2020年3月16日月曜日

ウエマツ事件の類をこれ以上起こさせたくなかったら、やるべきことはひとつ。しかも、特に難しいことでもない。全人類にとっての「呪い」である「生命教」に対して、人類が自覚を持つこと。そして、別に生命教に対する信仰を捨てなくも構わないから、とにかく自らの生命教信仰を客観できる立場にまで、自分を高めること。これは嘗てゴータマさんが説いたことで、別に新しいことでもなんでもない。

ウエマツ事件が事件になった契機は、犯人が「生命にも無価値な生命がある」と気づいたこと。しかしこの気づきは間違っている。なぜなら「生命には無価値な生命しかない」のが本当だからだ。もっと単純に言えば「生命には価値などない」のだ。

「生命には価値がある」は、全人類が信仰する生命教の教義に過ぎない。生命は単なる物理現象の一形態である。もしも生命に価値があるのなら、太陽が燃えることにも価値はあるし、宇宙が存在することにも価値はある。そして、太陽が燃え尽きることにも価値があり、宇宙が消滅することにも価値がある。

「生命には価値がある」が客観的事実なら、価値があるのは人間の生命だけではない。この地上でも最も人間を殺している蚊の生命にも、人間と全く同等の客観的な価値があり、人間が日に何千トン何万トンと「消費」している家畜や家禽の生命にも、人間と同等の客観的な価値がある。

人間の言う「生命には価値がある」の「価値」は、人間主体の人間本位の[非客観的な価値]でしかない。それはただの宗教で、要は「神様が尊い」と全く同じ意味の空虚なタワゴトなのだ。

重要なのは、これを全て踏まえた上で「生命には価値がある」という虚構が人間社会を成立させているのだという現実を受け入れることだ。人間の生命など、どこの誰のものであっても、客観的には何の価値もない。しかし、人間社会を構成する人間たちにとっては、価値があるものでなければならない。それは「生き物:人間」というゲームの根本のルールである。

「生命には価値がある」が、「人間というゲーム」の単なるルールでしかないことに気づきにくいのは、全ての球技に於いて、一度に一つの球を使うことがルールであるのに気づきにくいのに似ている。あまりに根本的すぎて、それが「作為」に過ぎないことが見えないのだ。

何はともあれ、「[生命は無価値]を踏まえた上で[生命の価値]を共有すること(=教育)」が、未来のウエマツたちを未然に防ぐ。