「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月25日金曜日
現の虚 2014-6-3【ディンク】
気にしなくていいわ。時間は主観だから。アンタがコントローラのボタンを押さずに博士の発言を先に進めなければ、博士の時間は、アンタから見ると止まってるけど、博士自身にとってはタダの一秒も止まってない。
コビはそう云うと、鞄から小さな五徳と金属製のカップとジッポーを取り出し、ちゃぶ台の上に並べた。4畳半のアパートに強引に取り付けられた小さな流しの水道でカップに水を汲んで五徳の上に置くと、ポケットからクレンジングオイルが入ったような掌サイズのボトルを取り出し、頭のポンプを押して、金色のドロっとした中身を一雫、カップの水の中に落とした。最後にジッポーに火をつけ、カップの載った五徳に下に差し入れた。
俺はテレビに向き直りゲーム機のコントローラのボタンを押して、画面の中でずっと待ってる博士の発言を進めた。博士は、人工人格を作る技術を最初に示したのは実は死神(意外な登場!)なのだが、具体的な装置は殆ど博士が一人で作り上げたのだ、と全部カタカナで自慢していた。
なんていう飲み物?
飲み物じゃないわ。
ジッポーの火に熱せられたカップの中身がプシプシ音を立て始めた。
いいわ、行きましょう。
途中だけど?
いいのよ。
俺はコントローラをちゃぶ台の上に置いた。
部屋を一歩出ると、外はやはり黒一色の世界だった。またしても俺は白杖をなくしたモージンのように、ドイツ製暗視ゴーグル「ナハト・ヴァンピール」を付けたコビに手を引かれて暗闇の中を歩いた。歩きながら、テレビもゲームも電灯も、そしてなにより火のついたジッポーをそのままにしてきたことが気になっていた。火事の心配だ。
平気、と暗闇の中からコビの声がした。
俺は真っ暗な中を手を引かれて歩く。板張りの床は何度か折れ曲がっているうちにカーペット敷きに変わった。音の反響も少し変わったから、さっきより広い場所に出たのだろう。廊下から広間に入った感じだ。
正解。玄関ホールよ。
だが、相変わらずの真っ暗闇。と思ったら、遠くから小さな光が駆け足で近づいて来た。現れたのは、ランタンを提げた、体の曲がった小さく乾涸びた老人だ。老人はまず、暗視ゴーグルを付けたコビの顔をランタンで照らし、妙な顔じゃの、と云ってから、今度は俺の顔を照らして、歯のない口でふにゃりと笑った。
役立たずというコトバは、己の無知を知らぬ者が云い出したんじゃろな。
老人はそう云うと、ランタンの蓋を開け、クサイ息で炎を吹き消した。