2021年4月30日金曜日

男はなぜ一人になりたがるのか?

2021年4月30日 金曜日


夜明け前から本格的な雨。



§º『酒のつまみになる話』で、[男はなぜ一人になりたがるのか? そして、女はなぜ、男が一人になりがる理由が「理解」できないのか?]的な話題があって、考えた。


登場人物が誰も映っていないテレビ画面を観た時、[一人になりたい男を理解できない女](以下、単に「女」と記す)は「その場には誰もいない」と思うが、[一人になりたい男](以下、単に「男」と記す)は「そこにはカメラ(の視線を持つ一人称の誰か)が居る」と思う。その違いだと思う。


小難しい話に持っていくと、人間が「自分」という存在を認識するには「他者」の存在が不可欠。いや実は、人間に限らず、「自分」というものを少なからず認識している生命現象依存型知性現象は、まるで「echolocation(反響定位))」でもやるように、[他者の存在]から[自分自身という存在]を認識する。これをひっくり返して言うと、生命現象依存型知性現象は、他者が存在しない状況では、[自分という存在]が消えてしまうか、そうでなくても希薄になってしまう。


しかし、[希薄になる度合い]は[全ての生命現象依存型知性現象で一様]というわけではない。「女」は、その[希薄になる度合い]が強い。逆に、「男」はその度合いが弱いし、場合によったら、全く希薄にならない。なぜなら、「男」は、周りに誰もいなくても、「他者」がいなくならないからだ。「男」は、世界を体験している自分というものを、すでに一人の他者として俯瞰してる。だから、「男」は、実は、決して一人にはなれない。「男の隠れ家」で一人むっつりと座っていても、そこにいるのは、実は「二人」なのだ。そのような状況での「男」は、比喩としてではなく、本当に[自分自身との「対話」]を愉しんでいる。そして、これは、知性現象にとっての究極の愉しみの一つである。だから「第三者」の邪魔が入るのを激しく不快に思う。


「男」とは「健全な分裂症」である。それはおそらく脳の構造的な理由からだろう。だから、「男」は、肉体的に一人きりで居る時も、精神的には二人で居る場合が多い。そこに恋人なり妻なりが加わると、実質「3人連れ」になるのだ。「夫婦水入らず」という言葉があるが、「女」はともかく、「男」にとっては、真に「水入らず」の状況とは「一人でいる」ときである。(ほんとか?)


と、それはさておき。


『酒のつまみになる話』で、その話題を繰り出した当の女タレントが「一人になりたいと言っても、仕事の時には一人になれるんだから、家に帰ったらずっと一緒にいてくれたらいいのに」的なことを言っていた。この女タレントと、一人になりたい派の「男性陣」とでは、「ひとり」の定義がそもそも違っていることがわかる。一人になりたい派の「男性陣」の「一人」は文字通りに「周りに誰もいない一人」なのだが、件の女タレントの「一人」は「妻・嫁・子供とは別の場所にいる」という意味での「一人」なのだ(でなければ、仕事に行けば一人になれる、などとは言わないはず)。だから、両者の「平行線」は、上で長々と書いたこと以前の[認識の食い違い]が原因。



§º老化のせいで視力が衰えても、さほど身につまされることがない(危機感を覚えない)のは、視力の「正常」な若い時でも、薄暗い場所でものが見えにくかった体験を繰り返しているからだ。老化のせいで物が見えにくくなっているのを、暗いせいで物が見えにくいと「誤認識」して「安心」しているのだ。だから、たとえば、[人や物の名前が全然思い出せなくなった]などという、若い頃には未経験で、しかも環境のせいにもできない「衰え」には、素直に「危機感」を覚えるのだ。



§º知性現象として「人間」を極めてもしょうがない。それは、喩えて言うなら、町内の野球大会で一勝することを究極の目標に、子供に野球の英才教育を施すようなものだ。


2021年4月29日木曜日

『桜の塔』第3話を面白く観た

2021年4月29日 木曜日


昼間は晴れ。夜から雨。祝日。海の日?



昼に、むらかみドーナツ(プレーン3個)と珈琲。



『桜の塔』第3話を面白く観た。今回わかったことは、広末涼子演じるキャラは、そもそも「デタラメ」なキャラだということ。あまり知能指数の高くない、勢いで押していくタイプ。おそらく、そもそも、警察官になったのも、玉木宏演じる上条に「ついて行きたかった」からだろうと思わせる節がある。好きな男子と同じ大学を受験する女子みたいなの。相変わらず椎名桔平が好い。そして、クラブのママ(高岡早紀)はやっぱり元警官だった。『白い巨塔』のクラブのママ(大地喜和子/黒木瞳)が元医者だったのと同じ。製作者の「警察で『白い巨塔』やってますよ!」アピールが楽しい。4話以降も観るだろう。


2021年4月28日水曜日

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』を視聴

2021年4月28日 水曜日


一日中晴れ。



映画/『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』をPrime Videoで視聴。3周目。傑作。調べたら、ブルーレイがたったの1000円。買ってもいいかな、と思った。ところで、50歳のブルースが、引退していたバットマンを悩んだ末に再開する『ダークナイト・リターンズ』というアメコミがあるけど、本作が本当意味で映画版『ダークナイト・リターンズ』だよね。あの間抜けな『バットマンvs.スーパーマン』じゃなく。


この映画の編集の仕方は「TicTok」だと気づいた。


リーガン(マイケル・キートン)が初日の最後の場面に拳銃を持って向かうとき、通路で声をかけるのは、『Twin Peaks The retrun』の、オードリーの「夫」のチャーリー(の俳優)。この前、死んだけど。



