死後の世界の話など持ち出すと死神に笑われるのがオチだ。死神は死なない。死なない死神にとって「死の後」は「四角い三角」「緑色の赤」と同じである。
死神は、単に死なない生き物である。生き物とは、物理現象の一形態である生命現象によって実現された、或るひとまとまりの機構と言えるだろう。生き物は機構すなわちmechanismに過ぎないのだから、故障・解体・破損等は必ずいつか起きる。しかし、人間が特別視する「死」という現象は、生き物には訪れない。厳密に言い直すなら、生き物に訪れる故障・解体・破損のうちで決定的に不可逆なものに対して、人間は「死」という特別の名前を与えてヨロコンデいるにすぎない。つまり「寿命が尽きて死ぬ」ということのない死神は、単にその類の故障が起きないだけで、はやり生き物という機構であるということに変わりないのだ。
こういう話を地下の喫茶店で死神とするのがオモシロイ。地下と言っても、地獄だのあの世だのという意味ではなく、近所のビルの地下にあるただの喫茶店だ。
死神の好物はタバコと珈琲。好物というよりは食料つまりエサだ。死神はタバコの煙と珈琲の液体だけで「生きて」いる。他は何も口にしない。と、少なくとも当人は主張する。死神が寿命で死なないのは、この特殊な食生活と関係があるのかもしれない。普通の人間の中にも、何年も土だけを食べて生きている老婆などが時々現れるが、ああいう連中も、妙に「健康」だったり「元気」だったりする。
しかし、因果が逆ということもあるだろう。特殊な食生活で「元気」なのではなく、「元気」だから特殊な食生活ができるのだ。とは言え、土食いの婆さんはともかく、死神などはおそらく後者のはず。死神の「元気」とは、端的に、寿命で死なず、いわゆる病気と呼ばれるものにも一切煩わされないということだ。
と、言ったそばからなんだが、死神だけが患う「病気」というものが存在することを、当の死神から教わった。名付けて「生命病」。これに罹った死神は、なんと寿命が「発症」し老衰死してしまう。
少なくとも、死神にとって、寿命とは或る種の病気であり、その認識は、心ある多くの人間からも共感を持って受け入れられるだろう。しかし、いくら共感されても死神は喜ばない。なぜなら「生命病」は、人間が不用意に死ぬことで生み出される特異な環境汚染が原因で引き起こされるものだからだ。