平均的で自由な皇帝が文士のナガサに及ばぬ時、世界は一体であるとみなせる、とそのデンマーク人は云ったのさ。ホラ、ここにそう書いてある。
階段下の二人掛けの小さいテーブルで、俺は、人型をした薄緑色の靄に古い日記を見せられた。薄緑色の靄がもう相当に酔っていることは分かっている。俺の目の前で、目から火の出るような蒸留酒を何杯も飲み干してまだやめない。俺のグラスには最初に飲み干した後に注がれた二杯目がまだソノママある。靄が云う。
デンマーク人の名前は分かっている。マルチンだ。マーティン、マルチネス、マルティーニ。この名前はローマ神話のマルス、つまり火星が語源だと云われてる。
薄緑色の靄は、人型を崩しながら更に一杯、透明な蒸留酒を呷った。俺は小皿のナッツを摘んで齧る。頭の上に斜めに走っている階段を誰かが登って行く足音。二階は宿になっていると聞いた。一晩20ゴールド。ただし馬小屋に寝るならタダだ。俺は両替をしてないから、目の前の靄の話がこれ以上長引いて、もしここに泊まることになったら、選択肢は馬小屋しかない。酒はこの酔っぱらいの奢りだ。
平均的で自由な皇帝というのは、特定の誰かというより、ヒラけたアタマを持った公正な皇帝という意味だろうね。分からないのは、ナガサという文士さ。文士というのは、戯曲家や小説家や詩人やいろいろある。うっかりすると道ばたで自作の詩を吟じる乞食だって、ありゃあ文士ってことになる。本来、文士と乞食は同義だもの。そういうわけで、謎の文士ナガサを探し出すのは簡単じゃない。
と、ここで人型の靄が顔の部分を俺に突き出した。間近で見るその顔は、靄とは思えないほど明瞭な輪郭を保ち、はっきりと個人を区別できる人間の顔をしていた。
つまり、毎月集金に来る新聞屋の男の顔だ。
マルチンさ。マルチンという名前が大きなヒント。マルチンといえば、まず思いつくのが、もちろん、マルチン・ルター。そう、16世紀の宗教改革者。ニッポンで云えばシンランみたいなモノだね。だから、このコトバを云ったのはルターなのさ。彼ならいかにも云いそうじゃないか。
いや、けど、ルターはドイツ人だろ?
そうだったかな?
その時、今までおとなしく床に寝そべっていた店の犬が、人型をした薄緑色の靄に向かってケタタマシク吼えた。靄と俺は吼える犬を見る。
クヌーセン、このバカ犬、静かにしねえか!
店主に怒られた犬は悲しげに喉を鳴らして身を伏せた。