2021年4月27日火曜日

『Twin Peaks』第17章視聴

2021年4月27日 火曜日


一日中晴れ。暖かい。



『Twin Peaks』第17章視聴。クーパーの停職。ブリッグス少佐の失踪。



§º高齢の体に癌細胞ができやすくなることと、高齢のせいで片付けがやりにくくなって、住んでいる家が徐々にゴミ屋敷化していくこととは、「同じこと」のような気がする。


2021年4月26日月曜日

『晩春』小津安二郎監督・原節子、笠智衆主演/視聴。

2021年4月26日 月曜日


一日晴れ。



『晩春』小津安二郎監督・原節子、笠智衆主演/視聴。【Prime Video】父親のことが好きでしょうがない27歳の娘が嫁に行くまでの話。父親が再婚する話は、やっぱり、娘を[結婚する気にさせる]ための、父親の「嘘(一世一代の大芝居)」だった。ちゃんと、「嘘」をつくときの笠智衆の口元が震えてる。ラストシーンは、笠智衆が小津安二郎の演出(慟哭する)に「逆らって」やったもの。という話を、山崎努の本で読んで知っていたので、妙に、見入ってしまった。でもやっぱり、原節子の顔が嫌い。むしろ、「あやちゃん」役の女優の方が好い。調べたら、月丘夢路という人だった。無論既に故人。



『ガンダム』第37話「テキサスの攻防」視聴。やはり、テレビ版の演出の方が好い、と改めて思った。改めてみると、マ・クベは、そこまで姑息でもズルくもない。確実に勝てる作戦を立てているだけ。だって、これ、戦争だから。果たし合いじゃないから。「間違ってる(兵士とし許せない)」のは、ガンダム(アムロ)に対して、「正々堂々と勝ちたい」くらいに思ってるシャアの方。



ソコソコな出来だった昨夜のカレーの残りに、粉末の鰹出汁などを足してカレー饂飩にして、今日の晩に食った。格段に旨くなった。



2021年4月25日日曜日

『コントが始まる』第2回を面白く見た

2021年4月25日 日曜日


晴れ時々雨。晴れてる間に家賃振り込み。



岡田斗司夫ゼミ「ガンダム解説/大西洋、血に染めて」と「逆襲のシャア」の冒頭17分のSF解説。まだ、ミハルが死んだところまで行ってないのに、岡田斗司夫がギリギリになっていた。



『コントが始まる』第2回を面白く見た。どうやら、[人間関係とか、人間同士の付き合いとか、「思い出」の出来事とかには、その場に居合わせた人数分の「意味」や「側面」や「真実」があるのだ]というドラマらしい。つまり、[この世には「裏で絵を描いている人間」なんていないし、もしそんなのがいても、絶対にその通りになんかなるかよ、なってたまるか]というテツガク。好感。






2021年4月24日土曜日

土曜ドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』の第1話を面白く見た

2021年4月24日 土曜日


一日中晴れ。昼に猫散歩。



『∀ガンダム』第36話視聴。酒樽に入って、宇宙から地球に帰ろうとするミリシャ兵の無知。「ガス抜き」を実行するハリーのドライさに共感。



土曜ドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』の第1話を面白く見た。今時の[登場人物の誰かが、初めからおしまいまで裏で絵を描いている]というアリガチなお話になっていないところが好感。世界は、たとえ人間の社会という狭い領域でも、特定の誰かの思惑通りになんかならないのがホントウ。「裏で全てを操っている人間」なんてのは、人間という存在の寂しさをごまかすための[悲しい虚構/無い物ねだり]。だから、陰謀論が好きな人たちも、正体は全員さびしんぼう。生き物としてしか存在できない人間の[虚勢の裏返し]。それにしても「理事会のメンバー」の顔ぶれ。揃えたねえ。



昼に、久しぶりに、LALEのラムハンバーグ弁当を食った。旨い。


2021年4月23日金曜日

『桜の塔』の第2話を観た。もう観なくていいかな、と思った

2021年4月23日 金曜日


一日中晴れ。



§º一人の人間の飯の種になっているその人の才能は、馬子にとっての自分の馬と同じ。喩えとしてではなく、そのままの意味で同じ。だから、才能で食っている人間と、馬で食っている人間は、才能に「食わせてもらっている」人間であり、馬に「食わせてもらっている」人間。本当に「価値」があるのは、才能であり馬である。人間は彼らの「ヒモ」に過ぎない。しかし、それでいいのだし、それが人間の生(せい)の理想なのだ。



警察組織の『白い巨塔』をやっている『桜の塔』の第2話を観た。もう観なくていいかな、と思った。というのは、広末涼子が演じる刑事の人物造形がデタラメだから。玉木宏演じる幼馴染のキャラクター「上条(かみじょう)」)の「暴走」を止めようとして、現役刑事が無断で拳銃を持ち帰り、いつ父親が出てくるかもわからない自宅に呼びつけて、会話の隠し録りをしながら(バレるけど)、挙げ句の果てに拳銃を突きつけて「改心」を迫る。そんな人間が刑事をやっているのかと思ったらゾッとした。しかし、ドラマの中では、もっとも常識的な刑事という立ち位置を与えられている。だからデタラメなのだ。あらゆる手段を使って警察のトップに昇り詰めようとする玉木宏演じる上条を筆頭に、他のキャラクターは、権力争いに明け暮れる「ネジレタ」連中ばかり。広末涼子演じる女刑事は、その「ネジレタ」連中の正反対側にいる「マッスグ」な人間のはず。なのに、「第2話」で上条に対して行ったことを見ていると、他の誰よりも一番何をやらかすかわからない(行動が読めない)「アブナイ」人間。


もしかしたら、本当に、そうなのかもしれない。すなわち、広末涼子演じる女刑事こそが、上条の父親を自殺に追いやった(らしい)[警察組織の「巨悪」]の側の人間であることが、最終回あたりで「露見」するのかもしれない。ま、知らんけど。


そもそも、相手に拳銃を突きつけて「昔のあなたに戻って」的なことを言うのって、別れ話を持ち出された女(男)が相手に向かって「別れるぐらいならここで死んでやる!」と叫ぶのと思考形式が同じだろう。だから、おもちゃを買ってもらえない子供が、その場に倒れて手足をバタバタやって泣き叫ぶアレと同じ。


