「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月31日木曜日
■「メリークリスマス」と「ハッピーホリディ」
日本人が気軽に「メリークリスマス」と云えて、アメリカ人が他宗教に気を使って「ハッピーホリディ」としか云えないのは、日本人にとっての「メリークリスマス」が何ら宗教的な意味を喚起しない言葉なのに対し、アメリカ人にとってはやっぱり宗教的な意味を持つからだというのはそのとおりだけど、じゃあ、なんでアメリカ人はこんな「タダの言葉」にいつまでも宗教的な意味を抱きつづけているのかってところが、実は重要。
まずは、宗教に対する社会の「感受性」の違いがある。「感受性」というと何かイイもののように聞こえるが、それは「祟られ具合」と云い換えてもまったく意味が変わらないシロモノだから、少しもイイものなんかじゃない。子どもの頃から宗教的虚構で洗脳されると、それぞれが教え込まれた宗教的な虚構の骨組みに沿って世界を見るようになる。これが、宗教に「祟られている」状態で、それはナニ教であっても変わらない。宗教に「祟られた」状態で、「メリークリスマス」と云ったり聞いたりするので、過剰な意味づけがされて、決して失われてはならない大事なフレーズのように思えたり、逆に不快や反感の対象になったりする。
つまり、「メリークリスマス」を云うか云わないかは実は表層的な問題で、問題の本質は、アメリカ社会の善男善女がアイモカワラズ、宗教という[半動物的な世界像]に祟られ続けているということにある。
12月の末に「メリークリスマス」とは云わない他宗教の信仰者たちから絶えず「それは宗教的な言葉だ」と指摘され続けることで、「メリークリスマス」はますます「キリスト教のもの」になっていく。
アナトー・シキソ 2018/03/17*2019/01/31
音楽の虜
渋滞の週末。車は止まっている。
表通りの真ん中。僕は小太鼓を叩いて歩く。
マンホール。
鉄の蓋を押し上げて、地下の人が僕に云う。
「君の小太鼓は地下の我々にこそ必要だ」
目がなく耳の大きい地下の人達。音楽の虜。
現の虚 2014-6-7【剥製人間の歌を聞く】
塔の天辺の部屋で折り畳み椅子を広げて埃っぽい棺の前に座った。背後からスカートの丈の短い看護師が、ガラガラと何かの装置を押して現れた。看護師が棺の蓋を開けると、中に包帯でグルグル巻きの人型のモノが横たわっていた。看護師は持ち込んだ装置から先端に針の付いた赤と黒の二本のコードを伸ばすと、横たわる包帯の頭に突き刺して、準備出来ました、と云った。突然、スイッチの入ったままのマイクを持ち上げると出る「ボコン」という大きな音が部屋中に響いて、俺は折り畳み椅子の上で驚いた。天井にスピーカーがあった。スピーカーは男の声で、では始めて下さい、と云った。看護師は頷き、包帯に繋いだ装置のスイッチを入れた。装置は魚群探知機のような画像を小さいスクリーンに映し出し働き始めた。看護師は俺に大きなヘッドホンを渡し、俺はヘッドホンを付けた。
ヘッドホンからは微かにホワイトノイズ(シャーシャー音)が聞こえる。
歌のようなものが聞こえませんか、と看護師が俺に訊いた。俺は首を振った。看護師は装置のつまみを調整し、これでどうですか、と再度訊く。俺は、ホワイトノイズの中に言葉のようなものが聞こえるような気がする、と答えた。実際そんな気がした。看護師は頷いて、俺に、大判だが薄い本を手渡す。開くと、歌の楽譜で、五線譜の下に歌詞が印刷されている。
剥製人間の歌です、と看護師が云う。
楽譜の歌詞を目で追っているうちに、ホワイトノイズから歌声がはっきりと聞こえてきた。空耳かもしれない。だが、シャーシャーという音の中に、確かに歌の旋律が聞こえるし、歌詞も聞き取れる。
天井のスピーカーの男の声が、聞こえる歌と楽譜が同じかどうかを確認してください、と云う。
メロディはともかく、歌われている歌詞は楽譜に書かれているものと全く同じだ。俺はその旨伝える。スピーカーの声は、結構です、と答え、既に薄着の看護師が、よかったですね、と俺に微笑みかける。
看護師は俺のヘッドホンを取ると、俺の腕にゴム管を巻いて採血の準備を始めた。作業をしながら看護師が云う。
私たちは、ふだん何気なく生命という言葉を使いますが、実は全く違うふたつのものを、知らないうちにひとまとめにしてそう呼んでいるんですよ。剥製人間の歌が聞こえたなら、そのふたつはもうお分かりですよね。
現象と体験です、と俺は答える。
そう。もしくは事実と解釈。そして、より重要なのは、事実ではなく解釈の方です。
2019年1月30日水曜日
■人間対機械の戦争
戦争は、生命現象の「回転」に、知性現象のたくさんの歯車が噛みあわされて巨大化したもの。だから、やっぱり、ただの生命現象だよ。これをひっくり返すとこう云える。生命現象ではない純粋な機械は戦争をしない。生命現象を模した機械だけが戦争をする。
人間が、人間対機械の未来戦争を思い描くとき、敵に想定されている機械は、実は、機械式人間のことで、結局は「人間対人間」なんだ。それはちょうど、人間が思い描く「人間対悪魔」「人間対異星人」「人間対自然」が、よくよく見れば、結局どれも、「人間対人間」、もっと厳密に言えば、人間の持ちうる或る価値観と、やはり人間が持ちうる別の価値観の対決でしかないってのと同じこと。
人間は自分たちで思っている以上に[人間という枠]から抜け出せない。たとえ「自由」な想像の中でさえ。
(アナトー・シキソ 2018/06/07)
金網の向こうで
金網の向こうで僕は死んだ。
夜の暗いうちに。
頭が痛いとか、胸が苦しいとか、
そんなことは少しもなくて、
ちょっと横になって、
ぼうっとしたら、
もう死んでいた。
ほら、目は開いてるけど息はしてない。
朝は来たのに。
現の虚 2014-6-6【中州で砂の塔を作る二人】
広い川の小さな中州で、高い砂の塔を作ろうとしている二人組に会った。浅黒いヒゲの男が後ろ手で歩き回って指示を出し、ヒゲのない太った男が砂を相手にスコップを振り回している。
ヒゲの男は、自分はイラン人だと云った。自称ヒゲのイラン人の後頭部にはネグセが残ったままだから、おそらく学者だ。作業をする太った男は普通のアメリカ人だろう。不気味なほど巨大なプラスチック製の牛乳の空きボトルと、見覚えのあるハンバーガーの食い散らかしがそこら中にあったし、着ているTシャツが赤と黄と茶の三色で汚れていたからだ。自由を標榜する普通のアメリカ人は、自由以外に関心はないのだ。
ヒゲのイラン人が俺に云った。
砂で円形の塔を造る場合、その高さの限界は土台の半径の3分の2乗に比例する。更に、砂に含まれる水分は1パーセントが最良である。結論を云えば、この中州では、我々が構築を目論んでいる塔は絶対に作れない。まず、目標の高さを実現する為に必要な土台の広さがこの中州の広さを超えている。更に、この中州の砂に含まれる水分量は1パーセントを遥かに超えており、粒子も粗い。海に出なければ我々の塔は決して完成しない。我々は誤った場所で作業している。
太ったアメリカ人は、イラン人がダメだと云ってる中州の砂を黙々と積み上げている。イラン人は、作業をするアメリカ人から目を離さないで続けた。
中州は河口に出来やすい。そして、河口とは海の近くのことだ。つまり、我々は海のすぐ近くにいる。にもかかわらず、海には行けない。見たまえ、この川の流れを。丈夫な船がなければ、我々はこの中州を出ることすらできないのだ。海に行けば、高い砂の塔が作れる。だが、我々は海には行けず、よって、高い砂の塔も作ることができない。
そのとき空に轟音が響いて、上空を一機の飛行機が通り過ぎた。少しして、たくさんのナニカが空から降って来る。それはパラシュートにぶら下がった箱だった。殆どの箱は川に落ちてそのまま流されたが、一つが俺たちのいる中州に落ちた。太ったアメリカ人は作業を中断して、その箱を拾いに行った。アメリカ人は、意外に大きいその箱を抱えて戻って来ると、笑顔で中身を見せてくれた。分厚い緩衝材に囲まれた小さなスペースに、ハンバーガーと珈琲のセットが一人前入っていた。
これがアメリカ人の云う、自由のための義務と権利の、その成果らしいのだよ。
自称イラン人は顔をしかめてそう云った。
2019年1月28日月曜日
■科学を「悪用」して頂点で肥大する
