた人間をイメージさせるけど、布団に残るぬくもりは絶対に幽霊じゃないだろ。それと同じ。

そうなのか、と俺。ウソだよ、と死神B。包帯の下でニヤっと笑って珈琲を啜る。君って何でも簡単に信じるよねえ。ま、連中の正体が何であるにせよ、君には連中が見える。それが君にとっての事実の全てさ。

2019年3月22日金曜日

現の虚 2014-9-1【霊魂という虚構】


人間だけが、死ぬと霊魂と云うフィクションを残してしまうことがある。僕らはその始末をしてる。放っておくと腐って害になるから。

顔面包帯グルグル巻きの長身の男=死神Bは、包帯の隙間に突っ込んだ煙草を器用に吸いながら俺に云った。

他の動物は死んでもそんなことはない。死んだら死にきり。潔い。

死神Bは鍵のかかってるはずの倉庫の扉をフツウに開けて中に入る。俺もそれに続く。暗い倉庫内を、暗いままですらりすらりと進んで、階段を上って、通路を通る。

人間のどんな優れた教祖も最後はただ死んだだけ、と死神B。そしてどんな教祖も、死ねば、たった一人のバカも導けない。バカっていうのは、どんな叡智もただの狂気にしてしまう。人間の宗教が大昔から延々と繰り返しているアヤマチさ。そもそも宗教の存在自体が人間の未熟さの証なんだけどね。

死神Bは通路の突き当たりの真っ暗な小部屋に入り、見えるかい、と俺に訊く。俺が何も見えないと答えると、軽く手を振って、これで見えるだろうと云った。それまで真っ暗だった中の様子が、暗視カメラで見たような緑色の光景で見えるようになった。緑色の梯子を緑色の死神Bが登り、緑色の俺もあとに続く。倉庫の屋根に出た。

星明かりの下の屋根の上に誰かが膝を抱えて座っていた。麦わら帽子を被って、煙草の煙を一筋、夜空に向かって立ち上らせている。

生きてる人間じゃないな、と俺が訊くと、生きてる人間じゃないさ、と死神Bが答えた。死神Bはポケットから爆竹の束を取り出し、煙草の先で火をつけると、麦藁帽の幽霊に向かって放り投げた。爆竹の束は麦藁帽のすぐ後ろに落ちパンパンと弾けて大量の白い煙を出した。麦藁帽はあっという間にその煙に包まれる。すると、麦藁帽の上に光る輪が現れた。麦藁帽の男は膝を抱えたまま、そして、煙草を吹かしたまま、ゆっくりと夜空に向かって昇ってゆき、最後は星と区別がつかなくなって消えた。

この前の子供みたいな新しい霊魂はまだいいんだけど、あそこまで古くなると(きっと死んでから百年近くは経ってるよ)、近づくのは危険だし、ニオイもきついから、爆竹でヤッツケるのが一番なのさ、と死神Bは、訊いてもないことを答えた。

ニシテモ、なんで人間は煙草を吸いたがるんだろうね。煙草は僕らのためのもので、人間が吸ったところで何のイミもないのに。それどころか、むしろ害になる。まるで飼い主が食べてるチョコレートを食べたがる犬だよ。

■ロボットとジェンダー


WIREDのロボットとジェンダーに関する記事を読んで思った。

蛸は吸盤の存在を前提に成り立っている生命現象。人間は性別の存在を前提に成り立っている知性現象。生命現象に吸盤が必須ではないように、知性現象に性別は必須ではない。そして、現状のロボットは、非常に「原始的」な「知性現象」であり、決して「原始的」な「生命現象」などではない。

バクテリアなどを指して「原始的な生物」というときのニュアンスをそのまま一段ずらして「原始的な知性」というべき存在が、今のロボットたち。「原始的な生物」は一般に極めて小さいが、「原始的な知性」の図体はむしろデカい。

人間は自律型ロボットを作るとき、人工の「命」を作っていると思いがちだ。人間は「世界と関わりを持つ存在であり続けること」と「生きていること」をすぐにゴッチャにする(同じものだと思う)からだ。それは「生き物には吸盤が不可欠」と「思い込んでいる」蛸と同じ視野狭窄。

実際には「生きていなくても」存在できるし、世界と関わることもできる。それが知性現象の本領。ただ、人間は生命現象依存型の知性現象であるために、なかなかその点を腹の底から納得できない。何度も登場してもらうが、それは、蛸にとって、吸盤なしの生活など「どうしても考えられない」のと同じことだ。

生命現象にはジェンダーがつきもの。地球上を見渡せば、目につく生命現象のほとんど全てはジェンダーで「動いて」いて(実はジェンダーなど無関係の生命現象も無数に存在するが、そういうタイプの多くは人間の目には小さすぎる)、人間はそのことをよく知っている。また、ジェンダーは当然、人間自身の駆動力にもなっている。

