2019年1月7日月曜日

現の虚 2014-5-2【不凍糖タンパク肉うどん】


小柄の女は「コビ」と名乗った。

寒い場所の生き物の体液が凍らないのは、不凍タンパク質とか不凍糖タンパク質とか不凍糖脂質のオカゲよ、とコビは云った。体液に含まれるそういうタンパク質が氷結晶化の邪魔する。だから凍らない。

つまり、俺が凍死せずに済んだのもそのフトートーのオカゲ?
アンタはアタシが助けたから死なずに済んだのよ。

俺は、つけたばかりで少しも暖かくないストーブの前に陣取る。コビは対面式キッチンの奥に入った。

いいマンションだ、と俺は云ってみた。
アタシのじゃないけどね。
ああ、そうなの?

コビは冷蔵庫から野菜だの肉だのを取り出して料理を始めた。

赤の他人の家。ある年寄夫婦の遺産。真冬の北陸をドライブ中に車ごと崖から落ちて二人揃って海の藻くずよ。事故のことはアタシ以外誰も知らないから、この家にはまだその年寄夫婦が住んでいることになってるんだけど、本当は空き家。だから勝手に使ってる。いろいろな支払いは全部引き落としになっているから、そういう方面からバレることもないし。

なんで、君だけが事故のことを知ってるのさ?
二人の幽霊に直に聞いたのよ。
そうなんだ。
そうよ。
警察に知らせようとは思わなかった?
逆に訊くけど、なぜ知らせなきゃいけないの?
子供とか親戚とか知り合いとかに教えてやらないと。
意味が分からないわ。

全ての材料を切り終えるコビ。包丁を洗う。

いつからさ、と俺。
なにが?
いつからここに?
半年前。

コビは、鍋に、切った材料を入れ、出汁の粉末を入れ、醤油を入れ、軽くかき混ぜて蓋をした。適当。料理は適当。愛情じゃない。

今、引き落とし口座にお金を入れてるのはアタシだから、もう実質アタシの家みたいなものなんだけど、名義は死んだ年寄夫婦のままだから、マンションの管理人も町内会も役所も交番も、みんな、今もここにその年寄夫婦が住んでると思ってるのよ。面白いでしょ?

なにが?

だって、死んだかどうかを決めるのは死んだ当人じゃないってことだもの。人間は、まだ生きている周りの人間に気付いてもらえなければ、死ねないのよ。現に、世間的にも書類上も、その年寄夫婦はまだ生きてる。

コビは冷凍庫から冷凍うどんを取り出した。

こういう冷凍食品にさっきの不凍タンパク質の知識が生かされてるわけ。

鍋の蓋を開け、湯気の中に凍ったうどんを放り込む。

何が出来るんだろう?
肉うどん。

死んだのに死んでない年寄夫婦の家で、俺は肉うどんをごちそうになった。