「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年3月25日月曜日
8-1:深海プールへようこそ
ソノヒトはそのまま水の底を歩いて砂浜に上陸した。防波堤の上で網の手入れをしている漁師の老人がいた。ここはどこかと尋ねると、相手は丁寧に何か答えてくれた。しかし訛りが強すぎて、ソノヒトには一言も聞き取れなかった。親切な老人は砂浜に口を開けた排水溝を指さし、それから山の上にある塔を指さすと、身振り手振りで、そのふたつが繋がっていることを教えてくれた。それから、塔とソノヒトを交互に何度も指さした。ソノヒトは、老人がソノヒトを塔へ行かせたがっていることに気づいた。老人は笑ってうなづいた。
砂浜に口を開けた排水溝は、道路脇の、コンクリートの蓋がついた側溝につながっていて、道路は山の上の塔まで続いていた。道路を行くのがとても危険なのは、ここが(おそらく)初めてのソノヒトにもすぐに分かった。音と光とニオイがその危険を教えてくれた。道路に溢れかえる様々な危険が側溝の蓋を絶えず脅かすのを感じながら、ソノヒトは山の上の塔を目指して側溝の中を歩いた。
ようやく着いて外に出てみると、側溝だと思って歩いてきたものは、実は今では使われていない古い防空壕だった。崩落を防ぐために、入り口からほんの少しを残して、あとは全部石で塞がれていた。ソノヒトは入り口だけの防空壕に一瞬だけ違和感を覚えた。しかし、使われていない防空壕が石で塞がれていても何の不都合もないと思い直し、すぐにその違和感を忘れた。
ソノヒトは目の前の塔を見上げた。塔はどこまでも高いように見えたが実際はさほどでもなかった。というのは、中に入ってエレベータを見ると、階数を示すボタンが偶数しかなかったからだ。もし奇数と偶数の両方のボタンがあるなら、この塔は無限に高いだろう。しかし偶数しかないのなら、無限の半分しか高くない。なぜなら数は奇数と偶数の二つの組み合わせだからだ。ソノヒトはそこまで考えてから、また心に違和感を覚えた。そして今度は、自分の思考にナンラカの不具合が起きていることを確信した。しかしその確信も次の瞬間にはソノヒトの意識から綺麗に消えていた。
ソノヒトを乗せたエレベータは既に動いていて、最上階まで昇るとそこで止まった。しかしそこは見せかけの最上階、すなわち無限の高さの半分しかない偶数の最上階である。ソノヒトは奇数の最上階もあるのだろうと推理した。エレベータの扉が開いた。
「深海プールへようこそ」
ひどく物腰の柔らかい男がソノヒトを出迎えた。