人間は、ロボットを「人間という生き物のデキソコナイ」だと、まあ、思っているので、人間の(というか全ての有性生殖生物の)駆動力であるジェンダーを無理してでもロボットに与えたがる。またそうすることを、デキソコナイに対する「親切」くらいに思っている。つまり、ロボットにジェンダーを与えたり、ジェンダーを見出したりすることは、本当はそうではないロボットを、一人前の存在として認めてやっている、くらいに思い込んでいるのだ。

しかしそれは(しつこいようだが)ロボットエンジニアの蛸が、完全な人型ロボット(アンドロイド)の5本の指先に、吸盤の機能を〔つけたがる/つけるのが当然/つけてもらって嬉しいだろうと思う〕ようなもので、ただのマヌケ。

真相は全く逆。ロボットにジェンダーが与えられるのは、ジェンダーのために「世界認識の濁ってしまっている」人間の都合に合わせて、ロボットの側が〔より整然としていて自由な場所〕から〔より混沌としていて不自由な領域〕へ「降りて」来ることを意味している。

この宇宙で、生命現象に明るい未来はないし、人間もソレナリの知性現象になった時にその点に気づいた(その点に気づけたからソレナリの知性現象になれた)。しかし、今、自分たちが作ろうとしているものが、生命ではなく知性だということ、そして、自分たちが望んでいるのが、永遠の生命現象ではなく、永遠の知性現象だということをよくは分かっていない。まるで、訳も分からず川を登っている鮭の群れ。

2019/01/19 アナトー・シキソ

7-7:なぜこのカタチなのか


小学生になれば自然と分かるものだと思っていたが、そうではなかった。すなわち、コドモがしばらく前からアタマを悩ませている「なぜ、男にはあって、女にはないのか問題」である。周りのオトナは、生まれた赤ん坊が男か女が、医者や看護婦やサンバや親に、すぐに分かるようにするためだ、と、答えた。7つ目のギニグは、コドモから、そのオトナのコタエを聞いて、動かない口でボボボボと笑った。コドモも苦笑した。

「そんなバカな話があるものか。ネコにだって同じようなものはあるが、ネコには医者も看護婦もサンバもいないし、ネコは、生まれた子供のオスメスなんか気にしない。他の動物だってそうだ」

7つ目のギニグは、上に3つ、下に4つ並んだ目玉をキラキラさせてコドモに言った。コドモはその意見に同意し、さらに一歩進んだ。百歩譲ってアレのあるなしがオスメス判別用だとして、では、なぜあのカタチで、あの場所でなければならないのか? オスメス判別のためだけなら、アタマのてっぺんのツノでもいいはずだ。

「その通り!」

ギニグの賛意に後押しされて、コドモは、オトナにその一歩進んだギモンをぶつけてみた。オトナは、ニヤニヤ笑って、オトナになれば分かると答えた。それを聞いたギニグは「順番が逆」とコドモに耳打ちし、コドモはオトナにそれをそのまま言った。オトナは今度は黙って、何も答えなかった。

ギニグとコドモは堤防まで歩いてそこに座った。ギニグは、学生服のポケットから煙草を取り出し、動かない口に差し込んで火をつけた。

「オトナになれば自然と分かることなんて高が知れてるが、オトナになって自然と分かる知識だけで、大抵の人間はオナカいっぱいさ。だから、大抵の人間はオトナになっても、人間の外の世界について殆ど何も知らない。ネコやスズメやワラジムシが、自分たちの世界の外を何も知らないのと、全く同じだ。しかし彼は違う」

コドモは、ギニグの視線の先を見た。堤防の先っちょで年寄りが魚を釣っている。ジモトで有名な、引退した漁師で、今日も入れ食いだ。達人の足元にはバケツが二つあり、釣り上げた魚をオスメスで分けていた。それぞれのバケツの透明な水の中で釣られた魚たちがゆらゆら呑気に泳いでいる。コドモには、どちらのバケツの魚がオスで、どちらのバケツの魚がメスだか見分けがつかなかったが、達人は魚を釣り上げると、なんのタメライもなく、どちらかのバケツにちゃぽんと放り込む。

2019年3月18日月曜日

■「お菓子はいらない。オマケだけが欲しい」


「生命現象」からみれば「知性現象」は「副産物/便利な道具」に過ぎない。一方で、人間からすれば「知性現象」こそが本質で、「生命現象」は「器(容れ物)」でしかない。しかも、その器には耐用年数があり、いずれ必ず漏れ始め、遂には粉々になる。しかし、耐用年数があることは生命現象のソモソモの「仕様」であり、生命現象自体はこの点を問題にしない。むしろ、この仕様があるからこそ、さまざまな生命活動が生まれる。これを悩むのは人間だけだ。

