「見上げ入道」とか「伸び上がり」と呼ばれる妖怪の「目撃者」の生理現象としての正体はやっぱり「不思議の国のアリス症候群」だろう。すなわち、目にしたものが実際よりも小さく見えたり大きく見えたり近くに見えたり遠くに見えたりする「小視症」や「大視症」などとも呼ばれるアレだ。
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「生命教」の文脈でいうところの「生命現象の呪い」は、生命が「自然淘汰」に依存していることで生じる。自然淘汰は意思を持たない単なる機構なので、当然、善悪もないし、希望も理想も理念もない。自然淘汰は、なんであれともかく生き残ったものをヨシとする。これを別の言い方でいうと、友好的であれ、敵対的であれ、消滅せずに存在し続けたものを「正解」とするのが自然淘汰である。
日本にはうってつけの諺がある。「勝てば官軍」。自然淘汰の「態度」をこれ以上的確に表現した言葉は他にない。自然淘汰は、勝つための理由も方法も一切問わない。ただ、結果として勝てばよいのである。
自然淘汰の「勝てば官軍思想」は、生命現象に於いては「呪い」ではなく「動力」となる。それが「呪い」になるのは知性現象に於いてである。紛らわしくなるのは、そもそも生命現象というものが、知性現象を伴った物理現象のことだからだ。自然淘汰が、生命現象にとって「呪い」のように見えることがあるのは、それが[生命現象に必然的に含まれる知性現象]に作用しているからに他ならない。しかし、人間を別にすれば、地球上の生命現象に於ける知性現象の「占有率」や「含有率」は高が知れている。そうした生命現象に対して、自然淘汰は「呪い」としてよりも「動力」として強く働く。
人間がこのまま何億年も地上で繁栄し、科学力を限界まで高めたところで、依然として生命現象であり続けるなら、人間の周りには、様々ないじめや、あらゆる人殺し(親殺し、子殺し、自殺等々)、精神疾患、身体疾患が存在し続けるだろう。そしてそれは、憎みあい嫌いあう個人や集団を出現させ続ける。つまり、簡単に言ってしまうと、生き物としての人間は、これまで同様、未来永劫、「死も憎しみもない楽園」を実現することはできない。それが「生命現象の呪い」言い換えるなら[自然淘汰という出自]ゆえの「呪い」ということ。
「生命教」に毒されている目には決して見えない真実がある。それは「生命は生命を尊ばない」ということ。生命が尊ぶのは「自分」だけ。それ以外は「資源」か「無視」