「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月26日土曜日
■生物種にはそれぞれ「持てる声の大きさ」の限界がある
NHKドラマ『フェイク・ニュース』を見ていて思った。生物種が持てる「声の大きさ」には、それぞれ限界がある。言い換えるなら、或る生物種が、個体として持てる「声の大きさ」の限界を超えた時、その生物種集団には、制御不能な混乱(過ぎ去るのを待つしかない嵐のような)が頻発するようになる。鼓動の速さと寿命に相関性があるように、声の大きさと「安定的な集団の形成能力」にも相関性がある。
**
「メッセージの伝達/伝播/拡散」という観点からすると、メディアとは、つまりは〈大声〉のことだ。声が大きければ、多数の人間/遠くの人間に、メッセージを伝えることができる。かつて、この〈大声〉は、いわゆる「マスメディア」にしかなかった。インターネット(SNS)の普及によって、全ての個人が〈大声〉を出せるようになり、社会のアリヨウが変わった。全ての個人が、潜在的/原理的に、より多くの人間/より遠くの人間に声を届けられるようになって、社会には、便利や恩恵も生まれたが、それと同じくらい混乱と動揺も生まれた。
みんなが〈大声〉を手に入れたのなら、一周回ってみんな同じ声の大きさで、だから何の問題はないだろう、と思ったらオオマチガイだ。
声が大きければ「動員をかけられる」。すなわち、より大勢で集まって何かヤラカスことができる。アイツも声は大きいが、アイツのことが嫌いなオレも声が大きい。すると、アイツもオレも同じように「動員をかけられる」。集団対集団で、お互いを潰し合う。ごくお手軽に、個人発信で、「暴動」「抗争」「戦争」を仕掛けられる。
ひとりぼっちの「助けて」を世界中に響かせることが出来る〈大声〉は、独りよがりの「ヤツラを殺せ」も世界中に響かせることができる。「全員の声が大きい」とはそういうことだ。問題、大ありだ。
新聞やラジオやテレビは、声は大きくても、結局は組織だ。組織は[社会内社会=メタ社会]だから、やっぱり、社会の[仕組み=力学]が機能する(効く)。つまり、社会の[仕組み=力学]で動いている新聞やラジオやテレビは、いくら声が大きくても、(たぶんいい意味で)社会に阿ったり、すり寄ったりする。商売として成立したい/しなければならないという「意識」も「イイ」方に働く。
一方で、SNSをはじめとするネットに於ける個人発信の〈大声〉は、個人の「積み上がり/寄せ集め/たくさんの個人」でしかない。当然、社会の[仕組み=力学]が通じないから、ムチャしがち。
個人発信の〈大声〉は、アナログ的にではなく、デジタル的に広がって行くことで実現される〈大声〉。
ここでいう「アナログ的」とは「伝言ゲーム的」ということ。SNSこそ伝言ゲームだと思われがちだが、それは違う。「アナログ的」の喩えとしての「伝言ゲーム」はフツウの伝言ゲームだ。それは参加者のやる気や能力やらに「ばらつき」があるということ。だから、伝言がゲームになりうる。喩えは極端にした方がイメージしやすい。「アナログ的」の喩えとしての「伝言ゲーム」の参加者の中には、全くやる気のない者や、聞いた伝言を次の者に伝えるべきではないと判断する者や、あるいは、地蔵、猫、丸太などでさえ混じっている。つまり、伝言が途中でドウニカなってしまう可能性が非常に高い。ちょうど、乾いた地面の上を水が広がって行くとき、途中に、地割れや、山や、高分子吸収シートや、クジラの死骸があれば、水の広がりはそこで止まってしまうのと同じ。ここではそのようなものを指して「アナログ的」という。
では「デジタル的」とはどういうことか? そう、離散的ということだ。0と1の組み合わせ、有ると無いの並び。1と1の間に、どれほどの0が挟まっていても(言い換えるなら、なんらのつながりがなくても)、次の1、その次の1と「つながり」続ける(うん、わかりにくい。しかも、本来のデジタルって、多分そういう意味じゃないだろう)。敢えて「伝言ゲーム」の喩えでいうなら、それぞれの間にどれだけ多くの無関心者、非協力者、あるいは人間以外が座っていても、なぜか伝言が、タローからジロー、ジローからサブロー、シローへと、全ての〈潜在的な賛同者〉に問題なく伝わって行く。伝わって行くというか、まあ、知るところとなる。それは、別の見方をすれば、参加者全員がなぜか一人残らずやる気満々で、しかも一字一句間違わない能力を備えた者たちばかりの伝言ゲーム(もはやゲームにはならないが)。それが「デジタル的」という意味だ。
