2020年3月11日水曜日

動物が自分の傷を舐めて治すのは、実は治してるんじゃなくて、傷が「美味い」からなんじゃないかと思っている。傷が「治って」くると、だんだんと「美味さ」が減ってきて、自動的に「治療」の頻度も減ってくるというよくできた仕組み。こういう、意識的な理解を伴わない(必要としない)動物の「合理的な行動」は他にもあって、例えば、哺乳類のメスが1日の内で定期的に子供に授乳するのは、授乳時間(の間隔)を理解してるんじゃなくて、単に乳が張ってくるから。つまり、一種の排泄としての授乳行為。だからダメというのではなく、逆。だから、好い、スバラシイのだ。

高度に複雑な行為の多くが、その成立に「理解」を必要としない。理解を伴わない行為に意図が見える(感じられる)ということを深く追求すると、心の問題に行き着く。

「理解」は心の一つの現象と考えることが可能だし、「意図」とはまさに心の別名だろう。或る種の意図を発っしたり持ったりする存在が、自らの意図を理解していないということはありそうな気がする。すると、心という現象のうちで、意図は理解よりも原理的ということが言えそうだ。原理的を言い換えて根源的としてもいい。あるいは原始的、本能的でも構わない気がする。つまりは、意図は理解よりも未開的ということ。

実際、例えば、子猫に授乳する母猫は、授乳の意図はあるが、授乳という行為に対する理解はなさそうだ。その状態を平たく言えば「なんだかわからないけどそうしたい」ということ。


今日は3月11日なので、例によって、テレビは、東日本大震災関連の番組があっちもこっちも。生まれ故郷に、特になんの理由もなく三十年以上「帰って」ない身としては(つまり、世の中の多くの人間があれやこれや言いながら定期的に生まれ故郷に戻りたがる理由がわからない身としては)、原発事故をきっかけに他所に引っ越した元住民たちを呼び戻そうしている人たちの活動には何の共感も覚えない。そういう人たちを非難するつもりではなく、呼び戻したがるその感覚が全くわからないという意味。


ボディビルに勤しむタイプは、ちょっとアレか、ノイローゼかのどっちかだ。でもまあ、それで言えば、毎日ラーメンを食べ歩くのも、バッグ50個持ってるのも、貧乏旅行がやめられないのも、みんな同じか。と言うか、死んで終わりという自覚を持っている人間という生き物がやることは所詮みんな「ボディビル」でしかないの…