生命現象とは、[物理現象と地続きのグラデーション]=[物理現象の一種]に過ぎない。生命現象という完結した現象があるのではなく、生命現象をドンドン高度化していくと、もはや生命現象とは呼べない段階に入ってしまう。それはちょうど虹の七色のようなもの。生命現象は虹の七色の中の或る一色、たとえば緑色に過ぎないのだが、生命現象である人間はその緑色が、他の色とは違う特別に自立したナニモノカであるかのように考え、「緑色」をドンドン高度化していけば、遂にはスーパー緑色、すなわち〈超生命〉になるに違いないと考えるが、実際にはそんなことはなくて、緑色をドンドン高周波化していくと、虹の七色の緑の隣の色、黄色か水色になるだけ。それは、物理現象の[より〈先鋭化〉]された段階、すなわち知性現象。
ついでに言うなら、人間は生態系の頂点に立っていながら、科学技術(農業、医療などを含む)を「悪用」して、まるで生態系の底辺のオキアミのように大繁殖している。これが、人間が、生態系だの環境だのナンダノに「悪い影響」を与えてしまう理由。この構図は、年金問題や若い労働力不足が悩みのタネになっている超高齢化社会に似ている。老人を社会構造から放り出せば、超高齢化社会の問題が解決するように、科学武装した人間を生命現象の外に追い出せば、環境問題やらなにやらも全て解決するわけだが、そのどちらも、人間にはとても無理なハナシだろう。
2018/11/19 アナトー・シキソ
かぎ屋のホント
かぎ屋が鍵を開けてくれる。
電話一本一時間以内。
僕の部屋の鍵を開けてくれる。
昨日は隣町の部屋の鍵を開けた。
世界中のどんな鍵も開けてしまう。
それは無理。
かぎ屋は謙遜するけどホントは出来る。
輝く銀の道具箱。
現の虚 2014-6-5【盗み聞くエレベータ】
エレベータの非常用インターホンに耳を当てると話し声が聞こえた。
俺の乗っているエレベータは緊急停止したわけじゃない。ちゃんと動いている。電灯もついて、中は明るい。ただ、もうずいぶん経った気がする。思い出せないほど昔から乗っているはずなのに一向に目指す階に着かない。しかもひどいポンコツで巻き取り機の音が無駄にウルサイ。だが、そのオカゲで動き続けていることはよく分かる。一番気に入らないのは、アナログ式の階数表示の針が取れて、床に落ちていることだ。今何階なのかが全く分からない。
そんなこんなで俺は非常用インターホンのボタンを押してみたのだ。
返事はなかった。具体的な非常事態でなければ、そもそも繋がらない仕組みなのかもしれない。つまりその場合、乗客(俺)の単なる不安は、具体的な非常事態ではないということだ。
ただ、インターホンからは小さな話し声が聞こえた。俺はそれを盗み聞くことにした。
……世界は科学によって解明される……もちろんさ。科学技術がそれまで不可能だった実験を可能にするからね……そういう意味じゃないんだ。そういう意味もあるけど違う……何がさ?……科学技術は人間の頭脳にそれまでは起こりえなかった理解をもたらす……というと?……例えば、僕らが管理しているこのエレベータは等加速度運動と重力の関係を理解する上でとても役に立つ……等加速度運動と重力は同じものさ……そう。それを実感するのにエレベータほど便利なものはない……けど、あのユダヤ人はエレベータから閃いたわけじゃないだろう?……それは知らないけど、エレベータに乗れば誰でも等加速度運動と重力が同じだと実感出来るという点が重要なのさ。科学は科学的ではない万人に受け入れられてこそ世界を解明したことになるからね。エレベータに乗ったことのある者なら誰でも等加速度運動と重力が同じだという説を実感として受け入れることが出来る……サイレンを鳴らして通り過ぎる救急車のおかげで、誰もがドップラー効果を受け入れられるのと同じか……そう。それは理論の証明というより世界体験の拡張だよ。科学によって人々の世界体験が拡張されると、人間の頭脳は新たな世界像を獲得する。
俺はインターホンから耳を離し、エレベータのドアに手をかけた。手動式。開けて外に出る。俺の乗っていたエレベータは川の中州の粗大ゴミで、箱の屋根から伸びたワイヤーが一本、空の彼方にまっすぐ伸びていた。
2019年1月26日土曜日
■生物種にはそれぞれ「持てる声の大きさ」の限界がある
NHKドラマ『フェイク・ニュース』を見ていて思った。生物種が持てる「声の大きさ」には、それぞれ限界がある。言い換えるなら、或る生物種が、個体として持てる「声の大きさ」の限界を超えた時、その生物種集団には、制御不能な混乱(過ぎ去るのを待つしかない嵐のような)が頻発するようになる。鼓動の速さと寿命に相関性があるように、声の大きさと「安定的な集団の形成能力」にも相関性がある。
**
「メッセージの伝達/伝播/拡散」という観点からすると、メディアとは、つまりは〈大声〉のことだ。声が大きければ、多数の人間/遠くの人間に、メッセージを伝えることができる。かつて、この〈大声〉は、いわゆる「マスメディア」にしかなかった。インターネット(SNS)の普及によって、全ての個人が〈大声〉を出せるようになり、社会のアリヨウが変わった。全ての個人が、潜在的/原理的に、より多くの人間/より遠くの人間に声を届けられるようになって、社会には、便利や恩恵も生まれたが、それと同じくらい混乱と動揺も生まれた。
みんなが〈大声〉を手に入れたのなら、一周回ってみんな同じ声の大きさで、だから何の問題はないだろう、と思ったらオオマチガイだ。
声が大きければ「動員をかけられる」。すなわち、より大勢で集まって何かヤラカスことができる。アイツも声は大きいが、アイツのことが嫌いなオレも声が大きい。すると、アイツもオレも同じように「動員をかけられる」。集団対集団で、お互いを潰し合う。ごくお手軽に、個人発信で、「暴動」「抗争」「戦争」を仕掛けられる。
ひとりぼっちの「助けて」を世界中に響かせることが出来る〈大声〉は、独りよがりの「ヤツラを殺せ」も世界中に響かせることができる。「全員の声が大きい」とはそういうことだ。問題、大ありだ。
新聞やラジオやテレビは、声は大きくても、結局は組織だ。組織は[社会内社会=メタ社会]だから、やっぱり、社会の[仕組み=力学]が機能する(効く)。つまり、社会の[仕組み=力学]で動いている新聞やラジオやテレビは、いくら声が大きくても、(たぶんいい意味で)社会に阿ったり、すり寄ったりする。商売として成立したい/しなければならないという「意識」も「イイ」方に働く。
一方で、SNSをはじめとするネットに於ける個人発信の〈大声〉は、個人の「積み上がり/寄せ集め/たくさんの個人」でしかない。当然、社会の[仕組み=力学]が通じないから、ムチャしがち。
個人発信の〈大声〉は、アナログ的にではなく、デジタル的に広がって行くことで実現される〈大声〉。
ここでいう「アナログ的」とは「伝言ゲーム的」ということ。SNSこそ伝言ゲームだと思われがちだが、それは違う。「アナログ的」の喩えとしての「伝言ゲーム」はフツウの伝言ゲームだ。それは参加者のやる気や能力やらに「ばらつき」があるということ。だから、伝言がゲームになりうる。喩えは極端にした方がイメージしやすい。「アナログ的」の喩えとしての「伝言ゲーム」の参加者の中には、全くやる気のない者や、聞いた伝言を次の者に伝えるべきではないと判断する者や、あるいは、地蔵、猫、丸太などでさえ混じっている。つまり、伝言が途中でドウニカなってしまう可能性が非常に高い。ちょうど、乾いた地面の上を水が広がって行くとき、途中に、地割れや、山や、高分子吸収シートや、クジラの死骸があれば、水の広がりはそこで止まってしまうのと同じ。ここではそのようなものを指して「アナログ的」という。
では「デジタル的」とはどういうことか? そう、離散的ということだ。0と1の組み合わせ、有ると無いの並び。1と1の間に、どれほどの0が挟まっていても(言い換えるなら、なんらのつながりがなくても)、次の1、その次の1と「つながり」続ける(うん、わかりにくい。しかも、本来のデジタルって、多分そういう意味じゃないだろう)。敢えて「伝言ゲーム」の喩えでいうなら、それぞれの間にどれだけ多くの無関心者、非協力者、あるいは人間以外が座っていても、なぜか伝言が、タローからジロー、ジローからサブロー、シローへと、全ての〈潜在的な賛同者〉に問題なく伝わって行く。伝わって行くというか、まあ、知るところとなる。それは、別の見方をすれば、参加者全員がなぜか一人残らずやる気満々で、しかも一字一句間違わない能力を備えた者たちばかりの伝言ゲーム(もはやゲームにはならないが)。それが「デジタル的」という意味だ。
