2021年4月5日月曜日

テリー・ギリアム監督『ブラジル』をPrime Videoで見た

2021年4月5日 月曜日/晴れ


テリー・ギリアム監督『ブラジル』をPrime Videoで見た。たぶん、3周目。25年ぶりくらいで観た。随分、昔と印象が違った。何よりもまず、こんなに頭の悪い人間ばかりでこの手の管理社会が成立するかなあ、と思った。まあ、基本はギャグ映画だよね。最後で「びっくり」させて、なんか、観終わったときの全体の印象を「高尚で深遠な雰囲気(あるいは悲惨で殺伐?)」にしちゃうけど、そこに至るまでは、ほとんど「Mr.ビーン」だもん。そして、とにかく主人公に感情移入できない。全く共感できない。ただのバカにしか見えない。最後にあんな目にあっても「自業自得じゃない?」とか言いたくなるくらい。


今回見返すまでは、ずっと「傑作」「名作」(少なくとも怪作)の印象だったけど、なんか変わった。大声芸人の大声ネタを見てる感じに近かった。もう観なくてもいいや、と思った。セットとかの見た目は凝ってて面白いけど、作品思想はかなりお粗末。


登場人物が全員バカの物語映画を見るくらいなら、野生生物の記録映画を見ていた方が面白い。同じ「全員バカ」を見ることにしても、どうせなら芝居や演技ではなく天然自然のそれを楽しみたいからね。



§º「虚無」は存在しない。「闇」が存在しないことを生まれつきの盲人は気づいている。すなわち「闇」は視覚が生み出す幻。同様に「虚無」は知性が生み出す幻。



§º歌舞伎や落語の世界には「名前」を引き継ぐ仕組みがある。「7代目市川海老蔵」とか「3代目柳家小さん」とか。名前は同じだが、それぞれの人間は別の人間。逆に言ってもいい。別人なのだが名前は同じ。


一人の人間の知性というものも、これと同じに考えた方がいい。一定の年齢ごとに「別の人間」が、名前(と体)を引き継いでいるだけなのだ。物心をついた時を「初代」とし、その後の思春期を例えば「3代」、青年期を「4代」、中年期を、老年期を…という具合。


歌舞伎や落語のそれと違うのは、周りはもちろん、当人も、そういう「襲名」が行われていることに気づいていないこと。今の自分から見たら、昔の自分も、将来の自分も、本当は「他人」。



§ºだから、たとえば、原作版『ナウシカ』で、ナウシカの姿形を『北斗の拳』の雑魚キャラ(モヒカンマッチョ)に変えてしまえば、読者は誰ひとりとして、「ナウシカ(=モヒカンマッチョ版)」のやったことを賞賛しないだろうというハナシ。これは、「見た目で評価が変わる」ということを指摘したいのではなく、ナウシカのやったことは単に「価値観の異なる邪魔者(しかも将来の脅威)をチカラでもって排除しただけ」いうことに気づいて欲しいから言うのだ。



You Tube musicを利用していると、音楽を提供する「アルバム」という形態はもはや、不便かつ不合理なものにしか思えない。



フライパンで炙って焦げ目をつけたカチョカバロはやっぱり旨い。