アナログ的伝言は、途中の伝言者たちの色々なフルマイが原因で、伝言内容(メッセージ)が徐々に劣化していく。時間もかかる。そして、最終的には霧散する/野垂れ死ぬ。一方、デジタル的伝言は「非協力的な中間伝言者」の影響を一切受けないので、劣化も消滅も死に絶えもしない。それは、「信じる者」の脳や意識や魂に直接話しかけてくる神だの精霊だの悪魔だの先祖だののコトバに似ている(もちろん、その場合[ネット接続された端末]という[amulet=オマモリ]は必携である)。対象者を全地球規模と考えた場合、どちらが、より多くの伝言賛同者を集めるかは明らか。ネット発信の〈大声〉は、相対性理論的ではなく、量子論的に広まり、ゆえに時空間を無効化してしまう。大きな動員や賛同や暴動に繋がりやすい理由はここにある。
**
などと、くどくど書いてきたけど、こんなことは誰でも知ってることだからドウデモよくて、件のドラマを見ながら、イチバン「ああーなるほどこりゃ確かにダメだ」と思った「ダメの中身」は、初めに書いた通り、[生物としての人間のそもそものスペックが、個人発信の〈大声〉に非対応]ということ。もっと正確に言うと、[個人がそれぞれにマスメディア並みの〈大声〉を手に入れた時に、そういう個人が集まって作った社会を、人間はどうやら制御できない]ということ。
うん、まだ不正確。
人間に可聴音域や可視光域が厳然と存在しているように、あるいは、恋愛感情を持ったり、子供を欲しがったりすることが人間にとって「アタリマエ(生物としての逃れえない宿命)」であるように、[或る意見に賛同し、その賛同者が或る一定以上の人数集まった時に、集団ヒステリー状態に陥ること]は、これはもう、人間の生物としての「本性」で、このこと自体は、まあ、どうにもならないのだが、人間は、自分たちのこの「本性」に気づいていながら、その陥穽に落ちてしまうようなことをやめられない。それこそが「ダメの中身」。まるで、自分の正体を知っていながら満月を見ずにはいられない狼男。
集団ヒステリーを起こしうるだけの人数に届けられるだけの〈大声〉も、銃の殺傷能力も、組織の所有であるうちは制御可能だ。先にも書いたが、組織とはメタ社会だからだ。そうした能力が、人間の手にあまり始めるのは、社会を構成する全ての個人が、それらを手に入れてしまった時だ。自前の声やゲンコツのつもりで、「ついカッとなって」「ほんの出来心で」、SNSの〈大声〉や銃の〈暴力〉に「モノを言わせる」個人が、百万人に一人いれば、地球全体でその数は(70億割る百万で)7000人になる。7000人の扇動家/世直し屋/中学生に引きずられて、毎日のようにどこかで「正義のため」「子供達の未来のため」「人類のため」あるいは「世界の終わりを果無んで」行進や暴動や大量殺人が起きる。当然、世の中はシッチャカメッチャカ。
繰り返しになるが、問題の本質は、SNSの〈大声=情報の拡散性〉や銃の〈暴力性〉の強大さ強力さそのものではない。問題の本質は、それらの使用が、制御不能で取り返しのつかないことになると分かっているにも関わらず、実地では、自前の大声やゲンコツと同じように、「ついカッとなって」や「ほんの出来心で」を適用してしまうことを、人間が個人レベルでは(というとは、自由で民主的な社会では)防げないこと、すなわち制御不能なことだ。この制御不能性こそが、「人間の限界」であり、この問題の本質であり、今、ネット社会ならではの、動揺や不安や混乱を引き起こしている根本原因。
まあ、自動車や旅客機や原子力発電の「利用」についても同じ「病根」が存在し、それは、「自分自身の死」を「棚上げ」にして生きるしかない人間の持病なのだが、それはまた別の機会のオハナシ。
2018/10/31 アナトー・シキソ