アナログ的伝言は、途中の伝言者たちの色々なフルマイが原因で、伝言内容(メッセージ)が徐々に劣化していく。時間もかかる。そして、最終的には霧散する/野垂れ死ぬ。一方、デジタル的伝言は「非協力的な中間伝言者」の影響を一切受けないので、劣化も消滅も死に絶えもしない。それは、「信じる者」の脳や意識や魂に直接話しかけてくる神だの精霊だの悪魔だの先祖だののコトバに似ている(もちろん、その場合[ネット接続された端末]という[amulet=オマモリ]は必携である)。対象者を全地球規模と考えた場合、どちらが、より多くの伝言賛同者を集めるかは明らか。ネット発信の〈大声〉は、相対性理論的ではなく、量子論的に広まり、ゆえに時空間を無効化してしまう。大きな動員や賛同や暴動に繋がりやすい理由はここにある。
**
などと、くどくど書いてきたけど、こんなことは誰でも知ってることだからドウデモよくて、件のドラマを見ながら、イチバン「ああーなるほどこりゃ確かにダメだ」と思った「ダメの中身」は、初めに書いた通り、[生物としての人間のそもそものスペックが、個人発信の〈大声〉に非対応]ということ。もっと正確に言うと、[個人がそれぞれにマスメディア並みの〈大声〉を手に入れた時に、そういう個人が集まって作った社会を、人間はどうやら制御できない]ということ。
うん、まだ不正確。
人間に可聴音域や可視光域が厳然と存在しているように、あるいは、恋愛感情を持ったり、子供を欲しがったりすることが人間にとって「アタリマエ(生物としての逃れえない宿命)」であるように、[或る意見に賛同し、その賛同者が或る一定以上の人数集まった時に、集団ヒステリー状態に陥ること]は、これはもう、人間の生物としての「本性」で、このこと自体は、まあ、どうにもならないのだが、人間は、自分たちのこの「本性」に気づいていながら、その陥穽に落ちてしまうようなことをやめられない。それこそが「ダメの中身」。まるで、自分の正体を知っていながら満月を見ずにはいられない狼男。
集団ヒステリーを起こしうるだけの人数に届けられるだけの〈大声〉も、銃の殺傷能力も、組織の所有であるうちは制御可能だ。先にも書いたが、組織とはメタ社会だからだ。そうした能力が、人間の手にあまり始めるのは、社会を構成する全ての個人が、それらを手に入れてしまった時だ。自前の声やゲンコツのつもりで、「ついカッとなって」「ほんの出来心で」、SNSの〈大声〉や銃の〈暴力〉に「モノを言わせる」個人が、百万人に一人いれば、地球全体でその数は(70億割る百万で)7000人になる。7000人の扇動家/世直し屋/中学生に引きずられて、毎日のようにどこかで「正義のため」「子供達の未来のため」「人類のため」あるいは「世界の終わりを果無んで」行進や暴動や大量殺人が起きる。当然、世の中はシッチャカメッチャカ。
繰り返しになるが、問題の本質は、SNSの〈大声=情報の拡散性〉や銃の〈暴力性〉の強大さ強力さそのものではない。問題の本質は、それらの使用が、制御不能で取り返しのつかないことになると分かっているにも関わらず、実地では、自前の大声やゲンコツと同じように、「ついカッとなって」や「ほんの出来心で」を適用してしまうことを、人間が個人レベルでは(というとは、自由で民主的な社会では)防げないこと、すなわち制御不能なことだ。この制御不能性こそが、「人間の限界」であり、この問題の本質であり、今、ネット社会ならではの、動揺や不安や混乱を引き起こしている根本原因。
まあ、自動車や旅客機や原子力発電の「利用」についても同じ「病根」が存在し、それは、「自分自身の死」を「棚上げ」にして生きるしかない人間の持病なのだが、それはまた別の機会のオハナシ。
2018/10/31 アナトー・シキソ
僕の腕時計
僕の腕時計の秒針は1秒を刻めない。
壊れてる。
でも狂ってはいない。
つまりこうさ。
最初の目盛りに1.4秒掛かるけど、
次の目盛りを0.6秒で取り戻す。
合わせればちゃんと2秒。
だから少しも狂ってはいないんだ。
現の虚 2014-6-4【流体力学について語る靄】
平均的で自由な皇帝が文士のナガサに及ばぬ時、世界は一体であるとみなせる、とそのデンマーク人は云ったのさ。ホラ、ここにそう書いてある。
階段下の二人掛けの小さいテーブルで、俺は、人型をした薄緑色の靄に古い日記を見せられた。薄緑色の靄がもう相当に酔っていることは分かっている。俺の目の前で、目から火の出るような蒸留酒を何杯も飲み干してまだやめない。俺のグラスには最初に飲み干した後に注がれた二杯目がまだソノママある。靄が云う。
デンマーク人の名前は分かっている。マルチンだ。マーティン、マルチネス、マルティーニ。この名前はローマ神話のマルス、つまり火星が語源だと云われてる。
薄緑色の靄は、人型を崩しながら更に一杯、透明な蒸留酒を呷った。俺は小皿のナッツを摘んで齧る。頭の上に斜めに走っている階段を誰かが登って行く足音。二階は宿になっていると聞いた。一晩20ゴールド。ただし馬小屋に寝るならタダだ。俺は両替をしてないから、目の前の靄の話がこれ以上長引いて、もしここに泊まることになったら、選択肢は馬小屋しかない。酒はこの酔っぱらいの奢りだ。
平均的で自由な皇帝というのは、特定の誰かというより、ヒラけたアタマを持った公正な皇帝という意味だろうね。分からないのは、ナガサという文士さ。文士というのは、戯曲家や小説家や詩人やいろいろある。うっかりすると道ばたで自作の詩を吟じる乞食だって、ありゃあ文士ってことになる。本来、文士と乞食は同義だもの。そういうわけで、謎の文士ナガサを探し出すのは簡単じゃない。
と、ここで人型の靄が顔の部分を俺に突き出した。間近で見るその顔は、靄とは思えないほど明瞭な輪郭を保ち、はっきりと個人を区別できる人間の顔をしていた。
つまり、毎月集金に来る新聞屋の男の顔だ。
マルチンさ。マルチンという名前が大きなヒント。マルチンといえば、まず思いつくのが、もちろん、マルチン・ルター。そう、16世紀の宗教改革者。ニッポンで云えばシンランみたいなモノだね。だから、このコトバを云ったのはルターなのさ。彼ならいかにも云いそうじゃないか。
いや、けど、ルターはドイツ人だろ?
そうだったかな?
その時、今までおとなしく床に寝そべっていた店の犬が、人型をした薄緑色の靄に向かってケタタマシク吼えた。靄と俺は吼える犬を見る。
クヌーセン、このバカ犬、静かにしねえか!
店主に怒られた犬は悲しげに喉を鳴らして身を伏せた。
2019年1月25日金曜日
■「なんのために生きてるのかわからない」は極フツウの反応
アドレセンスな連中いわゆるワカモノがときどき口走る「なんのために生きてるのかわからない」は、人間の生き方が、生き物としてのアリヨウに背いていることから起きる。すなわち、上に挙げたようなワカモノの年くらいになると、生物学的には普通に子供を産める(持てる)。たまには産みそこなって死んだりもする。そうやって死んだ者は、無論「なんのために生きてるのかわからない」とは、もう呟けない。一方、無事に産んで、親になったら、今度は生まれた赤ん坊が、生き物として持っている「問答無用の生存欲」が、親(いわゆるワカモノ)の「なんのために生きてるのかわからない」を蹴散らしてしまう。やはり、もう「なんのために生きてるのかわからない」なんて呟いている「余裕」や「迷い」は生じない。生物としては既に子供を産める(持てる)状態になっているのに、それが実現していないのだから、「なんのために生きてるのかわからない」という隘路に迷い込んでしまうアタリマエのこと。事実、生命現象的には、なんのために生きてるのかわからないのだから。
ところで、アドレセンスな連中いわゆるワカモノが親になってしまって苦しむことがあるのは、生命現象であることよりも知性現象であることをヨシとする現代の人間社会の[自覚のない「否認」や「悪意」や「拒絶」]が原因で、その個体の問題ではないよ。
(アナトー・シキソ 2018/06/04)
電信柱を支える男
電信柱を支える男。
雨が降っている。緑の雨合羽が街灯に光る。
俺の仕事が馬鹿げてると思うか?