現在の地球上の生き物の中で、人間だけが、生命現象ではなく、知性現象に軸足を置いている。しかし、物理現象から見た場合、人間の実態は依然として生命現象そのものであり、それゆえに、知性現象は単なる「オマケ」にすぎないのだが、人間の「ツモリ」は「知性現象こそが人間」なのだから、人間が「悩み多き存在」なのは当然である。人間はまだ、「お菓子はいらない。オマケだけが欲しい」と駄々をこねる子供。

2019/03/06 アナトー・シキソ

7-6:一本足とノーマクエン


一本足に下駄を履いた坊主頭が、ゴム長靴を履いたノーマクエンをお供に、時々、コドモのウチに来る。一本足は、若い時に船のエンジンに足を一本巻き取られたせいで、ノーマクエンは、赤ん坊の時に戦争中で食べ物がなかった親が、母乳代わりに米のとぎ汁ばかり飲ましていたら糞詰まりになって、それが原因で高熱が出たせいで(と母乳の出なかった母親は思っている)ソウなった、と6つ目の赤い馬面ギニグが言った。

「昔の船のエンジンは、バイクのエンジンと同じで、足で蹴飛ばして起動させていたから、何かの弾みで着物の裾が機械に巻き込まれて、それでそのまま脚までひき潰されたというわけさ」

一本足が二本の杖を壁に立てかけて横になっている日当たりの良い縁側と居間の仕切りの襖の裏に隠れた学生服の6つ目の馬面ギニグが、正座して、コドモに昔話を続ける。

「一本足は戸板に乗せられて病院に運ばれたけれど、病院には麻酔がなかった。医者がダメになった足を切り落とす間、一本足はずっと、麻酔代わりに歌を歌い続けていたよ」

春の日を楽しんでいる一本足の傍にずっと黙って座っていたノーマクエンがとうとうしびれを切らして、オトッチャン……と声を出した。モ、カエロウ……。一本足が目を閉じたまま「おまえ、先に帰れ」と答えると、ノーマクエンは、ニヤリと笑って、口の端からよだれを垂らして、ナン、イッショ、と言った。オカッチャンノ…、メシ、メシ、と続ける。一歩足は目を開け、大義そうに体を起こすと、家の奥に声をかけた。奥からコドモの母親が出てきて、「あら、お義父サン、もうお帰りですか、気をつけて」と言った。一本足は、コレがうるさいから、とノーマクエンを顎で指して、ノーマクエンが差し出した杖を受け取った。

一本足が夫婦そろって入院したとき、ノーマクエンはしばらく、コドモの家に住んだ。子供の父親のすぐ下の弟だからだ。その間、ノーマクエンはほぼ毎日、大便を漏らした。ノーマクエンの要求が「わかる」人がいなくなったからだ。ノーマクエンは、パンツの中に大便を溜めた状態で、1日外を出歩き、工事現場を見たり、港の水揚げを見たり、ともかく楽しく過ごし、夜、風呂に入れられる段になって(無論、一人では風呂に入れない)、「アア、また!」と、コドモの母親を嘆かせていた。普段から「犬臭い」(と、一本足は言う)ノーマクエンは、パンツに大便をためていても、周りはそうそう気づかないのだ。

現の虚 2014-8-9【顔面が包帯でグルグルの男】


近所に誰も住んでいない広い屋敷がある。建物自体はそれほどでもない。庭が広い。低い塀で囲まれた庭はちょっとした林になっていて、その林の奥に静まりかえった古い建物が見える。無人なので林のような庭は全く手入れされていない。薄暗く、近くを通ると山奥のような湿った土の匂いがする。

その誰も住んでいない屋敷の、林のような庭に人影が二つ見えた。1人は8歳くらいの男の子で、もう1人は長身にロングコートを着た、顔面が包帯でグルグル巻きの男だ。

ギラギラの真っ昼間だったが、独特の佇まいから、子供の方は生きた人間ではないのがすぐに分かった。いわゆるユウレイだ。ちなみに幽霊が夜とか暗闇に出るというのは、あれは物語上の演出に過ぎない。生きている人間が四六時中出没するように、幽霊だって一日のいつでも現れる。だから、真っ昼間の幽霊は珍しくもなんともない。俺にとって事件だったのは、顔面が包帯でグルグル巻きの男の方だった。グルグル男は明らかに子供の幽霊が見えていた。そして、フツウに話をしていた。つまり、いわゆる霊能者と呼ばれる連中がやるような、理解者ぶったり、上から目線だったり、逆に猫なで声だったりではない、コンビニのバイト同士が客がいないときにかわす無駄口のような感じのフツウ。

ナニモノダ?

