2021年4月30日 金曜日
夜明け前から本格的な雨。
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§º『酒のつまみになる話』で、[男はなぜ一人になりたがるのか? そして、女はなぜ、男が一人になりがる理由が「理解」できないのか?]的な話題があって、考えた。
登場人物が誰も映っていないテレビ画面を観た時、[一人になりたい男を理解できない女](以下、単に「女」と記す)は「その場には誰もいない」と思うが、[一人になりたい男](以下、単に「男」と記す)は「そこにはカメラ(の視線を持つ一人称の誰か)が居る」と思う。その違いだと思う。
小難しい話に持っていくと、人間が「自分」という存在を認識するには「他者」の存在が不可欠。いや実は、人間に限らず、「自分」というものを少なからず認識している生命現象依存型知性現象は、まるで「echolocation(反響定位))」でもやるように、[他者の存在]から[自分自身という存在]を認識する。これをひっくり返して言うと、生命現象依存型知性現象は、他者が存在しない状況では、[自分という存在]が消えてしまうか、そうでなくても希薄になってしまう。
しかし、[希薄になる度合い]は[全ての生命現象依存型知性現象で一様]というわけではない。「女」は、その[希薄になる度合い]が強い。逆に、「男」はその度合いが弱いし、場合によったら、全く希薄にならない。なぜなら、「男」は、周りに誰もいなくても、「他者」がいなくならないからだ。「男」は、世界を体験している自分というものを、すでに一人の他者として俯瞰してる。だから、「男」は、実は、決して一人にはなれない。「男の隠れ家」で一人むっつりと座っていても、そこにいるのは、実は「二人」なのだ。そのような状況での「男」は、比喩としてではなく、本当に[自分自身との「対話」]を愉しんでいる。そして、これは、知性現象にとっての究極の愉しみの一つである。だから「第三者」の邪魔が入るのを激しく不快に思う。
「男」とは「健全な分裂症」である。それはおそらく脳の構造的な理由からだろう。だから、「男」は、肉体的に一人きりで居る時も、精神的には二人で居る場合が多い。そこに恋人なり妻なりが加わると、実質「3人連れ」になるのだ。「夫婦水入らず」という言葉があるが、「女」はともかく、「男」にとっては、真に「水入らず」の状況とは「一人でいる」ときである。(ほんとか?)
と、それはさておき。
『酒のつまみになる話』で、その話題を繰り出した当の女タレントが「一人になりたいと言っても、仕事の時には一人になれるんだから、家に帰ったらずっと一緒にいてくれたらいいのに」的なことを言っていた。この女タレントと、一人になりたい派の「男性陣」とでは、「ひとり」の定義がそもそも違っていることがわかる。一人になりたい派の「男性陣」の「一人」は文字通りに「周りに誰もいない一人」なのだが、件の女タレントの「一人」は「妻・嫁・子供とは別の場所にいる」という意味での「一人」なのだ(でなければ、仕事に行けば一人になれる、などとは言わないはず)。だから、両者の「平行線」は、上で長々と書いたこと以前の[認識の食い違い]が原因。
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§º老化のせいで視力が衰えても、さほど身につまされることがない(危機感を覚えない)のは、視力の「正常」な若い時でも、薄暗い場所でものが見えにくかった体験を繰り返しているからだ。老化のせいで物が見えにくくなっているのを、暗いせいで物が見えにくいと「誤認識」して「安心」しているのだ。だから、たとえば、[人や物の名前が全然思い出せなくなった]などという、若い頃には未経験で、しかも環境のせいにもできない「衰え」には、素直に「危機感」を覚えるのだ。
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§º知性現象として「人間」を極めてもしょうがない。それは、喩えて言うなら、町内の野球大会で一勝することを究極の目標に、子供に野球の英才教育を施すようなものだ。