昨日まで書いた「千文字作文」がどれも千文字に足りてないことが判明した。原稿文字数を表していると思っていたウィンドウ左下の「字:」の数が、実は、改行やスペースなどの「不可視文字」も含めた数だったのだ(「字:」の部分をクリックして「原稿:」に切り替えると、ちゃんと原稿の文字数が表示される)。今まで書いた散文(ただの千字作文)は、今日の昼のうちに全て千文字に修正し、「√」(現の虚2020)も半分くらいは千文字に修正を済ませた。全ては、最近JeditXから乗り換えたJeditΩに慣れていないのが原因。
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初代『ガンダム』を取り上げた『しくじり先生』(プレゼンターはカズレーザー)を観て改めて思った。将来への潜在能力はともかく、子供のその時点での能力・理解力は高が知れてる(『ガンダム』を理解できない読解力)。だから、大人も社会も[子供としての子供]の能力を買いかぶりすぎてはいけない。苗には米ほどの価値はない。時間をかけてエネルギーを注ぎ込むことで価値が生まれる。教育が価値を生む。
言い方を変えよう。生命現象としての価値なら、子供は大人と対等だろう。しかし、知性現象としての価値は、子供は大人の足元にも及ばない。三人の子供を見殺しにして、大人の医者ひとりを助けたほうが、村人全員の命を救うことになる、というような話が、人間の知性現象としての価値。
話がややこしくなるのは、人間はいずれは死んで腐る生命現象なので、いくら知性現象としての価値で圧倒していても、大人は子供を蔑ろにできない。なぜなら、知性現象の系譜が途絶えさせないためには、現時点では、子供という「延長用媒体」に頼らざるをえないからだ。
これを逆に言うと、たとえば、もし人間が不老不死を実現し、生命現象から実質的に「卒業」してしまうと、大人にとっての子供の価値は、今、人間がペットに見出している価値に限定されてしまう。つまり、知性現象のための「延長用媒体」はもはや不要なので、その面で子供をアテにする必要性がなくなり、結果として当然、その部分の子供の価値も消滅するという理屈。
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現代仏教やアブラハムの宗教にも、密林の奥地で精霊を崇めているような宗教に払うような、或る種の「敬意」なら、当然払うよ。しかし、絶対に、太陽系の外にわざわざ携えていくような代物ではないね。
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本木雅弘を取り上げた『プロフェッショナル』を面白く観た。本木って、ややアスペルね。