「我々はどこから来て、どこへ行くのか」という問いに対する答えは既に出ている。我々は、生命現象に依存しない知性現象を作り上げたのち、我々の「遺産」の全てを、その「真の知性現象」に譲渡し、我々自身は穏やかな「自発的絶滅」を遂げる。これが、我々人類の「役割」であり、我々人類の物語の最も理想的な結末である。今以上の科学力だけがこの理想的結末を実現できる。故に、科学のみが「我々人類が取り組むに値する活動」即ち「生業」であり、それ以外の人間の活動は全て、単なる「家事」に過ぎない。
2019年1月31日木曜日
■「メリークリスマス」と「ハッピーホリディ」
日本人が気軽に「メリークリスマス」と云えて、アメリカ人が他宗教に気を使って「ハッピーホリディ」としか云えないのは、日本人にとっての「メリークリスマス」が何ら宗教的な意味を喚起しない言葉なのに対し、アメリカ人にとってはやっぱり宗教的な意味を持つからだというのはそのとおりだけど、じゃあ、なんでアメリカ人はこんな「タダの言葉」にいつまでも宗教的な意味を抱きつづけているのかってところが、実は重要。
まずは、宗教に対する社会の「感受性」の違いがある。「感受性」というと何かイイもののように聞こえるが、それは「祟られ具合」と云い換えてもまったく意味が変わらないシロモノだから、少しもイイものなんかじゃない。子どもの頃から宗教的虚構で洗脳されると、それぞれが教え込まれた宗教的な虚構の骨組みに沿って世界を見るようになる。これが、宗教に「祟られている」状態で、それはナニ教であっても変わらない。宗教に「祟られた」状態で、「メリークリスマス」と云ったり聞いたりするので、過剰な意味づけがされて、決して失われてはならない大事なフレーズのように思えたり、逆に不快や反感の対象になったりする。
つまり、「メリークリスマス」を云うか云わないかは実は表層的な問題で、問題の本質は、アメリカ社会の善男善女がアイモカワラズ、宗教という[半動物的な世界像]に祟られ続けているということにある。
12月の末に「メリークリスマス」とは云わない他宗教の信仰者たちから絶えず「それは宗教的な言葉だ」と指摘され続けることで、「メリークリスマス」はますます「キリスト教のもの」になっていく。
アナトー・シキソ 2018/03/17*2019/01/31