2020年3月7日土曜日

高齢者や持病持ちは重症化しやすく、逆に若い人間は感染しても無症状の場合さえあるということなら、毎夜繁華街を遊び歩いている孫と寝たきりのじいさんが同居する家があった場合、まずじいさんが発症し、それをきっかけに家族の他のメンバーの検査が行われ、結果全員の感染が判明していたとしても、その家族の最初の感染者は、最初に発症した寝たきりのじいさんではなく、夜毎遊び歩いていた元気そのものの孫である確率が高い、ということになる。必ずしも「最初に発症して死んだ人=最初に感染した人=ある集団にウィルスを持ち込んだ人」ではないということを理解すること。


信楽焼に見られる白いつぶつぶは、鑑賞用語で「蟹の目」と呼ばれる。正体は信楽地方の土に含まれる長石や石英。(『ブラタモリ』より)

それにしても、信楽と甲賀、隣り合う二つの地方の、一方は焼き物で文化的に発展し、他方は山城だらけで戦(甲賀忍者)に明け暮れたその本当理由が、彼らの足元の地層にあったというのは実に興味深い。タモリも言ってたが、人間は自分の意思で生きているつもりでも、実際、多くの場合、多くの部分で、置かれた環境によって操られているのだ。なぜなら、人間は、生き物であり、生き物それ自体が環境の一部だからだ。


非常事態宣言中の二度目の週末を迎えた札幌市だが、もう道路は車がうるさい感じ。先週の静けさはどこにもない。コロナの「恐怖」に「慣れた」し、コロナの「騒ぎ」に「飽きた」のだろう。いかにも生命現象らしい反応。各個体の一定割合の損失は、生命現象全体から見れば、初めから織り込み済みの「必要経費」なので、当事者たる各々の個体も、当初は騒いだり身を潜めたりするが、「これで急激に絶滅することはない」と「本能」的に気づけば、以前の生活を再開するようになるわけ。

全ての生物個体には「使用期限」があり、その使用期限が来る前に、やるべきこと、すなわち「生命現象」という現象自体を継続させるための作業に取り組まなければならない。たとえば、すべての人間は百年後にはまず間違いなく死ぬと分かっている。それは、「新型コロナウィルス感染からの発病」に対する恐れや推測などとはまるで次元の違う「将来の事実」。しかし、だからと言って、人間は呆然ともならないし、自暴自棄にもならない。まるでそんなことは知らないかのように、ある意味「無感動」に生命現象の継続に貢献するための行為に勤しむ。