見ろ。この柱。この柱が町の生命線。
そして俺はその柱を支える。
誰一人知りやしない。
誇りだよ。俺だけのひそかな誇り。
現の虚 2014-6-3【ディンク】
気にしなくていいわ。時間は主観だから。アンタがコントローラのボタンを押さずに博士の発言を先に進めなければ、博士の時間は、アンタから見ると止まってるけど、博士自身にとってはタダの一秒も止まってない。
コビはそう云うと、鞄から小さな五徳と金属製のカップとジッポーを取り出し、ちゃぶ台の上に並べた。4畳半のアパートに強引に取り付けられた小さな流しの水道でカップに水を汲んで五徳の上に置くと、ポケットからクレンジングオイルが入ったような掌サイズのボトルを取り出し、頭のポンプを押して、金色のドロっとした中身を一雫、カップの水の中に落とした。最後にジッポーに火をつけ、カップの載った五徳に下に差し入れた。
俺はテレビに向き直りゲーム機のコントローラのボタンを押して、画面の中でずっと待ってる博士の発言を進めた。博士は、人工人格を作る技術を最初に示したのは実は死神(意外な登場!)なのだが、具体的な装置は殆ど博士が一人で作り上げたのだ、と全部カタカナで自慢していた。
なんていう飲み物?
飲み物じゃないわ。
ジッポーの火に熱せられたカップの中身がプシプシ音を立て始めた。
いいわ、行きましょう。
途中だけど?
いいのよ。
俺はコントローラをちゃぶ台の上に置いた。
部屋を一歩出ると、外はやはり黒一色の世界だった。またしても俺は白杖をなくしたモージンのように、ドイツ製暗視ゴーグル「ナハト・ヴァンピール」を付けたコビに手を引かれて暗闇の中を歩いた。歩きながら、テレビもゲームも電灯も、そしてなにより火のついたジッポーをそのままにしてきたことが気になっていた。火事の心配だ。
平気、と暗闇の中からコビの声がした。
俺は真っ暗な中を手を引かれて歩く。板張りの床は何度か折れ曲がっているうちにカーペット敷きに変わった。音の反響も少し変わったから、さっきより広い場所に出たのだろう。廊下から広間に入った感じだ。
正解。玄関ホールよ。
だが、相変わらずの真っ暗闇。と思ったら、遠くから小さな光が駆け足で近づいて来た。現れたのは、ランタンを提げた、体の曲がった小さく乾涸びた老人だ。老人はまず、暗視ゴーグルを付けたコビの顔をランタンで照らし、妙な顔じゃの、と云ってから、今度は俺の顔を照らして、歯のない口でふにゃりと笑った。
役立たずというコトバは、己の無知を知らぬ者が云い出したんじゃろな。
老人はそう云うと、ランタンの蓋を開け、クサイ息で炎を吹き消した。
2019年1月24日木曜日
■コンコルドの呪い
見るつもりで録画してあった番組を、いざ見始めると、意外につまらない。ここで「せっかく録画したのだから」と思ってイヤイヤでもその番組を見たなら、それは「コンコルドの呪い」である。番組を録画したことでその分の電力は確かに浪費したが、アナタの人生の持ち時間はまだ浪費されてはいない。録画した番組がつまらないことに初めの方で気づいたら、そのあとは一切見ないで、潔く消去してしまおう。そうすれば、少なくとも、アナタの時間は[その番組を見ることで浪費される]ということはなく、他のことに活用できる。人間はすぐに死ぬぞ。
(アナトー・シキソ 2018/04/24)
*「コンコルドの呪い」とは、経済学者がいうところの「埋没費用(サンク・コスト:sunk cost)の誤謬」。運用すればするほど損を出していくコンコルド(超音速旅客機)を、「せっかく大金をつぎ込んで開発したんだから」という理由で、いつまでも見限ることができない状態。あるいは、「死んでいった兵たちに申し訳がない」と云って負け戦を続けて泥沼に陥りがちな軍人のソレなど。
携帯電話に毛が生えた
携帯電話に毛が生えた。
画面とボタン以外、真っ黒いのがビッシリ。
電話中にチクチクと堪らない。
一週間でフサフサになった。
さすがに邪魔なので、カミソリでツルツルに剃り落す。
だけど、一夜明けたらもうゾリゾリ。
現の虚 2014-6-2【人工人格/人工幽霊】
粗いドット絵の太った髭面の湯上博士の胸元にフキダシが現れ、博士の言葉が打ち出される。骨董的ゲーム機のスペックの限界で全てカタカナなのがツラい。しかも、小さい「ツ」や「ヤ」は大きいままだ。
ワタシ・ハ・ドクター・ユガミ。ジンルイ・シジヨウ・サイダイ・ノ・テンサイ・デアル。ワタシ・ハ・コノバシヨ・ノ・アルジ。イノチ・ノ・ナンタルカ・ヲ・トキアカシタ・ワタシ・ハ・コノバシヨ・デ・エイエン・ニ・イキツヅケル。
文の終わりに点滅する逆三角形がある。続きがあるようだ。コビを見ると、頷く。俺はAボタンを押した。
イノチ・ガ・ナンデ・アルカ・ハ・イノチ・ニ・トッテ・サシテ・ジユウヨウ・デハ・ナイ。ナンデ・アッタカ・ガ・ジユウヨウ・ナノダ。イノチ・ハ・ゲンザイ・ニモ・ミライ・ニモ・ナイ。タダ・カコ・ニ・ノミ・アル。
哲学的な問題は、云えば誰でも好きなことが云えるものだ。ソレは結局どこまで行っても所詮はソイツがそう思ってるだけのコトだから。俺は密かにそんな感想を抱きつつ、セリフの続きを表示するためにAボタンを押した。
テツガク・ノ・モンダイ・デハ・ナイ。
力不足のゲーム機が表示する粗いドット絵の湯上博士が、俺の心の声に反論した。いや、テレビを観ていても、観ているこちらの独り言を、テレビの出演者が聞いて答えたかのように思える偶然はタマにある。それと同じだろう。
クスリ・ナシ・デモ・キミ・ガ・シナズ・ニ・スム・ホウホウ・ハ・アル。スナワチ・フクサヨウ・カラ・ノ・カイホウ。
どうやらその手の偶然ではないらしい。俺はまたコビを見た。
コビの解説をまとめるとこうだ。湯上博士は、フルネーム湯上絵馬という変な名前で、本当に大天才だが、もう死人で、今は自分が発明した人工人格となって、コンピュータ・ネットワーク上に存在している一種の幽霊だ。それもタダの幽霊じゃなくて、科学に基づく人工幽霊(=人工人格)だから、実際に存在していて、然るべき装置さえあれば、たとえ自分の脳の側頭葉にレビー小体が過剰に存在しなくても、見れるし、会えるし、話が出来る。更に、人工幽霊(=人工人格)は博士一人ではなく、無数にいて、それはこれまでに死んだ人間や、まだ生きている人間や、あるいはゼロから作り出された人間と多岐にわたる。博士は、そういう大勢が活動する場を、ネットワーク上に仮想空間として構築し、「ニルヴァーナ」と名付け、そこに「住んで」いるのだ。
2019年1月23日水曜日
■鈴木差別
ちょっと前に、グラミー賞かなんかの偉い人が、受賞者に女性が少なかった結果を見て「女性はもっと頑張れ」と云ったら、「女性は十分頑張ってる」と噛みつかれたというニュースを読んだけど、噛みつかれた方も噛みついた方もドウカと思うね。
或る人物に注目した時にその人物の性別に目が行くのは、性別をその人物の判断基準の一つとみなしているから。だから、上の「女性はもっと頑張れ」は、女性を応援することで男女平等の立場を表明しているようでいて、実は、性別を考慮に入れる必要のない状況でさえ人間を男と女に分けて考えているという点で、根深い性差別意識の表明になっている。一方で、「いや、女性は十分ガンバッテる」と噛み付くのも「女性はもっと頑張れ」と同じ次元の発言で、根底には性差別意識がある。なぜなら、「女性はもっと頑張れ」という発言の持つ、そうしなくていい場面でも人間を女と男にわけて考えるという考え方、つまり性差別の思考形式に無批判であるばかりか、むしろその前提を認めた上での反論だからだ。
もし、本当に性差別意識がないなら、グラミー賞の受賞者が全員男でも全員女でも、そんなことまったく気にならなないはずだし、「女性はもっと頑張れ」という発言に対する噛みつき方も、「いやいや、それぞれの受賞者はその性別を代表しているわけでもなんでもはないだろう、馬鹿野郎(男性と女性がそれぞれのチームになって賞レースを競っているわけではないから)」となるはずだ。