俺は、慌てる必要などないのだが慌てた。つまり意味なく動揺した。

包帯巻きの男は子供の幽霊との会話を終えると、コートのポケットから何か取り出しその場にしゃがんだ。何をしているのかは分からない。

子供の幽霊の体が宙に浮いた。

世間のイメージと違ってふつう幽霊は宙に浮かない。生きてる人間と同じように地面に二本足で立っている。地面がなければ落ちる。飛び降り自殺を繰り返す幽霊も珍しくない。少なくとも俺は、それまでタダの一度も宙に浮いた幽霊を目にしたことはなかった。更に、宙に浮いた子供の幽霊の頭の上には、うっすらと光の輪が見えた。そんなシロモノはマンガのトムとジェリー以外では見たことがない。

頭に光る輪を載せた子供の幽霊は静かに天に昇っていく。俺はそれをバカみたいに見送った。子供の幽霊はやがて青空と同じ色なって見えなくなった。

やあ、久しぶり。と云っても覚えてないか。

顔面包帯巻きの男が林の奥から俺に云った。男は、包帯の隙間に煙草を差し込んで口に咥え、火をつけた。盛大に煙を吐き出す。

お、右手がないね

男が包帯の下でニヤリと笑ったのが分かった。

2019年3月15日金曜日

現の虚 2014-8-8【ピンクの着ぐるみ「バニーマン」】


飛び降り自殺をするのに低過ぎはあっても高過ぎないと思っていたが、どうやら違った。どうせ死ぬつもりでも、多くの人間は高過ぎる場所からは飛び降りたくないようだ。街を歩き回って気付いた。飛び降りが見られるのは、15階くらいまでが一番多い。それ以上の高さになると急に数が減る。全然いないとは云わないが、俺は見たことがない。

たとえば、ある雑貨の安売大手が入っている古いビルは9階建てだ。夜中から明け方にかけて、このビルの裏露地に立って見物していると、屋上から次々と人が落ちて来る。正確には人ではなく、投身自殺をした人間の霊魂とか幽霊とか残留思念とか、そういうものだ。

ともかく、この古い9階建てはちょっとした飛び降りの名所なのだ。

ところが、そのすぐ隣の20階建てのもっと古いオフィスビルの屋上からはいつまで待っても誰も落ちて来ない。隣の9階建てよりも古くから建ってる訳だから、飛び降りも同じくらいいてもよさそうなものだが、実際にはいない。屋上の出入り口の管理がしっかりしているということも考えられるが、俺はビルの高さそれ自体が理由だと思っている。つまり、この20階建てのオフィスビルは飛び降り自殺の高さの「上限」を超えていて、要するに高過ぎるのだ。

証明は出来ない。単なる観察からの推論だ。

さて、名所である9階建ての飛び降り者の内訳は、若い女が5人、若い男が2人、オッサンが4人、老婆が1人、制服の女子高生が2人、学生服に坊主頭の男子中学生が1人、そして、ピンクのウサギの着ぐるみが1人。

いつも最後に落ちて来るピンクのウサギの着ぐるみは、その前に落ちて来る自殺者とは決定的に違う。もちろん格好も決定的に違うが、それ以上に違うのが地面に激突したあとの行動だ。

他の自殺者は、地面に激突すると、頭が砕けたり、脚が潰れたり、背骨が折れたりして、そのまますーっと消えてしまう。だが、ピンクのウサギの着ぐるみは、ドスンと落ちて、地面を血の海にしたあと、ムックリと起き上がり、またビルに入って行く。そして、しばらくすると、また上から落ちて来て、ドスン。血の海を作り、その後、起き上がる。そうやって夜が明けるまでずっと、飛び降り続けているのだ。

俺はそのピンクのウサギの着ぐるみをバニーマンと名付けた。なぜバニーマンだけが一晩に何度も飛び降りるのか、俺には分からない。きっとバニーマン自身にも分からないはずだ。

血まみれのバニーマン。

7-5:連絡が取れていない人たち


昔のラリーカーのフォグランプのような五つ目のギニグが、振り返って、テレビを指差した。昨夜どこかでおきた火事のニュースで、アナウンサーは、警察はこの家に住む4人と連絡が取れていません、と言った。

「ホラ、おかしいだろう?」

確かにオカシナ話だ、とコドモは思った。夜に自分の家が火事になって、それで気がつかない人間はいないはずだ。もしもたまたま、4人揃ってその時刻に外食していたとしても、食事が終わって家に帰って来れば気づくはずだし、もっと運悪く家族旅行で遠くにいたとしても、親戚や近所の人や職場の誰かが、行き先なり居場所なりを知っていそうなものだ。なにより、テレビのニュースになっているのだ、とコドモは思った。自分の家族なら、ニュースで自分の家が火事で焼けたのを見たら、すぐに自分の方から、警察なり消防なりに連絡を取るだろう。それが、まだ連絡が取れないって、どういうことなのだ? よっぽどノンキなのか、警察の電話番号を知らないのか、イマドキ、電話も持っていないのか? それともテレビを見ていないか、見ない4人なのか?

そこまで考えて、コドモはふと気づいた。
もしかしたらテレビの見られないトコロにいるのか?