もう一つ。「悪」の道を進む上条が、第二話で早くも、広末涼子演じるキャラに対してexcuseを表明してしまって、オヤオヤとなった。まあ、今時のテレビだね。作り手の腰が引けてる。


椎名桔平に免じて、あと一回だけ観てみるかな。



§ºNHKの場合、 NHK一つを信頼すれば済む。一方、民放テレビの場合は、スポンサーとテレビ局の二つを信頼しなければならない。しかも民放テレビのスポンサーは番組ごとにコロコロ変わる。[信頼できる・できない]の基準でNHKを退け、民放テレビだけを見ている連中は、やっぱり、知能が低いのだろう。


そうではなく、頼んでもないのに勝手にカネを請求するのが怪しからんと言ってNHKを毛嫌いする連中もいる。それはまるで、子供のいない連中が、母子家庭のために投入される分の税金は払わないと言ったり、自動車を運転しない人間が、高速道路の建設費や維持費に使われる分の税金は払わないとか言ったりするようなもの。そういう連中は、NHKを興行団体かなにかだと勘違いしている。NHKは[政治権力・警察権力・社会圧力・伝統圧力などのいわゆる「共同幻想」]に対する監視機関なのだ(十全に機能しているかどうかは別にして)。レンタルビデオ屋の進化形に過ぎないAmazon Prime VideoやNetflixとは根本から違う。でも、「カネを請求するのが怪しからん」系の連中は、NHKは[申し込んでもないのに勝手に請求書が送られてくるAmazon Prime Video]のようなものだと思っている。



有吉弘行・夏目三久結婚記念の一夜限りの「怒り新党」を面白く観た。マツコがガンバッタ。


2021年4月22日木曜日

「おっとっと」の名前が、「魚」の幼児語「とと」からきていることに、今頃気づいた

2021年4月22日 木曜日


一日中晴れ。



§º人間の[肉体と知性]は、オルゴールの[装置と音楽]に喩えることができる。装置としてのオルゴールが壊れてしまって、美しい音楽が流れなくなったとき、その壊れたオルゴールの中のどこかに「かつての美しい音楽」が隠されていたり閉じ込められていたりするわけではない。オルゴールが壊れた時点で、美しい音楽も失われている。同じことが人間の知性にも言える。老化や薬物や怪我や病気で脳の機能が損なわれてしまったときに失われてしまった知性や人格は、その「壊れた脳」のどこかに閉じ込められているのでも隠されているのでもない。端的に、もはや、存在しないのだ。「壊れた脳」が元どおりに「修復」されれば、失われてしまった知性や人格を「取り戻す」ことはできるだろうが、それは、「脳が壊れている間」は[どこかに行っていたもの/どこかの閉じ込められていたもの]が、戻ってきたのではない。オルゴールが元どおりに修理されたから音楽が流れるように、人体(脳)が元どおりに回復したから知性が現れるのだ。だから、知性は、あくまでも物理現象ということ。



宮崎駿のアニメが、どうしても好きになりきれないのは、主人公の言うことがバカみたで白けるから。主人公以外が言うことは、それほどでもない。だから、もしかしたら、主人公がセリフを一切言わなかったら、好きになりきれるかもしれない、と、今、思った。



スナック菓子の「おっとっと」の名前が、「魚」の幼児語「とと」からきていることに、今頃気づいた(いや、前にも気づいていたけどすっかり忘れていて、それをまた思い出しただけかもしれないけど)。つまり、「お魚=おとと」→「おっとっと」。



ゴータマさんは、生まれてから一度も、いわゆる「食うための労働」というものをしたことがない、ということに今気づいた。若い頃は王子様だから無論「働いていない」し、出家してからも「乞食」で食べていたはずだからやっぱり「働いていない」。


2021年4月21日水曜日

科学は「目玉」だ

2021年4月21日 水曜日


一日中晴れ。しかし朝と夜は肌寒い。



§º「光の速さを超えるものは存在しない」という前提は、この宇宙の内部に存在する物質についてだけ言えること。だから、宇宙それ自体の広がる速さは光の速さという制限を受けない。実際、宇宙が光の速さを超えるスピードで広がっているのは、論理的に導かれること。「宇宙の遠くを見ると、宇宙の過去の姿が見える」というのも、光の速度よりも宇宙の広がる速度の方が「速い」からこそ起きること。もしも、すべてが光の速度を超えることがないなら、ビッグバンから始まったとされる宇宙の膨張速度も光の速度でなければならず、そうなると「遠くの宇宙を見ると昔の宇宙の姿が見える」ということも起きない。というのは、始まりの光(光景)は、宇宙の膨張に「くっついて」くるからだ。



§º科学は「目玉」だ。科学を手放さないのは、自分の目玉を手放さないのと同じこと。科学を否定する連中が「目に見えることが全てではない」などと無闇に「目玉の無能ぶり」を主張するのは、おそらく、偶然ではないだろう。しかし、そんな彼らも、自らすすんで、自分の健康な目玉や、家族の健康な目玉を、えぐり出して捨てることはしない。


「聞こえること」は大気惑星ローカルな能力だが、「見えること」は宇宙標準の能力。電磁波はこの宇宙を構成する最も基本的な「成分」。それを感知できるのが「目玉」。



札弁の「カツカレー」大盛り。久しぶり。あと、ザンギ(S)。


2021年4月20日火曜日

『一度死んでみた』堤真一・広瀬すず主演(2020年)を観た。

2021年4月20日 火曜日


一日中晴れ。



『一度死んでみた』堤真一・広瀬すず主演(2020年)を【Prime Video】で観た。そもそも主人公たちが、「社長は二日間仮死状態になる薬を飲んだだけなのだ」と公表すれば、この映画で描かれているようなそれ以降の全ての騒動は起きない。また、主人公たちがそうしない理由(社長は仮死状態になる薬を飲んだだけと公表しない理由)も思い浮かばない。必然性がないことを理由に、ドタバタしても、主人公たちやその周辺の「敵たち」の行動に「説得力」は生まれないので、その揺り戻しとしての「笑い」も生まれない。主人公たちが「止むに止まれぬ状況」「二進も三進もいかない状況」に陥ってないということはつまり、設えられた「危機的状況」が「八百長」ということ。喜劇だろうが、シリアスものだろうが、物語を動かすモチーフには「必然」が要る。この映画にはそれがない。だから、結局、笑えるテレビCMを何本か並べて、それを、薄め液で連結したような2時間だった。歴代仮面ライダー全員集合とか、ウルトラ兄弟揃い踏み、みたいな代物。



