2021年4月8日 木曜日/晴れ
§º「どこ」や「いつ」は、時空間の内部にしか存在しない。だから、時空間すなわち「全存在」それ自体が、「いつ」始まったのか、「どこ」にあるのかという問いは、問い自体が不合理である。その問いを発するためには、「時空間」=「全存在」の「外」に出る必要があるのだが、その「外」は「虚無」なのだ。もし「外」が「虚無」でないのなら、それは「外」ではなく、依然として「時空間」=「全存在」の「内」である。
時空間の「外」に出ないままで、この時空間が存在しはじめてどれくらいの時間が経過したのかを弾き出す方法はある。しかし、それは、ちょうど、時計を撮影した動画を見て、時間を測る行為に似ている。倍速で再生した時計動画の1時間と、半分の速度で再生した時計動画の1時間は、動画の時計から時間の経過を知ろうとする限り、「同じ」1時間である。倍速の動画と半速の動画で、時計が教える時間の経過に違いがあることに「気づく」には、動画の「外」に居る必要がある。そして、実際、我々は動画の「外」に居ることが可能なので、倍速時計動画と半速時計動画の教える時間の経過が「不正確」であることを知ることができる。しかし、我々の居る「全存在」=「時空間」の「時計」を「外」から見る方法はない。「外」がないからだ。我々は、この時空間が「誕生」してから今までどれくらいの時間が経過したのかを、客観的に知る方法を持っていない、ということだ。
ところが、いや、だからこそ、「無限」という「厄介な事態」を回避できるかもしれないのだ。
a)「虚無」が幻であることと引き換えに出現した「永遠/永久」すなわち「無限の時間」と、b)「全存在」=「時空間」の「内」にある「時計」を調べることで否応無く突きつけられる「始まりの瞬間が存在する」という結論。
(b)は(a)を否定するが、(a)は単なる仮説や仮定ではなく、「虚無」の定義自体から導かれる「事実」である。一方で(b)は、観測と観察と計算から導かれた推論である。あるいは(b)は「条件付き」になる場合がある。すなわち、無条件な「全存在」や「時空間」ではなく、「我々が観測できる範囲の宇宙」という意味の「全存在」や「時空間」である。この場合、(b)は、「無限の時間」問題の始末を「先送り」にする。ちょうど、創造論者が、宇宙の存在(誕生)を「神」に押し付ける様に。同様の「先送り」は、[真空のエネルギーから宇宙が生まれた]という「説明」についても言える。
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§º「時空間」の概念で重要なことは、空間とは「何かが動いている状態」だということ。「何かが動いている」と、必然的に「時間の経過」が伴う。もっと言ってしまえば、何も動いていなければ(例えば真空の揺らぎとかもなければ)、時空間は成立しない。だから、もしも「時間が止まった」としたら、その瞬間に、時空間は消えて無くなる。SFや漫画にある「時間が止まった世界」は、「雲の上にある神様の住む世界」と同じ、何もわかってないアタマによる産物。
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§º光子は時間を「体験」しない。光子は運動だけをする。「時間」とは、光子の運動との「差異」や「相対化」によって生じる「体験」なのだ。