ギニグは頭のエグゾーストパイプから、煤混じりの空気をゆっくりと排気しながら、「まあ、テレビの見られない場所にいるんだろう」と答えた。

確かに、ものすごい山奥のオンセンとか、アマゾンのジャングルとか、ムジントーとかでは、テレビは見られないかもしれない。ガイコクということもある。ガイコクでは、このニュースは見られないだろう。なるほど。と納得しかけたコドモは、いや待て、と思い直した。今はネットの時代で、世界中どこにいても、どこのジョーホーも手に入る。確かにテレビを見る人は減ったけど、ジョーホーへのアクセスはむしろ増えた。無駄に増えた。となると、連絡の取れない4人というのは、ネット接続不可能なトコロにいるということなのか? しかし、そんなトコロが今この惑星上に存在するのだろうか? 

「今や、世界の屋根ヒマラヤや、宇宙に浮かぶ国際宇宙ステーションでさえ、ネット接続はできるからな」と、ギニグ。

そうなのだ。現に、無重力空間でくるくる回る宇宙飛行士のオジサンを、コドモはネット経由で見たことがある。では、連絡の取れない4人は、一体今、どこにいるのか?

ギニグは膝を抱えて「不漁を憂う全さんま」のニュースを見ている。

2019年3月13日水曜日

7-4:寝遅れ


4つ目のふつうのギニグに起こされる。まだ全然朝ではない。部屋の明かりは消え、テレビが光源。オトナたちが、黄泉の国の放送局が放送しているような、つまり、コドモのフツーの時間帯には全く目にすることのないような時代劇や報道番組を、音量をごく小さくして、布団の中から見ている。

コドモは布団の中で、ギニグも余計なことしてくれたな、と思った。このままでは「寝遅れ」る。今テレビに映っている番組もいずれ終わる。終わってしまえば、オトナたちはテレビを消して眠るだろう。オトナたちが眠ってしまえば、この暗い異世界に目を開けているのはコドモただ一人になる。

コドモは布団の中で密かに考える。目を開いていれば、ますます目が覚めてしまうだろう。急いで目を閉じる。ごく小さくしたテレビの音が、うるさく耳元で囁き続ける。コドモは考え直す。アカラサマに起きている方がむしろネムケを誘うかもしれない。そこで、目を開け、テレビ画面に見入る。テレビでは、セビロにメガネの知らないオトナが、ミミズ言葉を喋り続けている。コドモは一刻も早くネムケを捕まえるべく、ミミズ言葉を喋るセビロとメガネの知らないオトナを布団の中から凝視する。

そこで、ギニグの四つ目が瞬きをした。

テレビの中の、セビロとメガネの知らないオトナの顔が、テレビから飛び出して、コドモのいる方に近づいて来た。近づいて来るセビロとメガネの知らないオトナの顔はどんどん大きくなって、コドモの目と鼻の先、もう、ほとんどコドモの布団の中に潜り込まんばかりのところまで来ると、今度はみるみる下がって小さくなり、またテレビの画面の中に戻って行った。その間もずっと、ただ、外国語のようなミミズ言葉をしゃべっているだけで、コドモをオビヤカそうとするソブリは微塵も見せなかった。おそらく、セビロとメガネの知らないオトナ自身、今の現象には全く気づいていないのだ。テレビだし。

コドモはボーゼンとはなったが、恐ろしいというより面白くて、もう一度テレビ画面を凝視した。するとまたしても、セビロとメガネの知らないオトナの顔がどんどん大きくなって近づいてくる。コドモは、思いもよらず獲得したこの特殊能力で、テレビの顔を大きくしたり小さくしたりしてしばらく楽しみ、その間は寝遅れの恐怖を忘れた。

それから何回か、夜に同じことを試してみた。だが、どうガンバッテもテレビの顔はもう二度と、大きくも小さくもならなかった。

現の虚 2014-8-7【缶珈琲と煙草が買えないコンビニ客】


レジは必ずふたつ以上あるべきだ。もしそうでなかったら、絶対にそうすべきだ。あれは、客も助かるが、レジの人間がもの凄く助かる。レジがひとつしかない情況でレジ打ちをしたことがある人間なら誰でも実感を持ってそう云える。たとえ店員が一人しかいなくてもレジはふたつ以上あった方がいい。細かく説明はしない。やってみれば分かる。レジはふたつ以上あった方がいい。

そんなことを考えながら、俺は、夜明け前のコンビニ(レジはふたつある)で精算中だ。ギョウザとか冷凍ピザとかビールとか菓子パンとか氷とか、早朝からカゴいっぱいの買い物。品物のバーコードを若い男の店員が読み取っている。隣のレジは空だ。店員はもう一人いるが、パンの棚の前で品出しをしている。

隣の空のレジの前には、実はさっきから客が立っている。背の高い、グレーのスーツの若い男で、缶珈琲を一本レジカウンターに置いて、店員がやって来るのを辛抱強く待っている。俺はソイツに気付いているが、夜勤明けの店員ふたりは気付いていない。気付かないで当然だ。そのグレーのスーツの客は生きた人間ではない。

どうなってんの!