あと20分で配信終了になるタイミングで『プロフェッショナル/本多正識』を観た。吉本の芸人養成所NSCの講師。32歳から講師をやっていて、今は64歳。ユリアンレトリーバァーも和牛も銀シャリもかまいたちもみんな、彼の「生徒」。ま、NSC出身の連中は、ダウンタウン以外は全部そうなんじゃないかな。それはそうと、45分番組を、あと20分で配信終了のタイミングで観始めたけど、ちゃんと、最後まで観れた。NHK+は、飯屋の「ラストオーダー」的なシステムらしい。


2021年4月19日月曜日

『桜の塔』第1話をTVerで面白く観た

2021年4月19日 月曜日


一日中晴れ。



『病院坂の首縊りの家』市川崑監督・石坂浩二主演(1979)をPrime Videoで観た。佐久間良子、桜田淳子、あおい輝彦、横溝正史夫妻(カメオ出演)。相変わらずの「相関図」病のお話。しかし、この作品の相関図は、実際に書いて、確かめてみたくなった。相関図がメタ構造になっているから。



『桜の塔』第1話をTVerで面白く観た。玉木宏主演。警察「業界」の『白い巨塔』。あと、椎名桔平の「あの種類の悪い感じ」は絶品だよね。(たまたま観たバラエティ番組に、主演の玉木宏が第二話の番宣目的で出演していて知った)



『相席食堂』佐渡島を訪ねた千原せいじ。インチキ坊主に嫌悪感をあらわにするせいじが好い。千原せいじの「正直さ」は、『ねこぢる』のにゃーこ・にゃっ太の「正直さ」に通じる。人間のコスズルさを一発で見抜いて容赦ない。


2021年4月18日日曜日

『Mr.ホームズ/名探偵最後の事件』を観た

2021年4月18日 日曜日


一日中、わりと本気の雨。


「ガンダムチャンネル」で『逆襲のシャア』が24時間無料配信されるというので喜んで観に行ったら、画面右上に「チャンネル登録者105万人チャンレジ中!現在98万人突破 次の目標は105万人」という文章がずーっとが出ていて興ざめしたので3分で観るのをやめた。念のために、再生バーで先の方を確かめたら、やっぱりずーっと「チャンネル登録者105万人チャンレジ中!現在98万人突破 次の目標は105万人」が出てる。なんなんだろ? なんでこういう「もったいつけるようなこと」をするんだろう? わざわざ、作品の画面を「汚して」まで。こういう感覚、わからないよなあ。NHKが、受信料を払っていない「視聴者」が観ている画面に対して「受信料払え」的なメッセージをずーっと出しているあの感覚とおなじものなのか?



『ボトムズ』第8話視聴。



『Mr.ホームズ/名探偵最後の事件』を【Prime Video】で観た。94歳のシャーロック・ホームズが主人公の映画。BBCが制作。確か原作があったと思う。読んでないけど。最後に、ホームズが梅崎に書いた手紙の内容は、無論、ホームズの「創作」である。ところで、この作品は、原作のホームズの人物造形をそのまま利用していいるところがズルいしウマい。つまり、ああいう頭脳明晰でドライな人間が年老いたらどうなるだろう、という物語を作り上げるときに、「前ふり」というか、若い時の主人公の「人物造形」を原作のホームズで「済ませて」しまっているので、なんというか、この作品自体は、大河ドラマの最後の数話分しか語ってないのだけれど、観ているこちら側に「若い頃のホームズ」の情報がたっぷりあるので、「隔世感」とか「長い人生の旅路の果て感」が自動的に醸造されてしまい、つい妙に感動してしまう、という構造。



「久保みねヒャダこじらせライブ#11」視聴。ゲストは伊集院光。



「岡田斗司夫ゼミ」視聴。お題は大正時代の活弁。「頗る非常」の駒田好洋(こまだこうよう)と、怪盗ジゴマ。



§º近い将来か遠い将来か、自動車の自動運転が完成されて、人間の運転手による死亡事故がもはや発生しなくなったとき、人間は、そういう[人間の死亡事故が起きるような自動車の運転]を必ず懐かしむ。人間が人間を殺してしまうことの、人間にとっての「価値」を、人間は心の深い部分で「信じている」からだ。それがつまりは、生命教の根底にある価値観だから。おそろしいが事実。生命教を信仰するとはそういうこと。



§º『コスモスに君と』の歌詞が怖い。特に三番。え、なに言ってんの? と聞き返してしまう。


2021年4月17日土曜日

歴代の金田一耕助

2021年4月17日 土曜日


一日中雨。



『∀ガンダム』第35話視聴。



『悪魔の手毬唄』市川崑監督・石坂浩二主演(1977年)を【Prime Video】で視聴。またしても、面白かった。若山富三郎、岸恵子。少し前にテレビでやっていたのを見た『悪魔の手毬唄』よりも断然よかった。一つには、前にも書いた通り、俳優の芝居が好い。もう一つには、今は存在しないであろう、さまざまな「古い風景」の「説得力」。


