「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年3月27日水曜日
8-2:物腰の柔らかい男
天井の低い円形の部屋。照明はない。代わりに床の大きな丸い水たまりが光っている。ソノヒトは潮の匂いを感じた。
「気が付きましたね。深海プールでは海水を使っています。ここは絶海の孤島で真水は貴重。一方で海水は有り余るほどですから」
物腰の柔らかい男は白いスーツのポケットから細い懐中電灯を取り出してソノヒトの足元を照らした。ソノヒトはテーブルのある場所に連れて行かれた。ソノヒトが席に着くと、物腰の柔らかい男は茶碗にお茶を注ぎ「極上の密輸品です」と耳打ちしてから、自分も向かいの席に腰を下ろした。それから自分が先に「極上の密輸品」を味わい、ほーっとため息をもらすと、「さ、あなたも」とソノヒトにお茶を勧めた。ソノヒトにとってそのお茶は一瞬も口をつけられないほど熱かった。
「敵を絶滅させる気がないなら戦争などしない方がよろしいですな」
物腰の柔らかい男はそう切り出した。
「一人残らず皆殺しにしないのなら戦争など時間の無駄です。昔は人間も、敵を根絶やしにする勢いで戦争をしたものですが、近頃は八百長ばかりで、却って事態をこじらせている」
物腰の柔らかい男は微笑んだがソノヒトは笑えなかった。お茶を飲もうとしてまた唇を焼いた。
「こじれるわけが分かりますか?」
ソノヒトは唇を舐めながら首を振った。
「人間に復讐心というものがあるからですよ。簡単なことです。それでは、なぜ人間には復讐心があるのか。人間に関係性の概念があるからです。因果関係の概念と云ってもいいでしょう。つまり、或る物事と別の物事が時間的空間的に隔たっていたとしても、それを関連づけて考えることができるし、その関連づけを長期にわたって大勢が共有することもできる。つまりは優れた記憶力と高度に複雑な言葉が祟っているわけです」
物腰の柔らかい男の両方の鼻の穴から湯気が昇る。
「ともかく戦争をするなら皆殺ししかないのですが、ここに一つのジレンマが生じます。なんだと思います?」
ソノヒトはさあと首を傾げる。
「皆殺しにした方もやっぱり人間だということです。人間が人間を相手に戦争をしている限り、人間を皆殺しにはできないのですよ!」
物腰の柔らかい男はそう云って吹き出した。ソノヒトはソノヒトからそっと抜け出し、席を離れた。プールに飛び込む前に振り返ると、物腰の柔らかい男は、どうにか熱いお茶を飲もうとしているソノヒトに向かって、何かどうでもいいことを熱心に喋り続けていた。