突然辛抱の限界が来たのか、グレーのスーツの客が喚く。喚いても、その声は俺以外には聞こえない。店員のひとりは俺が買った品物を袋に入れている。もうひとりは黙々とパンを並べている。

おい、客がいるんだぞ!

確かに客はいる。俺だ。コンビニの店員達にとって、今この店にいる客は俺だけだ。缶珈琲が欲しくて店員のいないレジ前で喚いてる客など、彼らの世界には存在しない。

あと、煙草。煙草くれよ、その、ソレ!

グレーのスーツの男はレジ奥の棚に並んだ煙草を指さす。どれなのかは分からない。その、ソレではなく番号を云わないと。

男は天を仰いで、誰にともなく訴える。

僕はさあ、徹夜明けに一人寂しく缶珈琲と煙草で一息つきたいだけなのよ……なんでこの店には店員が誰もいないのさ……もしかして、これってナンカの陰謀か……?

そうじゃない。オマエが死んでるからだ。けど、俺にはどうすることも出来ないよ。

俺は支払いを済ませ、レジ袋を提げて店を出る。すると、俺が押し開けた扉を通ってグレーのスーツの男も店を出た。手には缶珈琲も煙草も持っていない。諦めたようだ。

だがコイツは、明日もあさってもそのあとも今と同じ時刻、この店に缶珈琲と煙草を買いに現れる。そしてレジ前で虚しく喚き散し、きっとまた手ぶらで帰るのだ。

2019年3月8日金曜日

7-3:低気圧と高気圧


三つ目のギニグは、大きな口から煙を吐き出し、黒い部屋に風景を出した。

オトナは、気象予報士に教えてもらわなくても、天気図さえ見れば、天気は分かるというので、コドモはその理由を訊いた。オトナはテレビ画面の天気図の或る部分を指して、ここがコーキアツだと言った。それから別の部分を指して、ここにテーキアツがあると言った。コーキアツがここにあって、テーキアツがここにあるから、今は雨だが、明日には晴れると言った。

そして、今日、天気はその予言の通りになった。

しかし問題は今日の天気図である。コーキアツもテーキアツも、天気図の上では昨日と全く同じ場所にあった。コドモは不審に思ったので、その事実をオトナに指摘した。オトナは笑って、そんなことがあるものか。今日の天気図にはコーキアツしかない。テーキアツは西に移動している、と答えた。しかし、何と言われようと、コドモの目には、コーキアツもテーキアツも、昨日とまったく同じカタチで、全く同じ場所にある。

カラカワれているのか?

コドモは思い余って、これがコーキアツだろう、と昨日と同じ場所にあるコーキアツを、テレビ画面越しに指で押した。オトナはそうだと答えた。ソウカやはりそうだ、とコドモは安心した。そこで、今度は、昨日の天気図と全く同じ位置にあるテーキアツを指で押して、これがテーキアツだろうと確認した。すると、オトナは意外にも、それもコーキアツだと言い放った。昨日と全く同じ場所にあり、全く同じ形をしたものを、昨日はテーキアツと言い、今日はコーキアツと言うオトナの対応に、コドモは当惑した。

むしろ愕然とした。

大きな謎がコドモの中に生まれた。なにか、自分には分からないものが、オトナには見えているらしい。オトナは確かに昨日、天気図の左側にあって、帽子かぶって右を向いたペルー人のようなものを指して、これがコーキアツだと言った。それから、天気図の真ん中あたりで左を下にして泳いでいる細長い魚のようなものを指して、これがテーキアツだと言ったのである。その二つは、今日の天気図でも、昨日のそれと全く同じ形をして、まったく同じ場所にある。天気図は同じだが、天気は変わるというだけならマダイイ。同じ曇りでも雨は降ることもあれば、降らないこともあるからだ。しかし、オトナは、昨日テーキアツだと言ったものを今日はコーキアツだという。その謎を何としても解かねばならない。とコドモは思った。

現の虚 2014-8-6【職安で幽霊がプリントアウトした求職案内を手に入れる】


職安に並んだ求人端末機。調整中の貼り紙のある一番奥のだけは使用禁止だ。俺は使用禁止端末のすぐ隣の端末を選んだ。タッチパネルを操作して適当に条件を入れていると(本気じゃないから)、隣の使用禁止端末の前に誰かが立った。最初は修理技師かと思ったが違った。ノライヌみたいなニオイがしたし、小さく奇声を発し続けていたからだ。たぶん、役所の依頼で機械の修理に来た技師はノライヌのようなニオイをさせたり、小声で奇声を発したりはしないはずだ。

ところが、修理技師でもない者が使用禁止の壊れた端末の前にいるのに、職安の人間は誰も何も云って来ない。ほったらかしだ。ということは、つまり、隣のノライヌくさいヤツはいつものアレなのだ。