ちなみに、その少し前にテレビでやった『悪魔の手毬唄』のホームページに面白い資料があったので、以下にコピーしておく。


歴代の金田一耕助

映画

<初代>片岡千恵蔵

<第2代>岡 譲司

<第3代>河津清三郎

<第4代>池部 良

<第5代>高倉 健

<第6代>中尾 彬

<第7代>石坂浩二

<第8代>渥美 清

<第9代>西田敏行

<第10代>古谷一行

<第11代>三船敏郎

<第12代>鹿賀丈史

<第13代>豊川悦司


ドラマ

<初代>岡 譲司

<第2代>船山裕二

<第3代>金内吉男

<第4代>古谷一行

<第5代>愛川欽也

<第6代>小野寺 昭

<第7代>中井貴一

<第8代>片岡鶴太郎

<第9代>役所広司

<第10代>上川隆也

<第11代>稲垣吾郎

<第12代>長谷川博己

<第13代>池松壮亮

<第14代>吉岡秀隆

<第15代>加藤シゲアキ


その他(オリジナルドラマ作品)

長瀬智也(『明智小五郎VS金田一耕助』)

山下智久(『金田一耕助VS明智小五郎』、『金田一耕助VS明智小五郎ふたたび』)




昼に「リンタコ」のたこ焼きを食べた。普通のソース味と、ジェノベーゼソース味。ジェノベーゼソースは好きだが、このたこ焼きはジェノベーゼはそうでもなかった。普通のソース味の方が旨かった。



2021年4月16日金曜日

歴代ゲーム機ベストワンゲームソフト

2021年4月16日 金曜日


歴代ゲーム機ベストワンゲームソフト

ファミコン:「ロックマン」(初代)

スーファミ:「ゼルダの伝説/神々のトライフォース」

プレステ1:「特になし」

プレステ2:「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」

プレステ3:「バイオニックコマンドー」


プレステ4以降はやってないのでわかりません。


と、「プリンス・オブ・ペルシャ/時間の砂」でタイトルがあってるかどうかネットで調べたときに、PS4でリメイク版が今年の1月に出たという情報を入手した。で、アマゾンで改めて調べたら今年の12月に発売予定(発売日未定)になっていた。ちゃんと出るのかな? というかPS4持ってないけど。


ちなみに

歴代ゲーム機 次点ソフト

ファミコン:「ウィザードリィ」「ヒットラーの復活」「SDガンダム」

スーファミ:なし

プレステ1:「クレイマンクレイマン」「影牢」

プレステ2:「God Hand」「God of War」

プレステ3:「アリス・マッドネス・リターンズ」



§º機械が急に壊れた時の安全対策は割とやっているけど、人間が急に「壊れた」ときの安全対策は割となおざり。つまり、たとえば、タクシー運転手やバスの運転手が客を乗せて運転している状態で、突然死んだり、あるいは突然意識を失った場合の安全対策をしている[タクシー会社やバス会社]はない気がする。それどころか、タクシーやバスを利用している乗客の側も、そんな緊急事態はほぼ想定しないで、呑気に座席に座っている。


別に、タクシーやバスを集中攻撃しようというのではない。一般に、[人間が操作している危険な装置]の安全に対して、装置自体が稼働中に突然壊れたときのことはあれこれ考えているが、操作している人間が「稼働中に突然壊れた」場合のことは、さほど、気にしない傾向が、人間という生き物にはある、という話。機械に比べれば、人間が急にどうとかなることはあまりない、と思い込んでいるのだろうか? 人間に対する過信? むしろ思い上がり? そういう「人間の突然の故障」をはっきりと意識しているのは、旅客機のパイロットぐらいかな。



行きつけの歯医者で、半年に一回の「歯のクリーニング」をしてきた。


2021年4月15日木曜日

『女王蜂』市川崑監督・石坂浩二主演(1978年)を視聴

2021年4月15日 木曜日


一日中晴れ。



『女王蜂』市川崑監督・石坂浩二主演(1978年)を視聴。金田一モノ・横溝正史モノというより、人間模様を描いたドラマとして素晴らしい。出演者たちの芝居が好いんだと思う。仲代達矢、岸恵子、司葉子、伴淳三郎、三木のり平、大滝秀治、加藤武、小林昭二、坂口良子、沖雅也。あと、一瞬だけ白石加代子も出る(若い!)。それに加えて、ミラーマン、仮面ライダー2号の変身前の俳優たちも出ていて楽しかった。これは名作。金田一耕助モノの映画で一番かもしれない。



そういえば、『ねこねこ日本史』もついに終わったらしい気配。いつもの放送時間に、先週も今週も違う番組が流れている。あと、『ボキャブライダーon TV』も少し前に最終回を迎えたらしいのだが、その肝心の最終回を見れてない。



§º「生命現象の家」の一階にいるのは生まれたての赤ん坊。最上階には、社会的な「成功者」たちがいる。最上階には階段で行ける。天井裏には、一階からの直通エレベータでしか行けない。屋根の上に行けるのは、呪われた者か祝福された者のみ。階段もエレベータもない。



§º小説や映画や絵画などの[人間の創作物]は、シロアリの蟻塚やミツバチの蜂の巣やアズマヤドリの東屋と同じで、生命現象の文脈でのみ「価値」を持つ。人間が生み出せるかもしれない創作物の究極は、いうまでもなく、「別の宇宙」である。この「創作物」だけが、生命現象の文脈の埒外にある。



鶏肉のソテーを、木桶醤油で食う。旨い。




2021年4月14日水曜日

コロンビア号爆発で唯一生き残ったのはC-エレガンス

2021年4月14日 水曜日


晴れ。一日中いい天気。気温も高め。大阪、コロナ新規感染者、今日も千人越え。



§º「生命現象の家」の「屋根」は、[生命現象由来の迷妄]の「壁」でもある。土台が生命現象である人間が、この「迷妄の壁」をすり抜けることは至難の技。だから、「生命現象の家」の「屋根の上」にいる人間は少ない。



