茶の湯のことを紹介した番組を時々Eテレでやる。探してまでは観ないが、たまたま出くわしたら、録画して何度も観る。茶の湯をやりたいからではない。ちょうどタモリのネタと同じ感覚で観るのだ。あるいは『ダーウィンが来た!』と同じ感覚で観る。すなわち、アカゲラがくちばしで矢鱈に木の幹を叩いたり、ビーバーが熱心にダム工事をするのを、バカバカしいと思いつつ、しかし大したもんだねと感心もしながら観る、アレと同じだ。
茶の湯に関わっている「伝統文化の人たち」が、大真面目に喋り、大真面目に様々な所作をするほど、こちらとしてはオモシロくて仕方がない。無論、茶の湯に限らない。能でも歌舞伎でも皇室行事でも、妙に伝統伝統したものには、この手のオモシロさ・コッケイさがあり、大好物である。
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25年後の『Twin Peaks』の「悪いクーパー(Mr. C」は「邪悪・極悪」なのではなく、単に「手段を選ばない」つまり「目的のためなら殺人も厭わない」だけのこと。その意味で、快楽殺人的な「悪いリーランド」とは全然違う。「悪いクーパー」は、ジェフリーズが口をつぐんだ「Judy」を探しているわけだが、それはおそらく「Judy」と共闘するためではなく、始末するためだろう。ということは、彼は、留置所でゴードンに説明したように、やはり捜査官として「極秘捜査」をしているのだ。FBIという組織に所属していては自由に動けないので(例えば邪魔者を好きに殺したりもできない)あんな感じの「行方不明状態」になっているのだ。と、今日観た第四回「BRING BACK SOME MEMORIES」で改めて思った。
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「リーマン・ショック」は、所詮人間が勝手に始めたゲームの一つの展開に過ぎない。言い直せば、人間が自分らで勝手に決めたルールに従っていることで起きている見せかけの騒動。勝手に作ったゲームでしかないのだから、ドウシテモな所まで行ったら、全て棒引きにすれば騒動は治る。一方、新型コロナ騒動は、人間が生命現象であることの限界を突きつけられている本当の騒動。
もう一つ。新型コロナと人間は、生命現象という意味で対等。それを別の言葉で言えば、この「戦い」は、どちらともに主人公で、どちらが「勝って」も「ハッピーエンド」ということ。とはいえ、もしも今回のコロナが人間だけをアテにして増殖しているのなら、どちらが「勝って」も「勝者なし」の「バッドエンド」。