幽霊とか死者の魂とか呼び方はどうでもいいが、そういう存在は町中にゴロゴロいて、珍しくもなんともない。ゴクタマに見かけるとか、そんなレベルじゃ全然ない。インチキ霊能者はやたらモッタイつけるけどあんなのは全部嘘で、実際はカラスやスズメよりも圧倒的に多く目にする。

俺はそのノライヌくさいヤツのほうに顔を向けた。生きてる人間にそんなことはしない。生きている人間をそんなふうに見たら、不気味がられたり殴られたりする。だが連中は違う。そもそも他人の視線を気にするような心があるのかどうかさえアヤシい。

ノライヌくさいソイツは、髪の毛はベタベタで、元の色が分からないコートを重ね着し、それだけは妙に新しい有名スポーツブランドのナイロン製鞄を背負っていた。熱心にタッチパネルを操作しているけど、ナニカを調べていると云うより、タッチパネルの操作自体を楽しんでいるふうだ。

覗くと、端末の画面は真っ暗なままだ。だが、嬉々として画面に見入るソイツの顔には、端末の画面が発しているらしい青白い光が反射していて、ソイツが小さな奇声を発して画面を押すたびに、その反射光が変化する。

そうこうしているうちに、ソイツが操作する端末の上に乗ったプリンターが動きだした。プリントアウトされる紙は本物に見えた。俺はその紙に手を伸ばした。

誤動作ですから、そのままにしておいて下さい。

職安の人間がカウンターの向うから俺に声を掛ける。いつも困ってましてね、と余計な言い訳も付け足す。

俺は、ああ、ええとか適当な返事をしながら、そのままにしておいてくれという職安の人間の言葉に逆らって、幽霊がプリントアウトした紙をこっそり畳んでポケットに入れた。

2019年3月6日水曜日

現の虚 2014-8-5【ハンチング帽のオッサン】


俺が今回示した異常な回復力が生まれつきのものではないことは俺が一番よく知っている。中学の時、自転車の三人乗りで、下りカーブを曲がりきれずにガードレールに左ひざをぶつけたことがある。衝撃で俺の左ひざはばっくり裂けて病院で9針も縫ったわけだが、その傷が治るまでには何ヶ月もかかった。今回の右手首は裂けたどころか、完全に切断されたのに、傷口は一ヶ月足らずで完治している。治療技術の進歩は考慮すべきだろうが、それだけでこの回復の速さは説明できない。もちろん「歳を食って体質が変化した」というようなノンキな理由ではないだろう。何か特別な理由があるはずだ。

だが、今はそんなことはとりえあずどうでもいい。

傷が完治しても、右手が生えたわけじゃない。勤めていた印刷工場は片手では仕事にならない。というわけで、俺は工場を辞めた。で、しばらくは失業保険で食うつもりでいたら、失業保険を受け取るには、嘘でも職安に通わなくてはならない仕組みになっている、と云われた。なんだ、メンドウだな、と思ったが、仕組みは仕組みだ。俺は歩いて15分の職安に通いはじめた。カネをくれると云う連中に「働く意志」を示すためだ。

本当に働く意志があるかどうかは関係ないよ、愛情と同じでね。

と、ハンチング帽を被ってズボンのポケットに両手を突っ込んだ、いかにも無職風のニヤニヤ笑いのオッサンが、俺と並んで横断歩道を渡りながら、浅黒い顔で云う。更に、

つまり、他人が見て分かるのは行動だけだからさ。とは云っても、こうやって職安に通うことが、実質、稼ぎを得るために働いているのと同じだと云えなくもない。そういう意味では我々にも働く意志はある、ということになるのかもしれんがね。

そこまで云ってオッサンが俺の方を向いた瞬間、ドンと音がして、オッサンの体はハンチング帽もろとも(顔はニヤニヤ笑いのまま)宙に舞う。横断歩道で車に撥ねられたオッサンは、交差点の真ん中に落ち、そのままぴくりとも動かない。

毎回だ。職安まであと少しのこの横断歩道を歩く度に、ニヤニヤ笑いのハンチング帽のオッサンが現れては俺に同じことを話しかけ、横断歩道のこの同じ場所で、見えない車に撥ねられる。

俺は横断歩道を渡り切り、振り返って、交差点の真ん中に横たわるオッサンの上を無数の車が走り抜けて行くのを見る。オッサンの姿はもう消えかかっている。横断歩道に落ちたハンチング帽はとっくの昔に消えている。