帰還中に爆発したスペースシャトルコロンビア。人間の乗組員は全員死んだが、無重力の影響を調べる実験で使われた「C-エレガンス」という線虫は生き残った。



ヘヴィメタの頭悪い感じって、やっぱり、宗教臭がするからだよね。



Lynchの『DUNE』を見ていて、今頃気づいたんだけど、皇帝役をやっているのは「アルバート」のお父さんだった。『コロンボ』の「愛情の計算」の犯人役。にしても、『DUNE』って、Lynchがいうほど「失敗作」だとは思えないけど。あと、ちゃんと、クレジットは「David Lynch Film」「Directed by David Lynch」と表示されるよね。テレビ放映用の長尺版は、Alan Smitheeだけど。



「りょう」のキーマカレー。旨い。




2021年4月13日火曜日

戦争の「恐ろしさ」はバカな他人のくだらない価値観を押し付けられること

2021年4月13日 火曜日


晴れ。午後から雨。夕方強く降る。



§º「生命現象の家」の構造。下から「地下室」「地上階(1階)」「途中階(複数)」「最上階」「天井裏」「屋上」となる。



§º戦争の「恐ろしさ」は、バカな他人のくだらない価値観に強制的に従わされて、自分の生活全般や命までも、そのバカな他人のくだらない価値観のために犠牲にしなければならないこと。「命の危機」という「恐ろしさ」は、実は副次的なこと。どうせ、命はいつかどこかでみんな落とさざるを得ないから。戦争の理不尽さは、バカな他人のくだらない価値観が自分の人生を侵食することにある。だから、実は、戦争に巻き込まれなくても、それと同じような[体験=思い]をすることはある。そう、今起きている新型コロナのパンデミックは、多くの人間に、自国が戦争を始めた時の不自由やさ理不尽さと同じものを体験させている。この場合の「バカな他人のくだらない価値観」の「バカな他人」はもちろん新型コロナウィルスだ。(いうまでもないが、ウィルスは価値観など持ってはいない。喩えである。)


戦争の恐ろしさは、人々の「勝手な人生」を強烈に邪魔をすることにある。勝手に生きたいなら、戦争反対。




山田五郎のYouTubeを面白く視聴した。今回観たのは「鳥獣戯画」[レンブラントの「夜警」][ミケランジェロの「最後の審判」]。ミケランジェロ、大変だったねえ。



2021年4月12日月曜日

『獄門島』市川崑監督・石坂浩二主演(1977年)を観た。

2021年4月12日 月曜日/晴れ・風が強い


『∀ガンダム』第34話「成層圏」視聴。ザックトレーガーが、すごい。「スペースコロニー」とかと同じ「SFアイテム」?



『獄門島』市川崑監督・石坂浩二主演(1977年)を【Prime Video】で観た。少し前に長谷川博己主演でNHKでやった『獄門島』が、なーんか、そうとうバカにした感じだったので、余計に今作がよく思えるのかもしれない。というか、やっぱり好いんだと思う。昔の映画と今のテレビの違いかと言えば、そうでもない。例えば、同じ監督同じ主演で同じ頃に作った有名な『犬神家』や、監督や主演は違うけどやっぱり同じ頃の『八つ墓村』と比べても、「映画として」断然、この『獄門島』の方が面白い。つまり、横溝正史ファンとか、金田一耕助ファンではない(そういう要素を全く知らない)人間が観たとしたら、『犬神家』や『八つ墓村』はちょっと馬鹿みたいだけど、この『獄門島』は最後までそんなふうに思わずに観れる。純粋に、映画の面白さや美しさがある。という意味。あと、とにかく出演者が豪華。佐分利信、東野英治郎、司葉子、草笛光子、大原麗子、坂口良子。あと、ピーター。まあ、佐分利信だよね。



§º物理現象を象徴するものとして「重力」を考えると、生命現象は所詮、その「重力」の「振る舞い方」にすぎない。しかし、知性現象は「重力」を振り切り、無視することができる。根本的に違う現象なのだ。無論、知性現象自体も、物理現象を媒体としているのはその通りだが。



晩飯に「ルーロー飯」というものを食った。中華風ハヤシライスという趣。


2021年4月11日日曜日

山田五郎のYouTubeのチャンネル登録をした。

2021年4月11日 日曜日/晴れ


老猫、午前3時ごろ起き出して、自力で餌を食べる。その後、ずっと寝たり起きたりで、昼にまた食べ、夜になると「土佐清水」の2本食い。その間、吐き気も一切なし。おそらく、完全回復。1日で夏風邪克服。注射のおかげ?



岡田斗司夫ゼミ視聴。「シン・仮面ライダー」の話と、サイコパスの人生相談。その後、岡田斗司夫が今日のゼミで喋っていた、山田五郎のYouTubeチャンネルを視聴。「ゴッホ」の回と「ドラクロワ」の回。どちらも面白かったので、チャンネル登録した。少し調べて観たら、山田五郎の肩書きは「美術評論家」だった。なるほど。


2021年4月10日土曜日

老猫が4回も吐いたので、行きつけの動物病院に連れて行った。

2021年4月10日 土曜日/晴れ


『戦メリ』を最後まで観た。セリアズにとって、捕虜収容所は、「2周目」のパブリックスクールだったのだろう。パブリックスクールで自分の弟を「救わなかった」ことを強く後悔していたセリアズは、ヨノイに斬られようとする俘虜長を救うことで、その「罪滅ぼし」をしようとした。その結果、俘虜長はもちろん、ヨノイやセリアズ自身も「救われた」わけである。まあ、肉体的にはどちらも処刑されるんだけど。



昨日の17時から今日の11までの間に、老猫が4回も吐いたので、行きつけの動物病院に連れて行く。診察の結果は、発熱(39.4℃)があるが、腹のなかに何か異物が有る様子はないので、風邪による胃腸炎もしくは上部食道炎。インターフェロンと吐き気止めと胃腸薬と抗生物質とあと何かの合計5種類が入った注射を打たれて帰宅。20時ごろにはボーしていたが、22時過ぎたあたりから少し水も飲んで、わりあい安らかな顔で寝ている。