こんなことはちょっと考えればすぐにわかることで、例えば、何かの受賞者の姓が全員「渡辺」だったとして、賞の偉い人が「鈴木はもっと頑張れ」とは云わないし、それに噛みついたどこかの鈴木が「いや、鈴木は十分頑張ってる」とも云わない。もはや「姓差別(誤変換ではない)」は存在してないから(お家大事の封建社会ではあっただろうけど)、いまやそういう場合の「姓」の偏りに目が行く者など一人もいない。せいぜいがその偶然をオモシロがるくらいだ。
性差別もそうだし人種差別もそうだし、いわゆる部落差別なんかも同じなんだけど、差別対象を対置して「こっちとあっちのバランスを取ろうとする」やり方は、「こっちとあっち」という意識を手放す気がない点で、それ自体が差別意識の現れであり助長であり「延命」行為となる。上の「鈴木差別」の例でいうと、渡辺が多くて鈴木が少ない状況を変えるために、意識的に鈴木を増やそうとするのは、差別意識の先鋭化をもたらすだけ。本当に取らなければいけないのは「苗字なんか関係ねえよ」という態度。
つまり、差別問題の本質は、例えば、或る数式に〈不要なパラメータ〉が組み込まれることで本来なら起こるはずのない混乱や誤りが生じることと同じなのだから、やるべきことは〈不要なパラメータ〉の〈調節〉ではなく、〈不要なパラメータ〉それ自体の〈排除〉だということ。
(2018/02/08 アナトー・シキソ)
世界で一番幸せかもしれない人
死んだら、みんなが喜んで、悲しむ者など一人もいない。
そんな人がいたら、その人は世界で一番幸せかもしれない。
たった一人で、世界中をハッピーに出来るんだから。
でも、生きてるうちにそれを知るのは、ヤだよね。
現の虚 2014-6-1【ナハト・ヴァンピール/クンツサンポ】
廃墟のスーパーは暗かったが、その床下にあった秘密の空間は更に暗かった。真っ暗だ。俺には何も見えない。だがコビは、ドイツ製の「ナハト・ヴァンピール」という暗視ゴーグルを付けて、真っ暗な中を自由に歩き回っている。ナハト・ヴァンピール。英語で云えばナイト・ヴァンパイア。つまり「夜の吸血鬼」だ。
その、夜の吸血鬼が何か見つけたらしい。
拾って、パンパンと埃を払う音。それからグイッと手首を掴まれた。俺はモージンのようにコビに手を引かれて、真っ暗闇の中を歩き出す。すぐにコビの指示で少し屈む。その姿勢でしばらく歩き、もう大丈夫と云われ、背中を伸ばし、更に歩いて止まった。鍵のかかったドアをコビが例の盗賊スキルで開けている音がする。ドアが開く音。空気のニオイが変わる。温度も少し下がった。登りの階段と云われて、恐る恐る足を持ち上げ見えない階段を登る。階段終わりと云われて普通に歩く。足元の感じが変わった。コンクリートから板張りになった。着いたわ、という声に続いて引き戸が開けられる音。
ちょっと待ってて。
その場に突っ立って待つ俺。カチン、カンコロコンと音がして白い光が跳ね回る。旧式の蛍光灯が点いて眩しい。
俺は、和室4畳半のアパートの部屋の入り口に立っていた。小さい流しと小さい押し入れ。時代がかった丸いちゃぶ台の上に小型の白黒テレビ。それに昔のゲーム機が繋がれている。赤と白のツートンカラーで、子供が踏んでも絶対に壊れない設計の、一世を風靡したアレだ。
靴脱いで上がってよ。
そう云いながら鞄に暗視ゴーグルを仕舞うコビの足もとを見ると、ちゃんと脱いでいた。部屋はキレイに掃除されている。空き家ではなく、誰かが住んでいるということだ。
俺は脱いだ靴のヒモ同士を結んで、それを自分の首から提げた。
何してんの?
前に靴をなくしたことがあるんだ。
あら、そう。
コビがポケットから埃だらけのカートリッジを取り出してゲーム機に差す。テレビをつけてゲーム機の電源を入れると、四隅の丸い白黒画面に粗いドット絵でナニカが描き出された。胡座をかいた男の正面に裸の女のが抱きついているように見える。何これ?
クンツサンポよ。
何散歩?
法身とも云う。
音は?
容量を食うから入ってない。
どんなゲーム?
ゲームじゃないわ。
コビがゲーム機のコントローラを渡す。俺はスタートボタンを押した。ナントカサンポは消えて、粗いドット絵の太った髭面が現れた。
誰?
湯上博士よ。
2019年1月22日火曜日
■火とAI
火を使い始めた頃の人類(原始人?)にとって、火は「物を燃やす」「暖をとる」「夜を明るくする」ためのものだった。それだけでも充分に有用なものだ。しかし、それが、社会や科学の発展を支え促し、その結果、月にロケットを飛ばしたり、遺伝子を解明したりすることに繋がるとは、当時は考えもしなかった(はず)。
AIに対する今の人類の認識は、まあ、この、火に対する原始人の認識と似たり寄ったりだし、人類にとってのAIの意味も、この、火の意味にホボ等しい。AIを単なる便利な道具と捉えて、いくら議論してもナニモ始まらない。
火が月にロケットを飛ばしたように、AIは知性現象を生命現象から解放する。そして、人類は「自発的絶滅」の道を選ぶか、あるいは、相変わらず、頭抜けた知力を武器に|まるで多剤耐性菌のように|生命現象界を「蹂躙」し続け、最後は「宇宙災害」によってアッケなく滅ぼされる。
2018/11/14 アナトー・シキソ
現の虚 2014-5-9【レジ台の下】
コビが死神だと主張する、顔面包帯グルグル巻きの赤目の男に次に会った時、俺は、俺を苦しめてるクスリの副作用を消す方法を知っているか訊いてみた。
もちろん。
じゃ、アンタは死神?
よくご存知で。
死神は床に落ちていた地下鉄の切符(使用済み)を拾って、それに鉛筆である住所を書いて俺に渡すと、そこに行けばいいよ、と云った。それは俺の全然知らない住所だった。魔女に見せれば分かるさ。ところで、とおしゃべりな死神。住所って変な言葉だと思わないかい。誰かが住んでるなら住所ってのも分かる。けど、誰も住んでいない会社でもその所在地は住所と云う。アレは、会社が虚構の人格だからさ。会社は法人という一種の人間なんだ。だから、会社が住む所という意味で住所。
という話を聞かされたとコビに話したら、デタラメよ、と一蹴された。
いかにも死神が云いそうなことね。時間が無限にあると、時間を無駄にすることが苦にならなくなるのよ。
コビは、今は誰も住んでない一階がスーパーだったマンションの、裏手にある商品搬入口の横のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていたが、コビは使い慣れた感じの妙な道具を使って、あっさりそれを開けた。もしコビが本当に魔女なら、きっと、盗賊から「転職」した魔女なのだ。
廃墟のマンションは、ヒトケどころか電気も水も来てない様子で、昼間なのにとても暗く、カビと埃のニオイに埋もれていた。本当にこんな所に俺の副作用をどうにかするナニカ、もしくはダレカが、あったり居たりするんだろうか。しかし、コビに拠ると、ココこそが死神が教えてくれた住所なのだ。
ここが元スーパーだったからというわけではないだろうが、コビは背負っていた鞄からポス端末のような装置を取り出した。もちろん棚卸しの作業を始めるわけではない。第一、棚に商品は一つもない。そもそも、コビの装置はポス端末に似てはいるがポス端末ではない。では何の装置かと訊かれても、俺には分からない。
ポス端末に似た謎の装置を覗き込みながらガランとした中を歩き回ったコビは、最後に、五つあるレジ台の端の一つの下に潜り込み、何かをベキッと引き剥がした。その辺に置いといて、と、今引き剥がした板を俺に渡すと、暗視ゴーグルを装着して、床に開いた真っ暗な穴に頭を突っ込んだ。
あ、あった。へえ、こんな所にもあったのね。
コビはそう云うと、穴から頭を抜き、暗視ゴーグルを付きの変な顔で盗賊っぽくニヤリと笑った。
スパゲッティB面
スパゲッティを茹でてる間に恋をした。
走って行ってドアを開け、至極真面目に打ち明ける。
少しだけ、待って欲しいの。
いや、待つ訳にはいかない!