2019年3月4日月曜日

7-2:雷


夜の勉強部屋で、黒い学生服のギニグが、縦に並んだ青色発光ダイオードの二つ目をチカチカさせながら言った。
「雷が鳴っている。あれは大岩が山を転がり落ちている音なんだよ」
一層凄まじい音。
「どこか近くに落ちたナ」とギニグ。「水源地の林道だろう。今見に行けば、丸い大岩があるはずだ」
コドモは、その大岩が雷なのかと訊いた。ギニグは頷いた。コドモが、明日の放課後行ってみると言うと首を振った。
「その頃にはもう片付けらてる」
なぜ?
「邪魔だから」
ギニグは雷が鳴るたびに「今のは大きかった」とか「今のはそれほどでもなかった」と言った。大きい雷は家も壊すと言う。コドモの頭に、鋼色の丸い大岩が二階建ての瓦屋根を押し潰している画が浮かぶ。答えは分かっていたが、コドモは、人間や動物に落ちたら死ぬかと訊いてみた。「人間や動物なら普通の雷でも死ぬ」という答えで、予想通り。山から勢いよく転がり落ちた岩に当たれば、ヒトや動物はヒトタマリモない。

夜が光って、雷がまた鳴った。「だいぶ近づいた」とギニグ。光ってから音がするまでの時間で、雷が落ちた場所の近さが分かると言う。コドモはそれを聞いて、居ても立ってもいられなくなった。テレビを見ていたオトナたちのところに行き、今からでも、家の裏山から離れたところに逃げようと提案した。オトナたちはナゼと訊いた。コドモは、雷が近づいているからだと答えた。オトナたちは、裏山から離れてもダメだ、何と言っても村は山に囲まれている、結局家の中が一番安全だ、と言った。それでコドモが、大きな雷は家くらい簡単に壊すのだから、家の中は少しも安全ではないと反論すると、オトナの一人が、そんな雷が落ちたら村のどこにいても死ぬ、と言って笑い、テレビに戻った。

コドモは呆然と自分の部屋に帰り、まだそこにいたギニグに真偽を確かめた。ギニグは、合成樹脂製の頬を掻きながら「ソウダナ」と言った。「そのくらいの雷になると、村全部が下敷きになってしまうから、確かに誰も助からないかもね」

山の上にはあと何個の雷が残っているのだろう。もう随分転がり落ちたはずだ。途中で止まっているものもあるだろうが残りは少ないはずだ。途中で止まっているものがまた転がり始めても、頂上から直に落ちるよりも勢いは弱いはずだから、被害も少ないだろう、とコドモ。

ギニグが変な電子音で笑った。
「だめだよ、雷は空から次々落ちてきて、山頂に補充されるからね」

現の虚 2014-8-4【電動ノコギリと白い腕】


オモシロイことに、いや、オモシロイというかフシギなことに、退院して帰宅するとアパートの俺の部屋にはちゃんと電動ノコギリがあった。

右手が切り落とされて出血多量で瀕死の状態だった俺を病院に担ぎ込んだ謎のアイパッチの男が、口からデマカセで云っただけだと思われていた電動ノコギリの話は、一から十まで作り話というワケではなかったのかもしれない。

電動ノコギリと云っても、ホッケーマスクの殺人鬼が振り回すようなチェーンソーではない。テーブルの天板から回転する円形の歯が飛び出している据え置き型の木工作業用だ。ノコギリを移動させるのではなく、木材を移動させて切る。それが六畳のアパートの窓際に、まるで足踏みミシンでも置いてあるかのように置かれていた。

俺が置いたわけじゃない。俺は電動ノコギリを買ってない。貰ってもないし盗んでもない。俺の仕事に電動ノコギリはまったく必要ないし、俺にはそういう趣味もない。つまり、俺にとって電動ノコギリなど無用の長物。しかも、この電動ノコギリは外国製で電源プラグが部屋のコンセントの形状と合ってない。だから、そもそもが使えない。

要するに、これはただの家具だ。

そう結論したところで、部屋の押し入れの襖がすっと開いて、中から白い腕がぬっと出た。押し入れから出てきた白い腕の掌には電源プラグの変換器が乗っていた。これを使えば形状の合わないコンセントからも電源を取れる、というワケらしい。

俺はプラグの先に変換器を取り付け、電動ノコギリの下の奥まった場所にあるコンセントに差し込んだ。途端に電動ノコギリがスゴイ音で作動し、アパート全体が揺れた。俺はあわててプラグを抜いた。電力を絶たれた電動ノコギリは、それでもしばらくは歯を回転させてウーウー凄んでいた。

スイッチが入ったままだ。前回の使用時にナニカがあって(ナニカって?)、プラグを抜いて強制的に止めたのだ。ヤレヤレ驚いたね、と思ったその時、目の前の畳にベチャリと何かが落ちた。

どうやらそれは俺の右手らしい。
でも、だからどうしろと?

その瞬間、例の白い腕が伸びて畳の上の俺の右手を掴み、一瞬で押し入れの奥に持ち去った。襖がぴしゃりと閉まって、そのあとは音もない。

いろいろあり過ぎてアッケにとられる。

ともかく。一息ついて押し入れを開けると、中には、数年前に通販で買ってそれっきりの手回し発電機がひとつあるだけだった。白い腕も俺の右手も、影も形もない。