おまけでもらった「りょう」の春巻きが旨かった。


2021年4月9日金曜日

録画してあった『アーヤと魔女』をようやく見た

2021年4月9日 金曜日/晴れ


『戦メリ』視聴メモ。ハラ軍曹は「小学生男子」、ヨノイ大尉は「中学生男子」。小学生男子よりも中学生男子の方が、人間として「愚か」なのを、その場所を通ってきたオトナなら全員知っている。



録画してあった『アーヤと魔女』をようやく見た。Eテレで偶然見かけた、事前情報も背景情報も一切ない「外国製」のちょっとおもしろい、しかし2周は絶対にしない(時間の無駄遣い)CGアニメを観たときの感覚。まあ「子供用のオモチャ」だよね。



§ºいや、「安楽死法」や「尊厳死法」が成立しない理由は簡単で、今の世の中の圧倒的多数が生命教信者だからだよ。かつての(今も?)カトリックの国で、離婚が法的に認められなかったのと同じこと。



§º人間のことを、地球上の生命の中で、最も価値のある、あるいは特別な地位にある、あるいは進歩した生命だとする認識は誤りである。生命としては、人間と(たとえば)ミジンコは、価値も地位も進歩度合いも同じである。優劣はない。知性現象の観点から見たときにのみ、人間は、他の生物の知性現象としての側面を大きく引き離している(大きな優位性をもつ)といえる「だけ」である。


例えば、生産能力が全く同じ100人の工場労働者を『美人コンテスト』(水泳大会でもいいけど)に出場させると、100人の間で結果に違い(優劣)が出る。その『美人コンテスト』の優勝者のことを「100人の中で一番優秀な工場労働者である」と評価するのは(誰にでもわかる)誤りだ。人間を地球生物の「頂点」とみなすのは、それと同じ誤り方。



§º「なぜ、この広い宇宙に我々以外見当たらないのか」問題についてのちょっとした考察。


宇宙の他の場所に存在するかもしれない知性現象を探し当てたり、それらと実際に接触できたりするほどに、その知性と科学技術を発達させた知性現象は、そもそも、自分たち以外の知性現象には関心を持たない。この宇宙で、知性がどのように「自然発生」し、その後どのような経緯を辿って「発展」していくかを、「成熟」した知性は既に知り尽くしているからだ。それはちょうど、成人男女が、小学生のための「性教育」の授業に参加する必要性をまるで感じないのと同じこと。


宇宙に話を戻すと、逆にも言える。「なぜ、この広い宇宙に我々以外見当たらないのか」と本気で考え、気になってしまうような知性現象は、例えば、他の知性現象との恒星間での通信や接触をできるような、知的レベルでも、技術レベルでもない傾向がある。もちろん、双子惑星に生まれついて、「すぐ隣」に[別の星の生命現象]が存在するという場合は、地球で言うところの、アポロが月面に到着したときの技術レベルで「第三種接近遭遇」は可能。しかし、その「隣の星の知性現象」は、「隣の大陸の知性現象」と、実質さほど変わらないかもしれない。だって、同じハビタブルゾーンの惑星の生命現象が媒体なのだから。



§º「虚無」を祓うのは簡単。「There is nothing.」という云い回しをするのと同じ「脳の思考法」「知性の癖」が生み出したものが「虚無」だから。本当に厄介なのは「無限」「永遠」「永久」の方。現にこの宇宙が存在している以上、これらを「ただの幻=純粋概念」としてあっさり切り捨てるわけにはいかない。現に見当たらないものについて、それが「有る」理由を説明できなければ、あっさりと「実際にはない」と言い切ることはできるが、「現に目の前にあるもの」について、それが消えて無くなる理由を思いついたとしても、それは可能性に過ぎず、あっさりと「いずれ必ず消えて無くなる」とは言い切れない。「虚無」は「ない」場合に、知性の合理性を「安心」させるが、「無限」は「ない」場合も「ある」場合も、知性の合理性を脅かす。知性すなわち思想にとって、「虚無」は疲れ目の霞程度のものだが、「無限」は目をこすったくらいでは消えない本当の「病気」。



§º生命現象と物理現象との「境界線」が、概念としての「死」。知性現象と物理現象との「境界線」が、概念としての「虚無」。これは、微妙な云い回しだが、真理。数学の比の等式っぽく書くなら、(生命現象:死)=(知性現象:虚無)。


2021年4月8日木曜日

「どこ」や「いつ」は、時空間の内部にしか存在しない

2021年4月8日 木曜日/晴れ


§º「どこ」や「いつ」は、時空間の内部にしか存在しない。だから、時空間すなわち「全存在」それ自体が、「いつ」始まったのか、「どこ」にあるのかという問いは、問い自体が不合理である。その問いを発するためには、「時空間」=「全存在」の「外」に出る必要があるのだが、その「外」は「虚無」なのだ。もし「外」が「虚無」でないのなら、それは「外」ではなく、依然として「時空間」=「全存在」の「内」である。


時空間の「外」に出ないままで、この時空間が存在しはじめてどれくらいの時間が経過したのかを弾き出す方法はある。しかし、それは、ちょうど、時計を撮影した動画を見て、時間を測る行為に似ている。倍速で再生した時計動画の1時間と、半分の速度で再生した時計動画の1時間は、動画の時計から時間の経過を知ろうとする限り、「同じ」1時間である。倍速の動画と半速の動画で、時計が教える時間の経過に違いがあることに「気づく」には、動画の「外」に居る必要がある。そして、実際、我々は動画の「外」に居ることが可能なので、倍速時計動画と半速時計動画の教える時間の経過が「不正確」であることを知ることができる。しかし、我々の居る「全存在」=「時空間」の「時計」を「外」から見る方法はない。「外」がないからだ。我々は、この時空間が「誕生」してから今までどれくらいの時間が経過したのかを、客観的に知る方法を持っていない、ということだ。


