「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月23日水曜日
■鈴木差別
ちょっと前に、グラミー賞かなんかの偉い人が、受賞者に女性が少なかった結果を見て「女性はもっと頑張れ」と云ったら、「女性は十分頑張ってる」と噛みつかれたというニュースを読んだけど、噛みつかれた方も噛みついた方もドウカと思うね。
或る人物に注目した時にその人物の性別に目が行くのは、性別をその人物の判断基準の一つとみなしているから。だから、上の「女性はもっと頑張れ」は、女性を応援することで男女平等の立場を表明しているようでいて、実は、性別を考慮に入れる必要のない状況でさえ人間を男と女に分けて考えているという点で、根深い性差別意識の表明になっている。一方で、「いや、女性は十分ガンバッテる」と噛み付くのも「女性はもっと頑張れ」と同じ次元の発言で、根底には性差別意識がある。なぜなら、「女性はもっと頑張れ」という発言の持つ、そうしなくていい場面でも人間を女と男にわけて考えるという考え方、つまり性差別の思考形式に無批判であるばかりか、むしろその前提を認めた上での反論だからだ。
もし、本当に性差別意識がないなら、グラミー賞の受賞者が全員男でも全員女でも、そんなことまったく気にならなないはずだし、「女性はもっと頑張れ」という発言に対する噛みつき方も、「いやいや、それぞれの受賞者はその性別を代表しているわけでもなんでもはないだろう、馬鹿野郎(男性と女性がそれぞれのチームになって賞レースを競っているわけではないから)」となるはずだ。
こんなことはちょっと考えればすぐにわかることで、例えば、何かの受賞者の姓が全員「渡辺」だったとして、賞の偉い人が「鈴木はもっと頑張れ」とは云わないし、それに噛みついたどこかの鈴木が「いや、鈴木は十分頑張ってる」とも云わない。もはや「姓差別(誤変換ではない)」は存在してないから(お家大事の封建社会ではあっただろうけど)、いまやそういう場合の「姓」の偏りに目が行く者など一人もいない。せいぜいがその偶然をオモシロがるくらいだ。
性差別もそうだし人種差別もそうだし、いわゆる部落差別なんかも同じなんだけど、差別対象を対置して「こっちとあっちのバランスを取ろうとする」やり方は、「こっちとあっち」という意識を手放す気がない点で、それ自体が差別意識の現れであり助長であり「延命」行為となる。上の「鈴木差別」の例でいうと、渡辺が多くて鈴木が少ない状況を変えるために、意識的に鈴木を増やそうとするのは、差別意識の先鋭化をもたらすだけ。本当に取らなければいけないのは「苗字なんか関係ねえよ」という態度。
つまり、差別問題の本質は、例えば、或る数式に〈不要なパラメータ〉が組み込まれることで本来なら起こるはずのない混乱や誤りが生じることと同じなのだから、やるべきことは〈不要なパラメータ〉の〈調節〉ではなく、〈不要なパラメータ〉それ自体の〈排除〉だということ。
(2018/02/08 アナトー・シキソ)