「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月18日金曜日
現の虚 2014-5-7【地下街のグルグル】
命を救うためという理由で、当人の了承なしに勝手に注射された正体不明のクスリのせいで、外出中に出会う全ての生き物が「チガウモノ」に見えるようになって約一週間が過ぎた。
俺は精神的にギリギリだった。
想像してみてほしい。人間サイズの魚肉ソーセージの一団と一緒に満員電車に揺られる毎朝の通勤を。あるいは、帰り道、ビルの隙間からこちらを振り返るブキミな深海魚「デメニギス」(透明な頭の中に目玉がある、宇宙服のヘルメットを被ったようなデザイン。本当は野良猫のはず)と目が合うことを。
いや、何よりも、勤務先の現場でのアレヤコレヤがもうアレだ。朝一番に会社の前を掃除するヒカリキンメダイに挨拶し、馬の鞍の指示を仰ぎ、ペットボトルへ電話を取り次ぎ、怠けてるスタッドレスタイヤを怒らせない程度にタシナめ、テレビのリモコンの浮気がバレそうなんだどうしようという話を自業自得だと笑い、電子レンジが繰り返す上司に対する悪口を聞き流さなければならない。しかも次の日には、会長や上司や部下や同僚が正体のそれらの姿は、またまるでチガウモノになっているのだ。
そんな一週間の終わりの金曜の夜。男物や女物の冬服に身を包んで地下街を歩くマッチ棒や電気湯沸かし器やその他雑多なモノたちにまぎれて家路を急いでいた俺は、もはや人ごみとも云えない人ごみの中にソレを見た。人間だ。この一週間、外出中には一度たりともお目にかからなかった人間の姿をした人間。
黒のロングコートを着て、緑色のまん丸いサングラスを掛けた長身。首から上が包帯でグルグル巻きになっているのが不気味だが、それでもちゃんと人のカタチだ。ソイツは、禁煙の地下街のコンコースのド真ん中に陣取って、包帯の隙間に器用に差し込んだ煙草をぶかぶかと吹かしていた。当然、近くを通る通行人の好意的ではない無言の注目を集めていたが、誰も注意しようとはしない。それはそうだろう。そんな透明人間みたいなミイラ男みたいなイデタチの大男に関わろうとする物好きはいない。だが俺は人間の姿に飢えていた。
禁煙ですよ。
俺は、街灯に引き寄せられる蛾のようにフラフラとソイツに近づき、単にキッカケとしてそう云った。
そうかい、悪いね、と顔面グルグル巻きの大男は答え、しかし煙草は消さなかった。それから、アレッと云って緑色のサングラスを持ち上げてずらし、
アンタ、生きてるのか?
サングラスの下から現れた真っ赤な目玉が俺を見つめる。