2019年1月28日月曜日

現の虚 2014-6-5【盗み聞くエレベータ】


エレベータの非常用インターホンに耳を当てると話し声が聞こえた。

俺の乗っているエレベータは緊急停止したわけじゃない。ちゃんと動いている。電灯もついて、中は明るい。ただ、もうずいぶん経った気がする。思い出せないほど昔から乗っているはずなのに一向に目指す階に着かない。しかもひどいポンコツで巻き取り機の音が無駄にウルサイ。だが、そのオカゲで動き続けていることはよく分かる。一番気に入らないのは、アナログ式の階数表示の針が取れて、床に落ちていることだ。今何階なのかが全く分からない。

そんなこんなで俺は非常用インターホンのボタンを押してみたのだ。

返事はなかった。具体的な非常事態でなければ、そもそも繋がらない仕組みなのかもしれない。つまりその場合、乗客(俺)の単なる不安は、具体的な非常事態ではないということだ。

ただ、インターホンからは小さな話し声が聞こえた。俺はそれを盗み聞くことにした。

……世界は科学によって解明される……もちろんさ。科学技術がそれまで不可能だった実験を可能にするからね……そういう意味じゃないんだ。そういう意味もあるけど違う……何がさ?……科学技術は人間の頭脳にそれまでは起こりえなかった理解をもたらす……というと?……例えば、僕らが管理しているこのエレベータは等加速度運動と重力の関係を理解する上でとても役に立つ……等加速度運動と重力は同じものさ……そう。それを実感するのにエレベータほど便利なものはない……けど、あのユダヤ人はエレベータから閃いたわけじゃないだろう?……それは知らないけど、エレベータに乗れば誰でも等加速度運動と重力が同じだと実感出来るという点が重要なのさ。科学は科学的ではない万人に受け入れられてこそ世界を解明したことになるからね。エレベータに乗ったことのある者なら誰でも等加速度運動と重力が同じだという説を実感として受け入れることが出来る……サイレンを鳴らして通り過ぎる救急車のおかげで、誰もがドップラー効果を受け入れられるのと同じか……そう。それは理論の証明というより世界体験の拡張だよ。科学によって人々の世界体験が拡張されると、人間の頭脳は新たな世界像を獲得する。

俺はインターホンから耳を離し、エレベータのドアに手をかけた。手動式。開けて外に出る。俺の乗っていたエレベータは川の中州の粗大ゴミで、箱の屋根から伸びたワイヤーが一本、空の彼方にまっすぐ伸びていた。