ところが、いや、だからこそ、「無限」という「厄介な事態」を回避できるかもしれないのだ。


a)「虚無」が幻であることと引き換えに出現した「永遠/永久」すなわち「無限の時間」と、b)「全存在」=「時空間」の「内」にある「時計」を調べることで否応無く突きつけられる「始まりの瞬間が存在する」という結論。


(b)は(a)を否定するが、(a)は単なる仮説や仮定ではなく、「虚無」の定義自体から導かれる「事実」である。一方で(b)は、観測と観察と計算から導かれた推論である。あるいは(b)は「条件付き」になる場合がある。すなわち、無条件な「全存在」や「時空間」ではなく、「我々が観測できる範囲の宇宙」という意味の「全存在」や「時空間」である。この場合、(b)は、「無限の時間」問題の始末を「先送り」にする。ちょうど、創造論者が、宇宙の存在(誕生)を「神」に押し付ける様に。同様の「先送り」は、[真空のエネルギーから宇宙が生まれた]という「説明」についても言える。



§º「時空間」の概念で重要なことは、空間とは「何かが動いている状態」だということ。「何かが動いている」と、必然的に「時間の経過」が伴う。もっと言ってしまえば、何も動いていなければ(例えば真空の揺らぎとかもなければ)、時空間は成立しない。だから、もしも「時間が止まった」としたら、その瞬間に、時空間は消えて無くなる。SFや漫画にある「時間が止まった世界」は、「雲の上にある神様の住む世界」と同じ、何もわかってないアタマによる産物。



§º光子は時間を「体験」しない。光子は運動だけをする。「時間」とは、光子の運動との「差異」や「相対化」によって生じる「体験」なのだ。


2021年4月7日水曜日

『戦場のメリークリスマス』をPrime Videoで観ている。

2021年4月7日 水曜日/晴れ


§º「虚無」が物理現象としては存在しない[単なる「純粋概念」]であることがわかった以上、物理現象としての「無限」を考察しなけれならない。なぜなら、空間の尽きるところが「虚無」であり、時間に尽きるところが「虚無」なのだから、物理現象としての「虚無」が存在しないのなら、「無限」として物理現象を受け入れざるを得ないのだ。


今も言ったように、「無限」には二つある。空間的無限すなわち「無限大」と、時間的無限すなわち「永遠/永久」だ。無限に広がる宇宙と、永遠に続く宇宙である。


しかし、なにか、馬鹿げている。


そもそも、空間と時間は、時空間という一つの現象の[ふた様の見え方]に過ぎない。ここに、物理現象としての「無限」のバカバカしさを解くカギがある。気がする。


物理現象としての「無限」を受け入れると、[絶対的な「いつ」]と[絶対的な「どこ」]は放棄しなければならない。ちょうど、グリニッジという任意の基準を想定しない限り、地球上での絶対的な東西を放棄せざるを得ない様に。


空間的無限には、大きなヒントがある。またしても地球だ。地球の表面を這いずり回る者にとって、地表は無限である。どこまで言っても「地の果て」は現れない。すなわち、地表を這いずり回っている限り「虚無」にたどり着くことはない。このばあいも「虚無」は存在しないのだ。地表はどう考えても無限に思える。しかし、地球の外から見れば、地表ははっきりと有限である。この「見せかけの無限」が、物理現象の「無限」を「祓う」ヒントだろう。同様に「見せかけの時間的無限」もありそうな気がする。



『戦場のメリークリスマス』をPrime Videoで観ている。結局、(教授が「サンスト」であれこれ報告していた)公開当時から今までの間、映画を初めからおしまいまでちゃんと観たことは一度もないように記憶している。今、開始から40分ほどまでを観たが、「学芸会かよ」と思った。大島渚って、過大評価されてたんだなあ。教授の演技は観てられないし、たけしの演技だって、まあ、今も同じあの感じで、観てるとちょっと尻がもぞもぞする。


映画は、元祖(?) BL映画。たけし演じるハラ軍曹は、本物の戦争で戦争ごっこをやってるメンタル小学生の軍人。あと、教授演じるヨノイの上官は「シェケナベイベー」の内田裕也だった。



§ºいわゆる「恋愛相談」は、たとえば「街中で急にトイレに行きたくなったらどうしたらいいですか?」という相談と同類。当事者にとっては実際切実だが、所詮は、単なる「家事」を上手くこなすコツについての相談。恋愛ドラマというのは、この「恋愛相談」に対して、例え話を持ち出して「答えている=一定の回答を示している」創作物だから、まあ、熱心に見れば見るほど、時間を損した気分になる。ちょうど、「洋服ダンスの整理のコツ」とか「油汚れの落とし方」とかを紹介してる番組にうっかり「引っかかって」しばらく観てしまったときのあの気分。


2021年4月6日火曜日

NHK『ハゲタカ』を久しぶりに観た

2021年4月6日 火曜日/晴れ


『Twin Peaks』第14章を観た。Lynchが監督した「It is happening again」「I’m so sorry」の回。全30(1+7+22)話の中でエンディングが一番悲しい回。



NHK『ハゲタカ』を久しぶりに観た。何度見ても見応えがある。大森南朋、栗山千明、光石研、松重豊、みんな若い。嶋田久作と柴田恭兵は最近の顔を見てないので、なんとも言えない。大杉漣はもう死んだし。



§ºパラリンピックと、自動車レースって、実は同じ思想に基づいている。例えば、「F1マシンの速さで地上を走り抜けられること」を基準とするなら、全ての人間は「障害者」であり、だからこそ、F1マシンという「補助装置」の助けを借りて、レースに参加している。車椅子の短距離走とまるで同じ。


こういうことも考えた。将来、義手や義足の技術が成熟して、例えば、『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカーの義手レベルの義手や義足が安い値段で利用可能となったら、積極的にそういうものを装着して競技に参加するのか、それとも、そういうものは一切装着しないで「生身」の障害を持った状態で競技に参加するのかで、モメると思う。パラリンピックに出場するのか、通常のオリンピックに出場するのか、あるいは、第3の競技大会を設けるのか。