スパゲッティを茹でてるんだ!
二人で帰って、スパゲッティを食べる。
■生態系の頂点が最も立場が弱い
たとえば、植物プランクトンやナンキョクオキアミのような〈ちっぽけ〉な生物が絶滅すると、たくさんの生物が困ることになりそうだけど、人間のような〈複雑〉で〈高度〉で、まあ〈偉大〉な生物が絶滅しても、他の生物が困る姿は全く想像できない(ペットとか動物園の生物はアウトだけど、こういう連中は、本質的にすでに〈亜人間〉だからね)。
これは…なんだろう? 生態系の「上位」に居るということは、実は、生態系にとって|切り捨て易い存在|ということで、これはつまり、生態系を構成する生物としての存在意義は弱まっているということなのかもしれない。生物は生態系の頂点へと登り詰めていくに従って、より生物ではなくなっていく。より生物ではなくなるというのは、生命現象から遠ざかるということ。
2018/11/19 アナトー・シキソ
2019年1月21日月曜日
■風船より定規で
遠くの銀河ほど速く遠ざかっていることが、なぜ、宇宙が一様に膨脹している証拠になるのか?
観測すると、遠くの銀河から到達する光は赤方偏移を起こしている。赤方偏移は光のドップラー効果で、光源が遠ざかっていることで波長が伸び、もとの光よりも赤く見える現象のことだ。遠ざかる救急車のサイレンの音程が低くなる「音のドップラー効果」は有名。発信源が遠ざかると、音は低くなり光は赤くなる(因みに、逆の場合、音は高くなり光は青くなる=青方偏移)。この赤方偏移の度合いは、遠くの銀河から届く光ほど強くなる。これは、より遠くの銀河ほど、より速く遠ざかっていることを意味する。光のドップラー効果を考えるとそうなる。ではなぜ、遠くの銀河ほど速く遠ざかるか? それは宇宙が一様に(どの場所も同じように=中心点を持たずに)膨脹しているからだ。
ここで躓いて、最初の疑問が頭をモタゲる。
そこで必ず持ち出されるのが「膨らむ風船」の喩えで、これが実にナッテナイ。分かり難いことこの上ない。風船の喩えとはこうだ。表面にたくさんの銀河を描いた風船がある。この風船を、より大きく膨らませると、離れた場所に描かれた銀河同士ほどその距離が大きく広がる。以上。全然ピンと来ない。風船が膨らむことで全ての銀河が一様に離れるのはイメージできるが、より離れた銀河同士の方が〈より大きく=より速く〉離れるかどうかがよく分からない。
風船より定規の方がずっと分かりやすい。
次元をひとつ落して、宇宙を一本の定規と考える。定規には1センチごとに目盛りがあり、目盛りごとに銀河がひとつあると考える。1センチ離れた銀河同士は1センチの間隔で、10センチ離れた銀河同士は10センチの間隔。即ち「近くの銀河」と「遠くの銀河」だ。次に、この定規の1センチの目盛りが全て1ミリずつ伸びる(=宇宙が一様に膨脹することに相当)。定規の各1センチがそれぞれ1ミリ伸びて、1センチ1ミリになる。最初1センチしか離れていなかった近くの銀河との距離は1ミリ増えるだけだが、最初10センチ離れていた遠くの銀河との距離は一気に10ミリ(=1ミリ×10個)増えることになる。これなら「宇宙が一様に膨脹すると遠くの銀河ほど速く遠ざかる=遠くの銀河ほど速く遠ざかるのは宇宙が一様に膨脹しているからだ」をイメージしやすい。
膨らむものを膨らむもので喩えちゃダメだよ。
2017/06/16 アナトー・シキソ
スパゲッティA面
スパゲッティを茹でてる間に恋をした。
走って行ってドアを開け、至極真面目に打ち明ける。
少しだけ、待って欲しいの。
いや、待つ訳にはいかない!
スパゲッティを茹でてるんだ!
一人で帰って、スパゲッティを食べる。
現の虚 2014-5-8【魔女と死神】
今日、地下街で、ちゃんと人間の姿をした男に会ったよ。
俺がそう云うとコビの箸が止まった。止まった箸の先の刺身は、一瞬、わさびを溶いた醤油の小皿に戻りそうになったが、それじゃあ醤油をつけすぎることになると思ったのだろう、当初の予定どおり彼女の口に収まった。
その男、目の白目も黒目も赤くなかった?
そうだけど、よく知ってるね。
ああ、ソイツ、死神よ。
俺は思わず笑いそうになった。コビの云った死神という単語がバカらしかったからじゃない。コビが死神だと云ったその男は、コビのことを魔女と呼んだのを思い出したからだ。
ちょっとそこで缶珈琲でも飲みながら話そうじゃないか、と俺を誘った顔面包帯グルグル巻きの赤い目玉の男は、俺に奢らせた缶珈琲で煙草を吸いながら、俺の身に起きたここ何日かの出来事を聞き出した後で、ヤッパリネと頷き、
その小さい女は間違いなく魔女だ。
と云ったのだ。もしどちらの云い分も本当なら、人間界に潜む魔女と死神が、お互いの正体をばらし合って、いったい誰に何の得があるのだろう?
魔女だなんてバカバカしい。
他人を死神呼ばわりしたコビが、大根のツマを食べながら半笑いで云う。
アタシは魔女じゃない。けど、ソイツは死神。
俺は服に醤油が飛ばないよう慎重に刺身を口に運ぶ。
でも、死神なら知ってるかも。つまり、今アンタを苦しめているクスリの副作用をどうにかする方法よ。いや、きっと知ってるわ。なんせ、大昔から無駄にずっと生き続けてるわけだから。
なるほど。でも、また会えるかどうかわからないよ。
会えるわ。アンタが、外で人間を見かけたら、それは死神なんだから。普通は死神を見つけ出すなんて不可能よ。死神にはコダワリのスタイルも制服もないから人間と全然見分けがつかないもの。けど、クスリの副作用で、今のアンタは、命を持った人間がチガウモノに見えて、逆に、命がないのに人間の姿をしている死神だけが人間のカタチに見える。それで、今日も大勢の人間の中に紛れ込んでいる死神を簡単に見つけることが出来た。またきっと見つけられるわよ。それで、次に死神に会ったら、クスリの副作用を消す方法を訊いてみなさいよ。たぶん教えてくれるから。死神ってヒマを持て余してる隠居老人みたいなもんだから、お節介なことが大好きなのよ。それにしてもちょっとした発見ね。アンタを苦しめる副作用が、厄介な障害じゃなくて、死神を見つけ出すための便利な能力だったとはね。
2019年1月18日金曜日
世界の矢印の全てが
世界の矢印の全てが君に向いていたら気をつけろ。
それは現実の世界じゃない。君自身の内側だ。
君の体は裏返しになってしまっているのさ。
やがて、君の晒された内側は乾涸び、
君はそれを、世界の終焉として体験する。
現の虚 2014-5-7【地下街のグルグル】
命を救うためという理由で、当人の了承なしに勝手に注射された正体不明のクスリのせいで、外出中に出会う全ての生き物が「チガウモノ」に見えるようになって約一週間が過ぎた。
俺は精神的にギリギリだった。
想像してみてほしい。人間サイズの魚肉ソーセージの一団と一緒に満員電車に揺られる毎朝の通勤を。あるいは、帰り道、ビルの隙間からこちらを振り返るブキミな深海魚「デメニギス」(透明な頭の中に目玉がある、宇宙服のヘルメットを被ったようなデザイン。本当は野良猫のはず)と目が合うことを。
いや、何よりも、勤務先の現場でのアレヤコレヤがもうアレだ。朝一番に会社の前を掃除するヒカリキンメダイに挨拶し、馬の鞍の指示を仰ぎ、ペットボトルへ電話を取り次ぎ、怠けてるスタッドレスタイヤを怒らせない程度にタシナめ、テレビのリモコンの浮気がバレそうなんだどうしようという話を自業自得だと笑い、電子レンジが繰り返す上司に対する悪口を聞き流さなければならない。しかも次の日には、会長や上司や部下や同僚が正体のそれらの姿は、またまるでチガウモノになっているのだ。
そんな一週間の終わりの金曜の夜。男物や女物の冬服に身を包んで地下街を歩くマッチ棒や電気湯沸かし器やその他雑多なモノたちにまぎれて家路を急いでいた俺は、もはや人ごみとも云えない人ごみの中にソレを見た。人間だ。この一週間、外出中には一度たりともお目にかからなかった人間の姿をした人間。
黒のロングコートを着て、緑色のまん丸いサングラスを掛けた長身。首から上が包帯でグルグル巻きになっているのが不気味だが、それでもちゃんと人のカタチだ。ソイツは、禁煙の地下街のコンコースのド真ん中に陣取って、包帯の隙間に器用に差し込んだ煙草をぶかぶかと吹かしていた。当然、近くを通る通行人の好意的ではない無言の注目を集めていたが、誰も注意しようとはしない。それはそうだろう。そんな透明人間みたいなミイラ男みたいなイデタチの大男に関わろうとする物好きはいない。だが俺は人間の姿に飢えていた。
禁煙ですよ。
俺は、街灯に引き寄せられる蛾のようにフラフラとソイツに近づき、単にキッカケとしてそう云った。
そうかい、悪いね、と顔面グルグル巻きの大男は答え、しかし煙草は消さなかった。それから、アレッと云って緑色のサングラスを持ち上げてずらし、
アンタ、生きてるのか?
サングラスの下から現れた真っ赤な目玉が俺を見つめる。
2019年1月17日木曜日
ニセモノの朝が来た
ニセモノの朝が来た。
朝日のニセモノと、さえずる雀のニセモノ。
牛乳瓶のガチャガチャだってニセモノ。
おはよう。これもニセモノ。
ニセモノの寝起きの僕ら。ニセモノの大あくび。
今日一日のニセモノを、また始める。
現の虚 2014-5-6【ジェノベーゼソース】
昔から時々オカシナヤツが口にしてきた「宇宙の真理に触れて世界の見え方が変わる」という状態は、今、俺が体験しているようなコトじゃないと思う。つまり、乗ったタクシーの運転手が制服を着たネコザメだとか、落とした財布を後ろで拾ってくれたのが若い女の格好をした舞々被(マイマイカブリ)だとか、早朝のゴミ置き場でゴミを散らかしてるのが空飛ぶカツラの群だとか、そういうことじゃない。
そう見えるだけだから実害はないと云われたが、実害はありそうだ。明日は月曜で、俺は働く社会人だから、会社に出勤しなければならないが、こんな調子だと出社したところで同僚や上司の見分けもつかないだろう。
服や喋り方で分かるわ。それに、そんなのがなくても、なぜか分かるものよ。人間って不思議よね。
と、俺をこんなふうにした張本人が無責任に云う。
騙されたと思って行ってみなさいよ、大丈夫だから。
行ってみた。騙された。
仕事が終わると、俺は自分のアパートではなく、俺をこんなふうにした張本人であるコビ(偽名?)のマンションに、這うようにして帰った。理由は知らないが、コビの部屋にいるときだけ、俺は「宇宙の真理」に触れる以前の状態でいられるからだ。
確かに姿形が変わっても上司や同僚の見分けはついた。だが、それが逆にいけなかった。慣れ親しんだ人間が、扇風機や、新聞の束や、ナンダカよく分からない金属部品の姿になって、俺に指示を出したり、愚痴ったり、今夜一杯どうよと誘ってくるのだから、ものすごく疲れる。全く知らない人間が家電製品だったり虫だったり分度器だったりするのは割合平気でやり過ごせる。そういう連中はただ通り過ぎるだけだからだ。だが、同僚や上司はそうはいかない。俺に積極的に話しかけて来るし関わって来る。仕事なんだからそりゃそうだろう。そして俺も彼らの「元の姿」を覚えいている。だからタイヘンなのだ。脳が記憶と現実のズレを処理しきれない。そのストレスったら相当なものだ。
という話を、俺は、対面式のキッチンの奥でジェノベーゼソースを作っているコビにした。
じゃあ、しょうがないからちょっと調べてあげるわ。
30分後、鳥もも肉のジェノベーゼソース掛けを食べながらコビが云った。既に食べ終えていた俺は、瓶の底のモレッティを飲み干して、何を調べるのさ、と訊いた。
アンタが世界の真理に触れることをやめて特別な視点を失ったまま生き続ける方法よ。
イヤな云い方をする。
2019年1月16日水曜日
呪われた人形
僕たちは呪われた人形。
決して死なないし、実は生きてさえいない。
音楽が流れ、束の間、人形は踊る。
音楽が去れば、人形は止まる。
去ったのは音楽で、僕らじゃない。
僕たちは呪われた人形。
決して死なないただの形。
現の虚 2014-5-5【真理に触れると世界は生きづらくなる】
そう見えるだけで実害はないと云われた。オカシク見えても、それがオカシイと思えないなら尚更実害はないとも云われた。昨日まで屋根の上や道ばたでチュンチュン云っていたスズメが、今日見たら、全部アナゴの握り寿司になっていたとしても、それがオカシイと思えないなら、それはそれでいいでしょうと云われた。
その通りだ。
珈琲屋の窓ガラスの外。今、俺の目の前を、ヒモに繋いだ炊飯器を散歩させている、ふわふわのコートを着た冷蔵庫が通り過ぎて行く。
気がついたと思うけど、起きているコトにオカシナところはひとつもないのよ、と、珈琲カップにシナモンスティックを突っ込んでコビが云う。歩道を通行人が歩いていて、珈琲屋では客が寛いで、片目の店長はいつもどおりにクール。ごくありふれた日常。変化が起きるのは生き物の〈姿〉だけ。
確かにその通りだ。そう云っているコビの姿が、俺にはさっきからでっかいカピバラに見えている。銀色のヘルメットに二眼ゴーグル、茶色の革のつなぎを着たバイク乗りのような格好のカピバラが、げっ歯類特有の細い指の変な手で器用にシナモンスティックを摘んでカプチーノをかき回している。
生き物の姿がことごとく妙なことになっているだけ。事件は何も起きていない。
一生こうなのかと訊いてみたら、一生そうねと無慈悲な回答。
昨日も云ったけど、クスリの副作用だから。クスリが効いている限りずっとそう。クスリの効果がキレたら副作用もなくなるけど、同時にアンタも死ぬ。だから一生、アンタが今見てるこういう世界のまま、とカピバラ姿のコビ。
慣れるしかないのか。
そうね。アンタだけじゃないわ。いろいろいるでしょ。脳の障害で、ある日突然世界が白黒になってしまった人とか、記憶が数分しか続かない人とか、親兄弟が全員偽物にしか思えなくなった人とか、そういうふうなもんだと思うしかないね。
不便だなあ。
あの部屋から出なければいいのよ。あの部屋のテレビでなら、これまでと同じ生き物の姿を見ることも出来るから。
テレビを通してだけ本当の世界が見られるってことか。
違う違う。あの部屋にいるときだけ、他のみんなと同じに世界が見えるってだけのこと。実際に直接自分の目で世界を見れば、それがアンタにとっての本当の世界の姿。あっ、これってなんだか宇宙の真理の一端に触れてる気がする。
真理に触れてるのかもしれないけど不便だよ。
真理に触れると世界は途端に生きづらくなるものよ。
2019年1月11日金曜日
現の虚 2014-5-4【副作用】
部屋の中では煙草を吸うなと云われていたのでベランダに出た。雪は降り続いていた。遠くの空の、青紫に光っている雲の前を龍のようなものがうねうね飛んで行くのが見える。
それにしても19階はものすごく高い。19階でこんなに高いんだから、最上階の60階は恐ろしいことになっているはずだ。大体こんな高層なら、普通、窓は全部ハメゴロシじゃないのか。それとも住宅は違うのか。19階から落ちたら下に着くまでしばらくかかるだろう。60階から飛び降りたら、空気との摩擦で途中から燃え出すんじゃないか。
などと思いながら、ベランダに積もった雪の中に突っ立って煙草を吹かしていたら、部屋に灯りが付いた。バイク乗りのような格好をした小さい女子が両手で抱えて運び込んだ買い物袋をテーブルに置くのが見えた。この部屋を盗んで家主になりすましているコビ(偽名?)が帰って来たのだ。俺はベランダのガラス越しに手を振った。
盗んだわけじゃないわ、と自分の小皿で餃子のタレを作りながらコビが云った。死んだ人間に所有権なんてないもの。所有権のないものを使ってるんだから、空気を吸ってるのと同じでしょ。
なるほど。俺はそう云って、大皿に盛られて湯気を立てている餃子の山に箸をのばした。俺は、コビの手作り餃子を30個と白米を茶碗に1杯、ビールの中瓶を1本半飲んですっかり満足した。それで気が大きくなって、訊かれてもないのに、今の自分には変なものが見えるのだ、と話した。
逆の立場で、俺がもし、前日に道で拾った女子から、通行人が箒や鶴嘴に見えるとか、空に龍が飛んでるのが見えるとか聞かされたら、きっとメンドクセエと思うだろう。だからコーユーコトは黙ってる方がいいのは分かっていた。けど、多分、手作り餃子とビールをごちそうしてくれる相手に対して、人間は誰でも、遠慮や警戒心をなくすのだ。
俺のメンドクセエ話を聞いたコビは、澄ました顔で最後の餃子を箸で摘むと、クスリのせいよ、と云った。
副作用ね。クスリが効いてる間はいろんなものがいろんなふうに見えるけど、クスリがキレたらアンタ死んじゃうんだから仕方がないわ。この部屋にいれば副作用は現れないから、変なものが見えてイヤなら外に出なければいいのよ。
いや、変なものが見えても構わないんだけど、変なものが見えても何とも思わないのがブキミなのさ。
どっちにしろ、アタシには関係ないから。
コビはそう云って最後の餃子を口に入れた。
善悪の物差し
山頂から見れば周りは全て谷であり、
谷底から見れば周りは全て山である。
究極の善にとって世界は悪で満ちており、
究極の悪にとって世界は善に満ちている。
善悪の物差しは宇宙よりも長く、
我々はその両端を知らない。
2019年1月9日水曜日
現の虚 2014-5-3【電話ボックスの中で】
凍死しかかってまだ本調子じゃないんだからしばらく出歩かない方がいいわよ、と云われていたが、俺は外に出た。知らない街でも少し歩けばコンビニくらいは見つかるだろうし、コンビニが見つかれば煙草も買えると思ったからだ。
予想どおりコンビニはすぐに見つかった。中に入って、週刊誌の「一家五人惨殺事件」の記事を立ち読みし、缶珈琲の新製品がないかを確かめ、何も持たずにレジに向かい、煙草を買おうとして驚いた。
店員の頭がスゴく小さい。
遺伝病や怪我の後遺症のレベルの小ささではない。握りこぶしくらいしかない。ただ、オカシイのはサイズだけで造形は普通の人間の頭部。遠慮がちに染めた髪の毛を遠慮がちに立てた若い男。
ラッキーストライクを。
俺は煙草を買った。頭のスゴく小さい店員は、応対も普通。声も普通。言葉も通じた。ただし、出してきたレシートは紙ではなく濡れたワカメだった。もちろん受け取らなかった。
店を出ると、曇り空から雪が落ちて来た。頭に雪を積もらせながら歩いていると、最近はあまり見ない公衆電話ボックスがあった。しかも電話機の上には灰皿が。
俺は迷わず中に入り、今買った煙草を取り出し火をつけた。電話ボックスの中で電話もせずに煙草だけ吸っていると、通行人がチラチラ見ているような気になる。俺は受話器を取って耳に当て、電話しているフリをして、煙草を吸った。
煙草の煙越しに電話ボックスの中から通りを見ていてあることに気付いた。行き交う通行人の半分がマネキン人形だ。脚を全く動かさず、道の上を滑っている。頭も変な角度に傾いたままだ。そして通行人のもう半分は人間のカタチすらしていない。人間の服は着ている。けど、中身はスコップや鶴嘴や竹箒。ああ、あの太ったヤツはコンクリートミキサーじゃないか。
俺は電話しているフリを続けながら、人間の服を着た人間でないものたちが通り過ぎる様子をしばらく眺めた。それから灰皿でタバコを消し、少し考えてから、ヤッパリオカシイと思ってゾッとした。目の前の光景にではない。俺は、非現実的な光景を目の当たりにしても、特にどうとも思えない俺自身にゾッとしたのだ。アカラサマな不思議を理詰めでしか不思議だと思えないのは、俺の中のナニカが重篤な機能不全を起こしているからに違いない。
その時、フリをするのに耳に当てていた受話器から声が聞こえた。
そこから人工衛星は見えるか?
俺は受話器を耳に当てたまま、空を見上げた。
ハナカミ女
ハナカミ女が僕の仕事場の窓の外に立つ。
黙ってこっちを見てる。
眼鏡をかけて頭はボサボサの丸顔。
ハナカミ女は僕の窓の外で鼻をかみ、
そのちり紙を僕の机の横のゴミ箱に投げ込む。
入った…
ハナカミ女、逃げていく。
2019年1月7日月曜日
現の虚 2014-5-2【不凍糖タンパク肉うどん】
小柄の女は「コビ」と名乗った。
寒い場所の生き物の体液が凍らないのは、不凍タンパク質とか不凍糖タンパク質とか不凍糖脂質のオカゲよ、とコビは云った。体液に含まれるそういうタンパク質が氷結晶化の邪魔する。だから凍らない。
つまり、俺が凍死せずに済んだのもそのフトートーのオカゲ?
アンタはアタシが助けたから死なずに済んだのよ。
俺は、つけたばかりで少しも暖かくないストーブの前に陣取る。コビは対面式キッチンの奥に入った。
いいマンションだ、と俺は云ってみた。
アタシのじゃないけどね。
ああ、そうなの?
コビは冷蔵庫から野菜だの肉だのを取り出して料理を始めた。
赤の他人の家。ある年寄夫婦の遺産。真冬の北陸をドライブ中に車ごと崖から落ちて二人揃って海の藻くずよ。事故のことはアタシ以外誰も知らないから、この家にはまだその年寄夫婦が住んでいることになってるんだけど、本当は空き家。だから勝手に使ってる。いろいろな支払いは全部引き落としになっているから、そういう方面からバレることもないし。
なんで、君だけが事故のことを知ってるのさ?
二人の幽霊に直に聞いたのよ。
そうなんだ。
そうよ。
警察に知らせようとは思わなかった?
逆に訊くけど、なぜ知らせなきゃいけないの?
子供とか親戚とか知り合いとかに教えてやらないと。
意味が分からないわ。
全ての材料を切り終えるコビ。包丁を洗う。
いつからさ、と俺。
なにが?
いつからここに?
半年前。
コビは、鍋に、切った材料を入れ、出汁の粉末を入れ、醤油を入れ、軽くかき混ぜて蓋をした。適当。料理は適当。愛情じゃない。
今、引き落とし口座にお金を入れてるのはアタシだから、もう実質アタシの家みたいなものなんだけど、名義は死んだ年寄夫婦のままだから、マンションの管理人も町内会も役所も交番も、みんな、今もここにその年寄夫婦が住んでると思ってるのよ。面白いでしょ?
なにが?
だって、死んだかどうかを決めるのは死んだ当人じゃないってことだもの。人間は、まだ生きている周りの人間に気付いてもらえなければ、死ねないのよ。現に、世間的にも書類上も、その年寄夫婦はまだ生きてる。
コビは冷凍庫から冷凍うどんを取り出した。
こういう冷凍食品にさっきの不凍タンパク質の知識が生かされてるわけ。
鍋の蓋を開け、湯気の中に凍ったうどんを放り込む。
何が出来るんだろう?
肉うどん。
死んだのに死んでない年寄夫婦の家で、俺は肉うどんをごちそうになった。
兵隊になって戦場で死ぬとき
兵隊になって戦場で死ぬ時、
ああ、こうだったのかって思うだろう。
気がついたら生きていて、
ツマラナイけど大切なことが
ホントに、いろいろあったのに
初めて来たこの国で、
ただ、こうやってお終いになるんだなって。
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